一冊の本は読まれるために存在しているとは限らない
重力に従って落ちた雨粒が、地面と衝突する。その衝撃で雨粒が弾け、それが新たな雨粒となり重力を逆らっていながら、凍える私などお構いなしに、私の足に降りかかってくる。この哀れな自分に、思わずため息をため息を吐いてしまうのだ。
本当に今日は災難な日々だった。上司に言われた書類を提出すれば、
「ここが甘い。」
「ここが良くない。」
仕舞いには
「これだから若者は。」
「これだから都会の者は。」
「東京の高学歴なら、大人しく東京の大企業にでも戻りんしゃい。」
「何を学んできたのかね。」
など、なかなかに聞き捨て難い内容の小言を言われる始末。挙げ句の果て、仲の良い1人の同僚がそれについて、あること、ないことを他の同僚に言いふらしているのを目撃してしまい、その日はいつものように爽やかに笑っている姿がどうしようもなく鬱陶しくなってしまった。お昼時の細やかな楽しみである昼食だって、大好きなツナマヨおにぎりが売り切れていた。SNSを覗いてみればそこにあるのは密かに恋心を抱いていた芸能人の結婚報告。
「そしてこの有様である。」
誰が乗っているか分からないような田舎の駅から数分たった時にそれは訪れた。天気予報ではそんなこと言っていなかったのだが、鼻に水滴が落ちるとすぐに、それは勢いを増していった。慌てて駆け出したはいいものの、その場所はコンクリートで舗装されておらず土のぬかるみに嵌ってそのまま転倒。それでも、漫画のようなシーンだと笑っている余裕などなかった。スーツは泥まみれ。雨宿りできる場所もない。雨足は強まるばかりで、夜であることも相まって視界は悪く、移動もまともに出来ない。とりあえず歩くしかないと、1人のOLは惨めな姿のまま、そして亡くした母から貰った大切なバッグを庇いながらよろよろと歩き出した。しばらくすると、何かの商店だったものだろうか、心許ないが少しは雨宿りできそうな場所に着いてやっと一息ついたところである。
しかし残念ながらこの暗がりの中、1人で帰るしか方法はない。雨は相変わらず止まないし、止む様子もない。天気予報のせいで傘もない。このままでは家に帰ることができないのだ。
「とは言ってもな。」
少しバッグを見つめる。よく何かのシーンでカバンを傘代わりにして雨の中を駆け抜けていくサラリーマン、もしくは学生をよく見かけるが、私にはこの母親の形見とも言えるバッグを犠牲にすることはできない。親戚も友人もこの街にはいないから誰にも助けを呼ぶことは出来ない。
何分たっただろうか、降り続ける雨が耳障りで無くなる程に、私はここに長くいる。ホワイトノイズに近しい何かを感じた私は、根拠のない安心感と、それに対する恐怖と、不運な自分を混同してしまう、そんな意味のわからない状態に陥る。処理できない情報量に私はただ口を開けているしかない。
「なんで今日はこんなに。」
ふと自分の口から流れ出た言葉の意味を咀嚼していく。すると不意に涙が溢れ、体力がないのにも関わらずそれを使って無様に嗚咽をあげる。
「私、悪くないのに。」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔はきっと見るに耐えないだろう。ただそれをかき消してくれる雨が今度はなぜか有難く思えた。明日の仕事のために、早く帰らなければならないのに、それを雨が許してくれていないのは事実である。憎いような憎くないような、しかし考えれば雨など自然現象に過ぎないのだから、今日の私の不運には何も関与しない。そんなことを考えていても、自分の中に溜まった世の不条理に対する嫌悪感は止まらない。
「何を学んできたのかね。」
自分に対して向けられた小言が深く深く、私の心に傷をつけていく。私は東京のあの場所で何を学んだのだろう、そして私は今、何をしたいのだろう。
「あ。」
不意に手からバッグが滑り。水溜りに向かって落ち、大きな水飛沫をあげた。慌てて拾いあげるが、少し汚れてしまったことなどこの暗がりでもわかってしまう。
「何、しているんだろ。」
汚れてしまったであろうバッグを抱えて思う。どうして私はここに留まっていて、どうしてこんな場所で思案して、こんな場所で大切なものを傷つけるのだろう。バッグは既に傷ついた。でもこれ以上それらを傷つけたいと言えばそうではない。できれば、早急にここから離れて家に帰りたい。しかしそれはできない。不運にも傘は持っていない。大切なバッグを身代わりにすることだってできない。
不意に私は顔を上げた。
「そうだ。」
私はバックから上司に返された書類を探す。それをバッグの上に乗せて、その状態のまま、私の頭上にそれを持っていく。
「これで、帰れる。」
私は重い書類を傘がわりにして、雨の中を飛び出した。
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