能無し猫
ガチャ
ドアの開く音がして、私は主人がいるであろう方向へと体を気怠げに動かす。不規則で緩やかなパンプスのリズムが玄関やこの部屋を刺激する。しばらくすれば地の底から這い出てきたような顔をした主人がこちらへやってくるだろう。
「ただいま、ミルク。」
ほら、見てご覧よ。
薄手のジャケットにくたびれたシャツ。投げ出されたバッグは以前関係のあった男から貰ったものだ。革のバッグを嬉しそうに受け取る彼女を思い出してバッグを見てみれば、その表面は以前のような艶は無く、頼りない凹凸の集まりで、弾力のあった取手は上下に伸びきってしまっている。
「はは。そのバッグ、もう汚いよね。捨てないと。」
彼女の乾いた声が反響し、私の体へと染み込む。居た堪れなくなって私はそのバッグから目を離し、今度は彼女の元へと駆け寄る。
「にゃー」
「ほらほら、よしよし。」
彼女は私の方へと手を差し出し顔の肉を掴んでは指先で捏ねるようにそれを揉む。体を彼女の方へ傾けると彼女は笑顔を見せながら私の腹を摩る。まるで犬のようだな、とか思いつつ、少し止まれば私は彼女にそれを続けるように促しながらその時間を堪能する。
「にゃー」
「ご飯、ご飯だね。」
そういうと私を彼女の膝から離して、そのまま奥の棚へと向かう。しばらくするとまたリビングに来て銀色の容器を私の前に置いた。
「ほら、ご飯だよぉ。ぱらぱらぱらぱらぁ…」
そしてその容器の中にキャットフードを入れてくれる。尚大抵この時間に話される内容は。
「ねぇ、ミルク。今日上司にすごい怒られて。」
なんらかの不満である。目の前にあるキャットフードを貪りながら聞く彼女の話は、キャットフードをそれはそれは不味くさせるものだが、元々キャットフードの味が良いので良しとしよう。
「にゃー」
まぁ、かと言って、ご飯が終わればこれが終わることはないのだが。
「あれ、もう食べ終わっちゃったの。」
しゃがんでいた彼女は立ち上がって上半身を左右へ捻り、そのままリビングへ向かおうとする。お皿、片付いてないよ。
「にゃー」
「あぁ、良いの良いの。後で片付けておくから。」
そうしてそのまま彼女は床に座って弁当を広げる。不快なビニールの音を立てて彼女は無造作にそれを取り出して、その弁当を開けて、割り箸を割って、そして。
「あぁ!なんなんだよ!」
彼女は白米の上にまだ割れていない割り箸を突き刺した。そしてそのまま首を垂れて肩を上下させながら顔に手をやって嗚咽し始める。かわいそうに。私はそんな衝動的な彼女のもとへと近づく。
「ごめんね。ミルク。」
そう言いながら彼女はあぐらをかき、私をそのあぐらの窪みへと入り込ませる。
「にゃー」
しばらくして彼女の呼吸が整い、彼女は左手で私の首の下を触りながら右手で箸を取った。それでも尚彼女はその愚痴を続ける。
「上司は言うんだ。そんなこともできないのかって。」
「にゃー」
「同僚はどんどん上にいっちゃうんだよ。私のおかげで、みんな自分の能力を伸ばせていっているんだって、で、力がつくんだって、優しい先輩が言ってた。」
「ゴロゴロ」
「そんな優しく言わなくて良いのにね。自分じゃなんもできない人と一緒にやらなくちゃいけないから、その中で力がついているんだって。」
「…」
「ねぇ、ミルク。もう嫌かも、私。全部、全部何もかもやになっちゃって。だからもうさ、良いかなって。もうどうでも良いかなって。ねぇ。ミルク。私頑張ったと思うんだ。だからさ、私、
気がついたら朝だった。自分はいつの間にか眠ってしまったらしい。自分の体はいつも寝ているクッションの上にあって、きっとこの明かりの具合ならもう彼女は行ったかな。きっとペットフードが用意されているに違いない。そう思ってクッションから飛び起きる。そしてリビングを見る。
「にゃー…」
寝坊かな。
彼女はまだ寝ている。早くしないと遅れちゃうぞ、いつもこの時間に君が家にいる時はバタバタと煩いじゃないか。床で倒れている彼女を引っ叩いて起こそうとする。
「にゃー」
ぴくりとも動かないから、私は何度も彼女を小突いた。
「にゃー」
一週間も起きないから、多分もう生きていないんじゃないかって思っている。臭いはひどいし、あげくの果て彼女から変な液体も出ているし。きっと息をしていないのだなって。なんとか餌を探して食べてやっているものの、いつまで持つのやら。
そう考えていると突然、扉の鍵が開かれた。彼女以外の訪問者はあの男だけだったから、誰だろうとちょっと気になって玄関の方へ行く。見れば、深刻そうな顔をしたおばあさんがこちらを伺っていた。
おばあさんはそのまま何も言わずリビングへと向かい、リビングへの扉を開けて、そしてすぐにしめて、こちらを見る。
「かわいそうに、ねぇ。」
そう言うとおばあさんは私の方へと手を伸ばした。
「にゃー。」
抵抗する気力も体力もないからと、私はお婆さんの腕の中へと飛び込んだ。
「よしよし。」
そしてそのままおばあさんは私を抱いてその部屋の玄関を開けた。あの鬱蒼とした臭いが充満している部屋から出られたこともあって、私は眠くなってきてしまった。そしてその余裕が出来たからか私は突然、彼女の顔を思い出す。
「にゃー。」
おばあさんがその扉を閉める前に私はその部屋へと戻り、リビングへと向かう。
「にゃ。」
そこにいる彼女は先程見た彼女と同じとは思えないほど朽ち果てていて、ただ少し安らかなような気もした。あぁ、もう死んでいるんだな、って思って、そしてその様子を見てそこを後にする。再び玄関に来てみれば、おばあさんが優しい微笑みでこちらを見つめ返している。私はまるで今までずっと一緒にいたかのように素早くおばあさんの腕の中へ収まり、そのまま部屋の外へと出た。
ガチャ
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