頭だけのタコはのちに頭をも食う
「体が追いついてくれないんだよね。」
古くからの友人はそう言って力なく笑った。昼休み、久々に同僚の彼を誘った。今はちょうどラーメンの待ち時間だが、もうピーク時間は過ぎており客は殆どなく、そう言う彼の些細なため息混じりの声でさえ耳に響くほど閑散としている。
「それ、疲れているんじゃないの。」
彼とは違う部署ではあるものの彼の噂についてはよく聞く。凄腕の営業マン。期待の新人。ベテラン顔負け。彼の称賛の声はこちらにも届いてくる。
「でも頭だけはなぜか冴えていてさ。」
彼は縋るような目つきで、その隈付きの目を私のネクタイの方へと投げた。
「休みなよ。」
私は呆れ半分で彼に進言する。普段より。私は彼の噂を耳にしながら、頭を痛めていたのだ。
「でも頭は動くから大丈夫だとは思う。」
彼は相談している身にも関わらず、私の助言に耳を貸さない。これは今に始まった事ではないが、その性格が彼を苦しめているのも私はよく分かっている。そして私は彼の称賛の理由が、彼の異常な努力のもとだと言うのも知っている。
「そんな、体がなくちゃ頭も上手く働かないよ。」
彼は今の自分の限界に楽しみを覚えている状態なのだ。彼の会社の愚痴を聞いていればわかる。彼は仕事の話をしている時に一番目を輝かせるのだ。これは相談ではない。ただの、自慢だ。
「でも実際動いているじゃん。」
まぁそうだけど、と私が言ったところで注文の品が届いた。
それを食べたあと、彼はその伝票を掻っ攫って満足したように私の分まで払うと、彼は、ありがとう、と私に言った。
「とうとう体が悲鳴を上げたと。」
最後の「相談」から数ヶ月経ったあと、土曜日の朝、彼から死んだような声で電話が来た。行ってみれば、どうやら朝から体が動かないらしい。体調が悪いわけでもない。今すぐ会社に行きたいのに動かないと言う。
「だからあれだけ休めって言ったのに。」
疲労であることは明白だった。彼の家の状態をみればすぐに分かる。何日も溜め込んだ洗濯物に大量のエナジードリンク、そして極め付けはベットの上に転がるパソコンと書類。そんなことしていればどれだけ精神が健康でも体は持たない。
「でも頭は働いていたよ。」
それでも彼は頑なに認めない。彼は青白い顔をしながら冷たい手で私の腕を掴む。
「でも今、実際のところそこで横たわっているわけでしょう。」
私は彼の手を払い除けながら彼に言い放つ。
「そうかもしれないけど。」
「そうでしょう。」
彼はそれ以上何も言わなかった。
「どう。」
あれから彼は一時的に休暇に入った。私は彼の行動を嘲笑いながらも、どこかで何かむず痒い感覚に襲われて数ヶ月間、看病をしに来ていた。あれから彼の業務内容は見直され、休職中給料を多めに支払う代わりに残業のことなどは一切口外しないようにと言われたそうだ。
「体調は戻ったよ。」
あれから彼の体調はみるみるうちに良くなり、今では普通に外出もできるようになっていた。
「良かったね。」
彼の元気な様子を見て、私はほっと胸を撫で下ろす。彼のことだからきっともっと仕事をしたいに決まっている。その時は、自分がペースメイカーにならねば、彼を知っているのは私だけなのだから。
「でも全く動けないんだ。」
その後に続いた言葉は衝撃的なものだった。彼は身体的には動くことは可能だし、リモートワークという状況ではあるが、徐々に復帰しており、それこそ普通の社員と同じぐらいの仕事量をこなせるようになっていたはずだ。
「どういう意味。」
私は恐る恐る聞いた。
「なんか、分からないかも。」
彼の困ったような壊れた笑顔に、私はひどく後悔した。
その後彼の介抱について私がお役御免になった。
「なんでそういうことするかな。」
私は自宅でため息をつく。
彼は考えられなくなった。仕事のこと以外、深く考えられなくなった。当たり前のように体を壊すようなことを繰り返し、当たり前のようにそれを私に報告する。あの時、あの笑顔を見せた時、彼の考える力は崩壊したのだった。
歩ける足がなくなるまで食い尽くす程摩耗したなら、誰かを頼れば良かったのに。私は思う。タコは出産時にその余りの過酷さから自らの足を切って食すという。ただそれは彼女らにとって出産がゴールであるから、それに賭けるに越したことがないからなのだ、
なぁ、君は本当にそれがゴールだったのかい。
彼は困ったような笑顔で出社する。
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