第2話 明晰夢

 30歳手前になり順調におっさんの道を歩きはじめたころくらいからIT技術者エンジニアとして安定した生活ができるようになった。

 社会人になってから始めたネトゲが生活の一部となり文字通りネット化した俺は回線速度を重視した結果、古めの1件屋を借りることにした。

 和式を家を無理やりフローリングにリノベーションした物件だったが、道路を挟めばちょっと寂れた商店街にコンビニもあり、何より会社に近いこともあり満足している。


 そして36歳の現在、更新の度に賃貸ではなくというのも一瞬頭をよぎった。大学時代の楽器をローンで買うということをやっていたので『ローン』という響き自体に抵抗はないし職歴もちゃんとしているなので、背伸びしなければきっと審査も通るだろうが、そもそも一緒に住もうとする生命的に存在というものもなく、とりあえず『惰性で買っている積みゲー、パソコンの機材、学生時代の楽器や実家から持ってきた幼少時代の思い出などが収納できるスペースがあればよかった』ので3DKの間取りで6.5万という環境はは快適と言わざるを得ない。


 もちろん、40歳という年齢が見えているが小言を言われる存在もなく田舎の実家や都会すぎる大都市でもない場所で仕事をし気ままにネトゲができる今の環境は文句の付け所が殆どない。敢えて挙げるとすれば引き戸が多くやや隙間風が気になるという点ぐらいでココは天国なのだ。


 ◇◇◇


 そろそろ梅雨になろうとしている五月後半のある週末。

 仕事から帰ってきた俺はいつもようにシャワーを浴びると濡れた髪を乾かしもせずヘッドセットをしてネトゲにオンする。ゲームの音量を小さくしお笑い芸人の深夜ラジオを聴きながらゲームをやるというのが俺のスタイルだ。

 平日は一時まで、休日前などは明け方に近くまでゲームに明け暮れる。年齢も性別も関係なくちょっと緩く繋がれる関係の知人もいて『仕事の自分は虚構で本当に自分の居場所がココなんだな』という感覚は自分のような隠れコミュ障のネトゲ廃人であれば共感いただけると思う。もちろんオフ会にも参加……


 段々、外が明るくなるのが分かる。この時期になると朝が来るのが早い、知人も一人二人と落ちてきたので自分もログアウトし電源を切りベッドに入る。

 30代前半の頃までとは違い若干命を感覚もあるが眠気が来る極限まで来てベットに入る瞬間は人生の至福を感じていて『俺頑張ったな』という感覚にさえ陥る。


 寝る、そう俺は寝るのだ。


 ◇◇◇


 すっかり夕方になる頃、ベッドから起きた俺は家のポストを確認しようと家のドアに向かう。正直面倒なのだが寝落ちに近い自分の睡眠スタイルだと玄関のチャイムに気づかず寝続けることもあり、過去に配送物などの不在票のチェックを怠った結果賞味期限をものを配送された前科もあるので仕方ないのだ。


 ――ガチャ……


 俺は家のドアを開けたはずなんだ。


 ドアを開けた先にあったのは見慣れた風景ではなくヨーロッパだった……

 ヨーロッパと言っても広いとは思うが海外旅行なんてしたことのない俺の表現力で言うとっぽい光景はヨーロッパとしか形容できない。

「おー。明晰夢めいせきむってやつか?」


 中々リアルだ。なんつっても足元の草がすげーリアルなの。アスファルトじゃないしね。少しだけ幼少時代の実家の近く風景を思い出す。


「こりゃぁ、すげーや。一度家に戻ってもう一度開けたらアメリカにでも行けるんじゃね?」


 一度ドアを閉めて家の中に戻る。


(うん、焦ってる、焦ってるよ……焦ってるけどだからさ、こう言う時は目が覚めるまで楽しまなきゃ損だし)


  ――ガチャ……


「そっかー、流石にどこ○もドアではないか……」

 アルプスな光景は変わるはずもなく足元には先ほどのリアルな草があり、所々土が見える。


「……部屋の電化製品どうなってたっけ?」


 もう一度家に戻ってみる。

 冷静なように振る舞ってはいるものの頭の中にあるのは「?」と「ネットに繋がないと死ぬ!」だった。が、同時に「もっと大事なことがあるはず!」というの思考を数回繰り返した結果が先ほどの電源の確認である。


「おぉ、やっぱり電源入らないか……」


 どの部屋でもできる電気の確認を自分の部屋に戻りパソコンの電源が入らないことで確認をする。コンセントを抜き差ししたりしたがモニターディスプレイのランプもつかない。


「つーか、コンセントの抜き差しではなく部屋の照明がつく、つかないで判断できたよな……」


 自分の行動にツッコミを入れた後やっと気づく。


「水だ、水! 水がねーと人間死ぬんだ!」


 水道・電気・ガスという言葉は人間が生きていくので大事な順番なはずなのに電化製品のチェックに走ってしまった…現代人のである。急いで台所に向かうと蛇口をひねる。


「――え? 水は出るの? タンク式じゃないからおかしいよな……」


 正直、自分の家の水道がタンク式なのかなんて覚えてもないが基本的に一軒家の水道はタンク式じゃなかったはずだ。


「次はガスか……」


 ……


「――なるほど、ガスはつかないと……」


 ぶっちゃけ、惣菜やレトルトに頼ってた部分もあり、ガスの重要性は電子レンジをと崇めている俺にとってはそこまで影響はない……ない?


「いや、あった! 風呂だ、風呂に入れない」


 俺は月曜から土曜まではシャワーを浴びる生活なのだが毎週日曜日と元日だけは風呂を沸かして入るというルーティンを一人暮らしをした時からずっと続けている。

 これは自分がギリギリ社会不適合者じゃないというであり、大学に行く際「最低限の清潔感だけは保っておきなさい」という母親からの言いつけを考えた結果であった。


「水出ます、電気は繋がってないのね、ガスはつかないと……あれかトイレはどうにかなるがトイレットペーパーがなくなると詰むやつね」


 風呂を諦めたもののシャワーは確保できることがわかった俺は次に必要なものに思考を巡らせる。


「食料品の確保か……」


 いや、これはなのだ、多少思い通りではないものの人間とのコミュニケーションが煩わしいと思った俺の願いを叶えたである、であれば目一杯明晰夢を味わなければならない。ぶっちゃけ現実として受け入れらない方が強い。

そもそも俺のような弱小IT技術者エンジニアは困ったら検索しのノウハウをすることで仕事の難題と戦ってきた。電気がない&電波がないこの状況はハードモード以外何者でもない。

そうなると既にキャパオーバーなのだ。


 まぁ、一秒後に『闇に包まれ魔王と対面』みたいな状況がないわけではがそんな事を考え出したら『やれること』なんてのはないのだ。

 プログラムを覚える時にもあったが『キャパオーバーなことは一旦放置して何か手を動かす』これが40歳を目前とする自分の生き方の一つになっている。


「さて、どうすっかな。ここがドイツ辺りならオルゴール職人とか見てみたいんだけど、ドイツ語選択しなかったからなぁ……」


 独り言が捗る、別に誰かがいるわけではない空間なので誰からも咎められることもない、ネトゲ中も独り言を言ってしまうので思ったことをつい口に出してしまう。


「というか、明晰夢ってつまんねーな、どうせならロックスターとかになってあんなことやこんなことやってみたかったわ」


 今の現状と理想をわずかに愚痴ると、何か外に出ずにこの環境を楽しめないか考えること数秒……


「どうせゲームもできないなら、部屋の片付けでもするかなぁ」


 明晰夢の中、部屋の片付けをするという勿体無さもありながら、ネット廃人化している俺ができることなんてのは寝る意外の選択肢がほぼない。


(あと、明晰夢の中で押し入れクローゼットの中がどれだけリアルなのかも気になるし……)


 自分に言い訳をしつつ、押し入れクローゼットを開けると学生時代に買ったが滑り落ちてきた。


 カリンバは南アフリカで生まれた楽器と言われており、穴の空いた木の箱に数本の薄い金属が固定されており、オルゴールのような音色が出る楽器だ。比較的安く購入できるもので高校三年の大学受験が終わったくらいに買ったものだ。


「懐かしいなぁ……まだ弾けるか?」


 初心者のカリンバなので金属バーに音階が書いてあるため、順番に弾いてみた……


「あ、やっぱりちょっとズレてるな……」


 適当に机にあったペンチでコンコンと押して調整してみて『キラキラ星』を弾く……


『フリューメに新しい曲が誕生しました』


「はっ?」


 壁にかけていたスマートスピーカーから声が出る。

 おかしい、これは非常におかしい……スマートスピーカーの電源は電池やバッテリーではなく家のコンセントなのだ、音が出るはずがないのである。


「というかフリュなんちゃらって何?」


 ちょっと怖い、一応スマートスピーカーのコンセントを抜いておく。気を紛らわすついでにキラキラ星を再度弾いてみたりしている……

 明らかに明晰夢と自分を信じことで保っていたメンタルが削られている、明晰夢を見たことはないがこんな詳細がな明晰夢は『異常』ってのはなんとなく分かる。

 そもそも、夢だったらカリンバのチューニングなんてする必要ないし、最初に出てくる楽器がカリンバってのも納得できない『できればもっと華のある楽器がよかった』とさえ思ってしまう。


(落ち着け俺!とりあえずチューリップでも弾くか……)


 こんなにチューリップを弾くのに緊張した経験はないがゆっくり丁寧に弾く。


「……ミミレレド……と」


『フリューメに新しい曲が誕生しました』


 間違いなくあの声が聞こえた、完全に恐怖である。


 今までに勝手にテレビの電源がついたり、ギターのアンプから声が聞こえたりとな経験をしたことはあったが実は化学的な根拠があり、後から気づくと『なんでもないこと』だった。しかし、今回はスマートスピーカーの電源は抜いている、そもそも電気が通ってないのは照明が薄暗い部屋という状況でも充分理解している。


「フリューメってなんだよ」


 恐怖に全身の血の気が引いていくのを感じるが、年齢を気にして無駄に去勢を張りツッコんでしまう。


(というかこの声ってスマートスピーカーじゃなく俺の頭の中に直接響いてる気がする……)


「いよいよ、あれか異世界ってやつか、死ぬような大きなきっかけも臨死体験やをしたわけでもないのに異世界に来たパターンのやつ?」


 音声が二回流れただけで大袈裟とはいえ、家の外はヨーロッパなのだ。それを考えると大袈裟でもなんでもない。


「やべぇな」


 そろそろ現実として受け入れなければいけない。トイレはまだいいが、飯がヤバい。ガスコンロというか火が使えない。いや神器であるが使えない。

 カリンバを床に置くとために冷凍庫からやや溶けかかった氷をコップに入れて一気飲みし今度は窓から景色を確認する。

 やっぱり溶けている、このままでは冷凍庫がいろんな意味でヤバくなる。


「やっぱ、日本じゃねーな」


 現実として受け入れなければならない。そして異世界お決まりのあのを唱えてみる。


「ステータス」


 ………………


 何も起こらなかった。


(あれか、もうちょい呪文っぽく唱えないといけないやつか……)


「ステータスっ!!」


 誰もいないことを良いことに格闘ゲームの必殺技のように声を張っていってみる。


 ………………


 目の前に何も出てこなかった。


「こうなるとのパターンかしないといけないパターンのやつになるじゃん……」


 これはキツい『36歳オッサン異世界で無能扱いを受ける』という安易な小説ラノベのタイトルが浮かぶが、それよりも『異世界転生14日目にして餓死』が一番しっくりくる状況に思考が停止する。


「あれだな、ワンチャン筋力とか素早さパラメーターがメッチャ上がってて無双するパターンもありえるぞ……」

 

 現実逃避とも言える独り言に先ほどカリンバの調律をした時の事を思い出して腕力が変わっていないことを思い出す。


「細工が上手いわけでも料理がうまいわけでもないから、こっちのパターンも違うし……そうなると、テイマー? いや戦闘なんてまっぴらごめんだし……もう、錬金術師か魔法使い系しか残ってなくねーか?」


 独り言による自問自答が繰り返される。


「生成っ!」

「ファイア!」


 ………………


 何も起こらなかった。誰もいないのに顔が赤面する。電気のないこの環境でIT技術者エンジニアの知識や技術はチートスキルにならない。ベッドにあるスマホもずっと圏外で検索もできない。

 サバイバル生活ができるほど釣りをやったこともないし、体を動かすのも嫌だし、農業の知識もない。


「詰んだ……」


 「落ち込んだ時は美味いものを食べると良い」というのを聞いたことがあるが、冷気の弱まった冷蔵庫にあるのはレンジで温めるピザと冷凍庫にある冷凍餃子ぐらいで、ネトゲもなく無能であることをを得ない俺は本来飲む予定であった毎週土曜夕方のささやかな楽しみである梅酒のソーダ缶を開け、僅かな希望を持ってベッドに横になった。

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