音楽に挫折しITエンジニアになったお茶好きオッサン「家ごと」異世界に行き絶対音感で無双の楽師になる

えっとん

現実逃避編

第1話 左利きの奏太

「えっ? 奏太さんって絶対音感あるんスか?」


 後輩はパチンと両手を一回叩くと

「この音何だか分かるんスか?」

 を言う。


「――はぁ、またか……」

 過去何回聞かれただろう……このやりとり。


 ◇◇◇


 俺、黒田奏太くろだそうたは今年36歳になる左利きのおっさんだ。九州の田舎で育った俺は物心つく前に『叔父が左利きで苦労したから』という情報と『隣の家に引っ越してきた家族の母親が個人でピアノ教室をやっている』という因果で2歳半くらいからピアノを


 現在では男の子がピアノの習い事をするのが当たり前だったり珍しくないかもしれないが俺の記憶にあるのは、重い楽譜の入った布バッグと毎週金曜という十字架、そして何より『ピアノなんてのは女の子が習うもの』という同級生の偏見だった。

 そんな偏屈な田舎育ちの俺が幼少期に一番頑張ったのはピアノを習っているという事実を。左利きに生まれなければもっと心の底から明るい子になっていたかもしれない。


 俺の中で隠すという行為は『変えようのない事実からの逃避』であり人格形成に大きく影響したのは過言ではないと思う。


 5歳になる少し前だと思うが初めて『ピアノの発表会』というのを体験した。自分の地域の文化センターでピアノ先生の門下生などが一同に集いピアノを発表するのだ。

 俺の両親も張り切ったらしく蝶ネクタイをつけされられてタイツを履いたことを覚えていが同時に羞恥はずかしさというものを強烈に感じたのもこの時であった。

 以来、羞恥はずかしさを知った俺は『発表会には絶対出ない』と固く決意をした。

 親が絶対だと思っていて『習い事を辞める』という選択肢のない5歳児の自分ができることと言えば、泣いて家に帰って「2度と出たくない」と主張することのみだったが、母親が「演奏はしなくてもいいから客席にはいなさい』という折衷案を提案し俺はそれを飲んだ。


 大体、あのみたいな格好を強制させられるのは嫌だったし『友達と遊ぶ予定を』『よく分からない曲を延々と聞か休日』というのが理解できなかった。

 因みにウチにあった唯一の俺のお坊ちゃまの格好をした写真は祖母の家に飾ってもらうことにしてもらった。


 ◇◇◇


 小学校に入学しても毎週金曜はピアノの時間だった。『発表会に出ない』という意思表示をしていたのでピアノの先生も何かを悟ったらしく俺が辞めないことを重要視し(多分『お隣さん』という近所付き合い的な何かがあったのだろう)練習しなくてもそんなに注意されなかったし「これあまり好きじゃない」というものは最低限にしてくれた気がしている。

 幸いなことに家で練習するピアノは『エレクトリックピアノ』という生ピアノと同じ発音機構をもちながらヘッドフォンで練習できるものだったので、家からピアノの音が漏れることはなかったが、ピアノがあることを知られたくので、友達を自分の部屋に呼べないというジレンマもあった。


 小学校入学以降の学生生活は隠す行為に磨きをかけなければいけなくなった。

 習い事が段々と洗練されてくるからであろうか、先に述べたようにピアノを習うという行為は男性のものではないらしく、がやるものという謎の掟のようなものが男子の間ではより強固なものとなっていたからだ。

 入学時に同じ保育園出身の子が同学年にいなかったおかげで一年ちょっと前のお坊ちゃまの格好のはバレることもなかったが、友達が一人もいないアウェイ状態に危機感を覚え四月の第二週にはクラスの子に混じって「そうだ、ピアノなんてのは女の子がやるもんだ」の派閥に入った。


 もちろん、最初から全てを隠せたわけではなく至る所に罠があった。最たるものが授業での音楽の時間だ。

 一年生の時に楽譜が読める俺は調子に乗ってカスタネットで褒められて「ヤバい」と思い、それ以来音楽の時間になると音符を読めないやテストではある程度の成績になるように頑張ったし、中学年になってからスタートするリコーダーの演奏もちょっとの真似をした。

 因みに毎週金曜は「空手がある」という嘘をついてしのいできた。(別の空手を習ってる子に喧嘩をしかけられた事があったが自分の流派は「手出し禁止」というのを頑なに守る設定にした)


 一年生から六年生まで在籍する小学校時代においての一番の敵はピアノ先生ので四つ下とは言え同じ学校になるので「俺がピアノをやってることをバラしたらお前の家のピアノが夜に鳴り響く呪いをかける」という意味不明なことを言って黙らせることに成功した。

 実際四学年も離れていると、登下校でもそんなに接点もなかったわけで過剰にビビっていた自分が愚かだったわけだが、当時の自分としては本当に彼女の口を塞ぐことが自分のヒエラルキーを守る上では絶対だったのでを築く上では重要な任務だった。(当然だが、その子とは恋愛フラグもなく会えば「おぉ、久しぶり」と声かけるぐらいの関係で終わる。)


 そんな小学校低学年を過ごし小四になった俺は一大決心をし「ピアノを辞めたい」と親に告げる。

「まぁ、発表会も出る気ないし、先生も子育て忙しそうだからいい時期かもね」という感じで驚くほどすんなり辞められた。

 周りの友達には「空手を辞めたから金曜遊べるようになった」とも吹聴した。

 そう俺は、晴れてになった! 音楽なんてつまらない世界とは無縁の生活になったのだ。


 だが、そんな喜びは、約一年半経った五年生の二学期で早くも崩れる。


 同じクラスでピアノが超絶上手い事で有名なちゃんが鍵盤ハーモニカで当時流行していたゲーム音楽を教室で弾いたのだ。

 直後『時間が止まる』とはこの事を言うんだというぐらい、みんなが『シーン』とした。


「え? エリカすごくね? もっかい弾いてよ!」

 あれだけ「ピアノなんてダセぇ」とか言ってた陽キャの祐介がリクエストをする、英理香はリクエストに合わせて様々な曲を弾いていく。

 学校で支給された楽器で音楽の教科書にを弾くという行為が田舎の小学校の一クラスには衝撃だった。


 そこからは同じクラスでもピアノを習っている女の子も真似をしてみたり英理香は何人かに「楽譜書いてあげるから自分で弾きなよ」と提案していたが、当のリクエストした祐介は「俺が音符なんて読めるわけねーじゃん」と一蹴していた。

「じゃぁ、ドレミで書いてあげるよ」と言うと、英理香は音階で書いたメモを祐介の他数名に渡していた。

 気の利く英理香は「奏ちゃんにも、あげる」と無邪気に言って俺にも音階書いたメモをくれた。「ありがとう」と言ったまま俺は『楽譜って買うもんじゃなくて書くもんなんだな』と心の中で呟いた。


 英理香は小学校五年生に上がる時、親の都合で転校してしまった。まぁ恋愛フラグなど関係のない俺にはどうでもいい話だが彼女が俺に音楽の可能性と後悔の両方を教えてくれたのは紛れもない事実だった。


 ◇◇◇


 中学生になり、入学式を迎えた俺はここでも大きな衝撃を受けた。

 入学式の入場の曲がテレビの有名ソングを吹奏楽アレンジしたものだったのだ。


「え? 吹奏楽ってもっとクラシックをやるもんじゃねーの?」という固定概念が崩れていく。しかも校歌斉唱の時にピアノを体育館のピアノを弾いていたのは三年生のだった。

 どこの中学校でも同じだと思うが、中学校に入ると先輩後輩の概念が顕著になり、ついこの間まで小学生だった子が中学三年生を見て「おい、アイツ男なのにピアノ弾いてるぜ」という文句を言う奴はいなかった。

 とは言え、自分はあくまでピアノがの人間であり、三年生の先輩と入学式中で部活の選択さえやっていない一年生の事情は無関係な上、計一時間にも満たない吹奏楽と校歌の伴奏では六年染み付いた文化はそんな簡単に消えない。


 結局俺は吹奏楽部に入ることもなく帰宅部を選択し、家に帰ってはの衝撃が忘れられず中学校の三年間をひたすら流行の音楽やゲームの音楽を聴いては楽譜を書くということに打ち込み、文字通りへと変貌しながら最寄りの進学校に進むこととなる。


 ◇◇◇


 田舎といえども高校になると思春期特有の異性に興味を持つのと同じで音楽というものの幅が変わってくる。

 童謡やクラシックというものから解放されの音楽というのが音楽という概念に変わっていく。


 一番顕著だったのが文化祭での軽音楽部での部活紹介だ。

 あれだけ「ピアノなんて男がやるもんじゃない」とか言ってた奴がギターやドラム、ベースなどの軽音楽に目覚め、やれ「○○というバンドのギターが上手い」だの、そのコピーができる先輩は凄いだの「俺たちもバンド組んで文化祭に出たい」とか言うようになった。


 自分も一瞬『バンドに参加したいなぁ』と思ったことはあったがピアノを自ら遠ざけ辞めた事実を黒歴史として為バンドを組むこともなかった。

 むしろ余計に鬱屈した俺は音大を目指しているわけでものに流行のそういう音楽をやっている奴らを下に見ることにして、逆に楽典(音楽の理論などを記述した本)を買ってみたり、有名クラシック作曲家の生い立ちを調べるな人種になっていた。


 高校2年になると『流石にこのままではヤバい』というのをなんとなく気付き背伸びをしてエレキギターを手にした。

 エレキギターは面白かった、タブ譜という独自の楽譜があるがクラシックより自由でチューニングが多少ズレていようが『それがロック!』の一言や旋律フレーズを覚えてなくても『アドリブ』という言葉でような気がして「音楽のガクという次は『学』じゃないんだし楽しいのが一番!」という精神でテスト勉強も適当にギターを弾きまくった。

 でもバンドは怖くて組めなかった。


 高校三年になるとギターばかり弾いているわけにもいかず周りと同調して『流石に大学に行かないとヤバい』と思って、自分でも受かるような大学を選びつつよりマニアックなHR/HMハードロック・ヘヴィメタルやプログレッシブロック、ヒーリングミージックやフュージョンやJAZZを聴くようになった。

 一瞬だけ選考の私立の音大や音楽系の専門学校に行くことも考えたが家の経済事情と何よりも「ピアノを辞めたい」と言ったプライドがいつまでも邪魔して親には言い出せなかった。


 自分の部屋に楽器や様々な音楽が流れているのを両親は知っていたはずだが何ものは感謝しかない。


 ◇◇◇


 ある政令指定都市の大学に合格した俺は音楽漬けの生活を送った。

 親元を離れることで人の目を気にすることもなくなり本当に本当に音楽にハマった。パソコンで打ち込みDTMというものを知り、バイトをしては楽器やパソコンの音楽の音源などにお金を注ぎ込んだ。

 バンドスコアを書くバイトを探して採譜をしたり、バイトも音楽に近いものを選んだ。

 調子に乗ってレコード屋さんのバイトを選んだら接客ができずにで辞めたし、楽器修理リペア専門店の様子をずっと見ていて警備員を呼ばれたこともあった。

 高校の時と同じで友達という友達はいなかったが、人生で一番充実していた。文字通り音楽があればそれでよかった……



 大学三年になると「就職どうするよ?」という声がなんとなく聞こえてきた。正直、採譜のバイトでどうにかなると思っていた俺はとりあえず「大学を卒業すればいい」と思っていた。

 音楽雑誌のライターや編集者になりたいとか夢も持ったが、文章を書く能力が致命的だったので諦めた。


「こんなことならピアノ続けておけばよかったなぁ……」

「バンドやりたかったなぁ……」

「英理香元気にしてるかなぁ……」


 今まで現実から目を逸らしてきた自分に天罰が降るように時間は過ぎて行き、就職先が決まらず大学の卒業を迎えた俺は見事に就職浪人になった。


 ◇◇◇


 地元に帰って職業訓練校に行かされた。理系の大学を出ていたのと打ち込みDTMをやっていたので「IT系の仕事なら出来そう、儲かりそう」と安易な気持ちで『プログラマー・エンジニア育成コース』を受けた。

 意外と授業内容が面白く成績のよかった自分は地元から少し離れたIT企業という名のパソコンサポート屋に無事就職できた。

 因みに訓練校での内容はプログラミングとは程遠いHTMLやCSSといったホームページを作成する言語や表計算ソフトの授業が大半で、やりたかったプログラミングは教科書に記載はあったものの授業でやることはなかった。


 就職先ではプログラミングではなく壊れたパソコンの修理を任された。

「プラモデルみたいなもんだから」と先輩に言われたが、壊れたハードを付け直す事が大半なので静電気にさえ気をつければ人と会話をしなくて済むし隠キャの俺には合っていた。

 とはいえ仕事では学生と違って最低限のコミュニケーションを求められた。3年後には人並みにの社交性をつけることに成功し、台帳のプログラミングをやってみたりしてIT技術者エンジニアと言えるような気がしてきた。


 楽器を弾くことも、楽譜を書くこともなくなったが「人生そんなもんだろ」と思い、プログラミングだけに収まらずレタッチやらCGデザインやらパソコンでできることはなんでもやった。

 音楽漬けだった生活からパソコン漬けになったものの、ネットで知り合ったテキストでやりとりする友達からラノベを教えてもらったりして、仕事はしてるもののネットまっしぐらな人生を送っていた。


 それから約10年が経った。

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