第8話 出会いと旋律 中編

 当然、司会も席を外しており、ホールに何の説明も無いまま少年はピアノの前に座った。

これに気付いてすら居ない人が殆どで、正規の演奏が始まる前と同じ厳かな静寂はまるでない。

それでも少年は独り目を閉じて、瞑想らしき行為に移る。

その間、私は無意識に彼の容姿を観察していた。


 若干長い黒灰色の髪を振り乱した、フワフワとボサボサの中間とでも言うべき髪型。

服装は楽団が揃えて着用しているスーツではなく、普段着に毛が生えた程度ものだった。

ただ、その指先が明らかに美しいのは遠間からでも見て取れる。


 少年がゆっくりと目を開けると、周りの空気が変わったような気がした。

彼は真剣な眼差しを崩さぬままそっと鍵盤に触れ、曲を始めた。



               ♪♪♪



優しい――いや、静かで哀し気な旋律。

音はまだ少なく、正直に言うと雑音に飲まれそうだ。

けれど、何とか音を聞き取ろうと耳を傾けるうちに、音数も音量が次第に上がって来る。

それから間も無く、溜めに溜めた盛り上がりの渦を遂に解放……一気に旋律の波が押し寄せた。

私はこの辺りから完全に曲に心を掴まれて、耳が他の音が拾わなくなってしまった――この曲の世界に引き込まれて、外の音など知ろうとも思わなかった。

 少年の奏でる曲はごく特別な郷愁と幻想を感じさせ、流れ来る音の一つ一つが心を奮い起こすのだ。

私とそう年齢の違わない男の子たった一人からこれ程のものを感じるのは、彼に純心があるからなのだろうか。

やがて曲の纏う悲壮美が湧き上がるように大きく増して、いよいよ最高潮へ。


 ……やはり、期待を裏切らないものだった。

少年が舞台上でたった一人でも、客は数える程しかいなくとも、彼はそれを最後まで奏でる。

旋律が素晴らしいのは言うまでもないが、少年の姿勢から逆境に立ち向かう美しさを痛烈に感じた。


 最後の一音の余韻が消えて、私はできる限りの拍手をした……先程までに聞いたオーケストラと比べても十分な価値があると思ったから。

ところが、周りの人たちは白い目で私の事を見ていた。

「こいつは何に向かって拍手をしているんだ」と。




 コンサートの後半もあっという間に終わった。

事が起きたのは、ホールを出る前にお手洗いに行き、廊下でマリアさんを待っていたとき。

自分のウエストくらいの背丈をした幼い男の子が走って来たかと思うと、いきなりぶつかった。

男の子は


「ごめんなさい!」


と吐き捨ててそのまま走り去り、廊下の角を曲がって行った一方、私は酷く困惑していた。

隅に寄って静かに立っていただけなのに、衝突する余地があったのだろうかと。

廊下は空いているとは言えない状況なので、私よりもぶつかりそうな人は幾らでも居た。

幼い子が周りを見ていないのはよくあると百歩譲っても、その割には痛くなかった・・・・・・のだ。

不自然だと思いつつスカートの埃を払っていると、私は違和感を覚えた。


「あれ? 腰のポーチが無い⁉」


ついさっきまで有ったし、周りに落ちている訳でもない。

私はスリだと確信を得て、急ぎ男の子を追った。



 男の子を探していると極端に人通りが少ない所まで来てしまい、関係者以外立ち入り禁止の舞台裏の近くでようやく見つけた――並々ならぬ様子の男と一緒に。

私は曲がり角に隠れながら様子を窺った。


れたもん見せろ」


男の子は恐る恐るポケットから私から盗ったポーチを差し出した。

が、突然男は拳を振るう。


「お前、ガキだからって容赦しねぇぞ。この程度の物が金になる訳ねぇだろ!! あぁ⁉」

「……んなさい……ごめんなさい……」

「こういう場所には大抵金持ちしか来ねぇ。その中から大物を嗅ぎ当てろっつてんだ!」


大切に使っているとは言え、あのポーチは何ら特別でもなく、大した物も入っていない。

それに、私は騒ぎを起こすべきではない身。

師匠に迷惑が掛けるべきではないのだ。

第一、学も力も無い私なんかがどうしようもない。

首を突っ込むだけ無駄で、無責任だ。

……そう自分に言い聞かせても、男がもう一度拳を振り上げたとき、私は見過ごせなくなった。


「やめてください! そんな小さな子に盗みを働かせたうえ殴るだなんて」


こんなに大きな声を出したのは初めてだった。

当然、男はしっかりこちらを睨みつけ、今更逃げられそうにない。


「……女か。こりゃ見なかったことにしてもらうしかないなぁ」


動揺している間に男――暴漢は距離を詰めて来て、私を壁に押し付けた。


「赤の他人の癖にご立派な正義感だな、おい? そんなにガキのことを庇いたいならお前が出せ、金をよぉ」


元々他人と接するのすら不得意で不慣な私は、すっかり畏縮してしまっていた。


「……お断り、します……」

「そうか、嫌か」


暴漢がそう呟いた瞬間、いきなり左頬が熱くなった――いや、これは痛みだ。

強烈な打撃が加わったのを遅れて感じ取り、ようやく殴られた事を理解する。


「お前もあのガキと一緒だ。何も出さねぇ癖に『いや、いや』って……クソかよ。クソは殴るしかねぇよな?」


次の一撃に対して私は咄嗟に顔を守ったけれど、向こうの狙いは鳩尾の方だったから、一気に力が入らなくなって倒れるしかなかった。


「それとも、今から体で払ってみるか? へへッ」


暴力は私の服に手を掛ける。

猥褻なことをされるのは言うまでもなく絶対に嫌だけれど、その前にフードが外れてしまうと――


「……銀、髪? だから頭巾なんて被ってたのか。お前なんざヤる価値も無いぜ、この下等種族!」


漢は私を罵倒し、床に叩き付け、より憎悪の眼差しを濃くした。



 それから何度も何度も腹を蹴られるうちに、「人に対する恐れ」がぶり返して来た。

孤児院でのトラウマを背負って尚、忘れたかった。

「人は恐れるものではない」と、今日まで師匠やアシュレイさんが教えてくれたから。

今日出会ったマリアさんも良い人だったから、その教えを信じたかった。

……でも、今目の前にありえないほど邪悪な人が居る。

優しい人なんて、数える程しかいないのではなかろうか。


「もうやめて、やめてってば! お姉さんが死んじゃう!」


それまで右往左往しているだけだった男の子も良い加減に見兼ねたのか、暴漢の腕に取り付いて訴えた。


「うるせぇ。お前こそサンドバッグに戻りたいのか?」


男の子は暴漢に物理的にも一蹴されてしまったものの、吹き飛ばされ彼を誰かが受け止めた。


「……勇気は汝を正しい方へ導く」


『予定表に無い音楽会』で見た、ピアノ弾きの少年だった。

彼が呟く言葉は、自身に言いかせているかのようだ。


「また邪魔者かよ」


暴漢は標的を少年に切り替え、襲い掛かる。

少年は初撃を上手く受け止め、反撃の拳を一発打ち込んだ。

とは言え、大柄な暴漢には効き目が悪い様子。

少年はすかさず突き飛ばされてしまった。

それでも、彼は踏み止まった所の近くにあったバスドラムから巨大なバチを手に取って再び立ち向かった。

次の一撃を躱した後、隙を突いてそれを叩き込む……暴漢が怯んだ。

これを好機に、少年は何度も何度も殴打した。


体重の籠もった打撃、その衝撃は迫力となって伝わる。

両者、鬼の形相で暴力の限りをぶつけ合う様は怖かったけれど、少年の行動原理は確かに正義だった。


暴漢も流石に痛手を負ったようで、以後の動きが鈍った。

少年は苦し紛れの反撃を喰らいながらも臆さず、無理矢理暴漢の股間に蹴りを入れ、とどめと言わんばかりに顎へ渾身のアッパーを喰らわせた。

……漢は酷い脳震盪に見舞われたのだろう、気絶してしまった。

 そして、少年も無傷ではないというのに真っ先に私の所へ来てくれた。

両肩を摩りながら落ち着くよう促し、

この際の第一声は「大丈夫?」でも、「もう平気だよ」でもなく、


「よく一人で頑張った」


だった。

私は少年に孤児院で自分を救ってくれたときの師匠に近いものを感じて、そのときは彼が誰よりも心強くて格好良いと思えた。






・後書き――――――――――――――――――――――――――――――――――


この12番目のエピソードは大幅な改稿を加えたため、以前頂いた応援コメントと本文の間に齟齬が生じておりますが、気になさらないでください。

また、今後もそのような事があると思いますので、「またあの事情か」と流しておいてください。

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