第8話 出会いと旋律 前編
誰かが部屋の扉をノックする音に続けて、か細いながらも澄んだ声が聞こえて来た。
「師匠、お待たせしました。支度ができました」
「そうか」
俺は空き時間で狩り道具を整理していたが、その手を止めて扉を開る。視線を少々落すと、ようやく声の主――シルビアの顔が目に入った。
自分の恵まれた体格に文句を言う気は無いが、せめてもう少し相手と目線を合わせたいものだ。三番弟子のレオン、かなり背の高いあいつを相手にしても尚若干の違和感があったくらいだ。
それはそうと、シルビアは
いつものフリルブラウスとロングスカートに加えて、ジャボタイやコルセットを身に着け、深緑のケープレットも羽織っていた。
髪を隠すのはそれに付属するフードの役目らしい。
これまた養育環境のせいだろうが、シルビアはファッションというものに無頓着だ。年頃の娘なら欲しがるであろう艶やかなドレス一つ欲しがらず、モノトーンの地味な服ばかりを着る。
しかしながら、飾らない様はむしろ
「あの、どうでしょうか?」
俺が思わず魅入って言葉すら忘れていたものだから、シルビアは不安に思ったのだろう。俺は急いで答えた。
「相変わらず綺麗だ。よく似合っている」
それでもまだ彼女は浮かない顔をして言う。
「あ、ありがとうございます……こんなきちんとした外出は初めてだから不安なんです、みっともない格好をして師匠に恥を掻かせたりしないか」
シルビアはしきりに服の埃や毛玉を気にし始めた。
困ったぞ……この子は色々と卑下する癖がある。これが始まると俺一人で機嫌を直すのが難しい。
すると、助け船と言わんばかりにひょっこりアシュレイがやって来た。
「だいじょぶ、だいじょぶ。外行きと言うには、師匠の方がよっぽど変な格好してるから。こんな人に掻かせる恥なんて無いよ」
「アシュレイさんまでそう仰るなら……」
アシュレイが微笑みかけて、ひとまずシルビアは落ち着いたようだ。
さり気無く俺が批判されているように聞こえたが……まぁいい。いつも全身黒尽くめで、素顔さえ出せない男には反論の余地も無いのだから。
――シルビア視点へ―――――――――――――――――――――――――――――
師匠とアシュレイさんに手厚くエスコートされながら向かったのは、中心街の一等地。廃屋街とは比較にならないくらい明るく賑やかで、風景が美しいのは勿論、そこで過ごす人々が作り出す雰囲気も豊かな春に相応しい爽やかなものだった。
目的地である
「師匠、あの人ですか?」
「もう見つけたのか、アシュレイ……あぁ、彼女で間違いない」
声が届く所まで来ると、その人は早速はきはきとした声で挨拶をしてくれた。
「ご機嫌よう、ローレンス。
それから、はじめまして……アシュレイ君、シルビアちゃん」
裏表の無い朗らかな笑みを浮かべる女性からは、上辺を取り繕うだけでは纏えない善意のオーラが溢れ出ており、第一印象で心から親切な人だと分かった。
師匠から信頼されている人物であり、尚且つ健全な様子はアシュレイさんにも似ている……悪い人である筈が無い。
服装だってシンプルなブラウスとジーンズだけなのに、酷く輝いて見える。
ぼうっといる間に、アシュレイは挨拶を返していた。
「こちらこそはじめまして、レディ」
「あら、中々の紳士ね。けれど、ごめんなさい。私は既婚者なの」
彼女が指輪の
「これは失礼しました! あまりに若々しかったもので」
「改めて、マリアと呼んでね」
「はい。よろしくお願いします」
次は私の番だと思って、恐る恐る一歩前に出る。
「わ、私もよろしくお願いします、マリアさん。……ここでは顔を明らかにできない事、お許しください」
「大丈夫よ」
「?」
マリアさんは私の顔を覗き込むように近寄ると、
「ほら。
と言って、頬に軽くキスをしてくれたものだから、緊張はすっかり解けた。
自分よりずっと明るく、ポジティブで、積極的なこの女性を、私は早くも尊敬した。
ホールの周りですら視界に入る人の数はとても多かったように、入場すると見た事も無いほど沢山の人が居た。甚だしい人口密度に、私は正直圧倒されている。
ただ、フードさえ被っていれば素顔が露呈する心配は無いらしい。フードを被っている事自体も怪しまれないか気を揉んでいたけれど、誰も特に気にしていないので、杞憂だった。
予約した座席に四人で着くと、不思議な気分になった。はたから見れば、私たちは家族のように映るのだろうか。
「師匠とマリアさんは、どんなご関係でいらっしゃいますか?」
私が尋ねると、二人は目配せを交わしてから答えた。
「ただ、旧知の仲というだけだ」
「そうね……それはそうと、もうすぐ演奏が始まるわ」
一瞬の間に気付かないほど鈍感ではないけれど、
マリアさんの腕時計が正時になると同時にホール全体の照明が落ちて、司会と思わしき男性の声が会場に響いた。
「只今より【クリスティアン交響楽団】のコンサートを開始致します。ご来場のお客様は、開幕に大きな拍手をお願い致します!」
途端にホールは拍手の音で埋め尽くされた。右を見ても左を見ても、一人残らず全員が拍手をしていた。勿論、マリアさん、アシュレイさん、師匠まで。私も遅れて手を叩き始める。
その時間で正面にあった紅い幕が上がり、スーツに身を包んだ演奏者たちの姿が露わになった。
(凄い! あんなに沢山の楽器……)
また、舞台袖からタキシードの紳士が出て来て、真ん中まで来るとこちらに礼をした。
気付けば拍手の嵐は止み、紳士が腕を振るうと同時に曲は始まった。
♪♪♪♪♪♪♪
昨日教えてもらったから知っている。あの人は指揮者といって、演奏全体を取り仕切る
役目だ。
ただ、百聞は一見に及ばないもので、
棒と腕を振るう動作一つ一つに楽団員へのメッセージがあり、全身を使って伝えようとしている様は実物を見ないと知り得なかった。
指揮者に最前線で応えるのは弦楽器たち。小さい順にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。素人の耳にはそれらの違いが聞き分けられないくらい、一体感とスピード感のある音を作り出している。
弦楽器が少し静かになると、今度は笛の存在感が増した。長さの違う4種はそれぞれ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットといった筈。
それらの後ろに控えているのが管楽器……トランペット、トロンボーン、ホルン、チューバ。要所要所をしっかりと盛り上げているのは間違いなく彼らだ。
また、舞台からはかなり離れているにも拘わらず、体の芯に震動が響いて来る。これがバスドラムやティンパニといった打楽器の仕業だと鑑みると、いかに力強いものかよく分かった。
曲によっては追加でピッコロや鉄琴、ハープなどが使われ、そういう物も熱心に観察していると、いつの間にか前半が終わっていた。
「これを持ちまして、30分の休憩を取ります。お荷物の取り違えなど無いよう気を付けて、ご自由にお過ごしください」
司会の男性がそう言うと、厳かな空気は一気に解除され、観客たちは立って伸びをしたり、外の空気を吸いに出たり、楽しそうに私語を始めた。
マリアさんも
「シルビアちゃん、音楽はどう?」
と訊いて来たので、私はまだ冷めない興奮を伝えようと試みる。
「まだ半分なのに、とても感動しています! 何と言うか、聴覚だけじゃなく全身の感覚や意識に働きかけて来るものがあって、グッと世界が広がるような……」
「それは良かった!」
アシュレイさんと師匠も
「ですって、師匠♪」
「あぁ。連れて来た甲斐があった」
と、ご機嫌の様子。
私も幸せだし、皆も嬉しそう……そういう時間が大好きだ。
「実はね、うちの息子もシルビアちゃんと似た事をよく言うの」
「『全身の感覚を使って――』っていう話ですか?」
「そう……彼は『目で聞く』とか『肌で聞く』って言うんだけど、やっぱり若い子の感受性って凄いんだなぁって思うわ」
「息子さんがいらっしゃったんですね……今日は?」
「一緒ではないけれど、ここには来てるわ」
「僕たちはお手洗いに行って来るよ」
と、師匠とアシュレイさんは席を立った一方、マリアさんは何処にも行かず座っていた……明らかに
不思議に思いながら隣に座ると、質問を切り出す前に彼女は教えてくれた。
「この休憩時間にもね、演奏する人が居るの」
「どういうことですか? 楽団の皆さんも一度舞台を離れているみたいですが」
「楽団員は居なくても、
「『
改めて舞台の方に目をやると、舞台袖からせっせとグランドピアノを押し出している少年が居た。
・後書き――――――――――――――――――――――――――――――――――
「題名のない音楽会」っていうテレビ番組が懐かしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます