第8話 友人の予感


 私たちは勢いに任せて走り、気付けば廃屋街の方まで来てしまっていたが、そんなことよりも先に少年の怪我が心配だ。


「さっき演奏していた方ですよね? 大丈夫ですか?」

「んん……」


少年は傷を手で押さえながら呻くように答えた。不揃いに抉られた傷は生々しく、彼のシャツの首元が赤く染まるほど流血している。私は彼の傷にハンカチを当てつつ、ゆっくり座らせた。

少年が一息吐く間に周りを見渡したが、人も居なければ役立ちそうな物も無い。そもそも、廃屋街ではろくなものを期待できなかった。


「どうしよう……」


中心街まで戻れば誰かしらの助けを期待できるが、逆に言うと不特定多数の民衆から注目を浴びてしまう。素性を隠すべき私には都合が悪い。

そうやって難儀していると、後ろから貫禄のある声が耳に入った。


「何かお困りか? お嬢さん」


聞き覚えしかない声だ。

振り向くと、師匠がこちらを見下ろしていた。

そして、同時に「お嬢さん」という呼び方に違和感を覚えた。彼は全くと言って良いほど冗談を口にする人柄ではない。

まるで他人である事を装うような言い草だ。


(まさか、関係を知られないためにわざと?)


この少年が初対面の師匠を弔いだと見破る方法は流石に持たないだろうが、廃屋街にうろついている人間など好まれたものではないのは確か。私もそちら側・・・・の人間だと悟られないように、彼は演技をしているのだ。

自分への配慮であり、仕方の無いこととは言え、最愛の師匠と他人の振りをするのは寂しくなる。


「この方が怪我をしているんです、助けて頂けますか?」


私が会話を合わせると、師匠は早速少年の傷を診て、


「なるほど」


と言った。

少年の方はというと、素顔の見えない黒尽くめの大男を前に若干物怖じしている。

だが、その表情には決して嫌疑の気持ちが現れておらず、単に緊張しているだけのようだ。

ただ、その表情は今驚きに変わる。

師匠が突然少年を担ぎ上げたのだ。少年は


「うわっ、ちょっと!」


などと声を洩らして慌てていたが、師匠は彼を腕の中に座らせてゆっくり立ち上がった。

こういうことは私にしかやらないのかと思っていた……


「手当てをする。付いて来なさい」



 そうして古い診療所へ案内されたものの、先刻私が出発した場所であるのだから、見覚えしかない。この門をくぐれば、いつもは安心が得られるのだけれど、今はなんとなく気不味かった。

アシュレイさんは不在のようで、珍しく師匠が診察室の席に着いた。

また、少年を自分に向かい合って座らせて、手際良く薬品や道具を揃えた。


「何があった?」


師匠はピンセットの先につまんだ消毒綿で少年の傷を丁寧に撫でながら訊く。

これには横に立っている私が答えた。


「私が路地裏で不良に絡まれてしまって」

「君の方は無事か?」

「はい、私は……」


師匠が先に心配したのは結局私のことだった。何よりも大切に思ってくれるのは嬉しい限りだが、恩人である少年を軽視するのは失礼だと思わずにはいられない。

彼は私なんかのために、しかも初対面で、かなりの危険を顧みず助けてくれたと言うのに。

とは言え、さっき私は少年が抱っこされるのを少し嫉妬した。


私は自分の気持ちが、師匠に何を望んでいるのか分からなくなった。

でも、今日の師匠は何かが違う。私が思っている師匠と違う。そうじゃない、もっとこう……


上手く説明できないけれど、私はとにかく師匠についての解釈不一致をこじらせていた。

しかし、師匠の真意は全く違った。手当てを終えた師匠は少年の頭に手を置いて


「立派だな、坊主。お前はこの子を守り抜いた」


と、言ったのだ。

一人の父親としての感謝と、一人の人間として賞賛。

師匠が私のことを寵愛しているのは分かり切っている――そう思えるくらいの優しさを貰っているから。

けれど、この言葉に込められた思いは私の存在以前のものだ。

私は師匠にとっての自分を過大視していた。ローレンスという人は、私の為なら全て二の次にするような人ではない。自惚れに近い勘違いをしていた自分が少々恥ずかしくなって来た。

初めは唖然とした様子だった少年の方も、すぐに安心した表情を見せる。


「何かこう……俺に父親が居たらこんな感じなのかな?」

「そう、かもな。坊主、名前は?」

「ルドウィーグ」

「そうか。ルドウィーグ・・・・・・か」


師匠は噛み締めるように彼の名を口にした。




 廃屋街を後にしつつ、私は隣を歩く彼に話し掛けた。


「……今更になるのですが、さっきは助けていただいてありがとうございました。ルドウィーグさん」

「あぁ、でも、俺を追い駆けてたらあんなことになったんでしょ? なら、こっちにも責任あるし、放って逃げたら罪悪感が残る。そんな日はご飯が味気無いし、寝付けなくなっちゃう。それだけ。だからそんなに畏まることない」


ルドウィーグはとても自然体で、誠実な人だった。私は早くもその態度を信用――或いは期待して、もう一段階踏み込んだ話をしてしまう。


「……先程手当てをして下さったローレンスという方、実は私の義父ちちなんです」

「え、そうなの?」

「廃屋街に住んでいるから、きっとあんな振りをしたんだと思います。それに、不良の話が聞こえたんじゃないですか? 私は奴隷の人種らしいです……」


私はルドウィーグに何を望んでこんな不安を吐き洩らしているのか分からないけれど、この舌がまだ止まりそうにない。

すると、ルドウィーグは私の言葉を包み込むように遮り、きっぱりと言ってくれた。


「何それ、俺の知ったことじゃない。君が何であれ助けた」


私はびっくりした。

ただ、開いたままだった口はいつの間にか微笑が宿り、上がった口角に手を添えて私は小さな声を立てた。


「フフ、フフフフフッ……」


今この瞬間、私は「笑う」ことを知った。

微笑むわらう」なら幾らか経験済みだったが、声を出して喜んだのはこれが初めての筈だ。


「俺、痛いこと言った?」


ルドウィーグは困惑した様子で訊いて来る。


「いえ。その、これまで会った人からは嫌な顔をされて来たのに、あなたはこうもきっぱりと……そうしたらなんだか嬉しくなって」


この時の私はもう、フードで顔を隠すことなど考えていなかった。だからこそ、その表情をいっぱいに伝えることができたのだろう。

それでルドウィーグも打ち解けたように、改めて話を始める。


「ねぇ、名前訊いても良い?」

「あ、申し遅れました。シルビアと呼んで下さい」

「そっか。シルビアは裏路地で何してたの?」

「実は大通りの外れにある本屋を訪ねたかったんですが、道に迷っていたんです」

「ほぉ……好きな本とかある?」

「読書に関してはまだ素人なのですが……最近読んだ『レタスと姫様』なんかが印象に残ってます」

「それ知ってるの⁉ センス良いなぁ~、これなら喜んで我が家に招待できるよ」

「我が家?」

「その本屋、我が家うち!」


ルドウィーグは驚いた私の様子を見てほくそ笑んでいた。




「只今帰りました」


私の帰りを最初に迎えてくれるのは大抵アシュレイなのだが、今日は師匠が先に来た。というか待っていたようだ。


「あの後、大事には至らなかったか? 俺のした事が余計でなければ良いんだが……」


師匠がこんな弱腰の態度を取るのは初めてだった。

ぎこちないながらも、娘のことを分かろうとしている父親……そう思うと何だか微笑ましくて、私は笑顔を見せながら答えた。


「いえ、お陰様で『友人』と言える人が出来ました!」



 後からアシュレイさんから聞いたのだけれど、出掛けてすぐの頃に感じた視線の正体は、心配で尾行していた師匠本人だったそうだ。それならばあんなに都合の良いタイミングで助けに来てくれたのにも納得だ。

 師匠は案外心配性なのかもしれない。


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