第35話 涙風味
エイルを出てから殆ど走りっぱなしだった馬車がようやく止まった。ドアのノックとともに馭者の紳士の声がする。
「シルビア様、到着いたしました」
「はい」
トランクを持って外に出ると、春を迎えた街の爽やかな空気と、昼の明るく賑わう景色が私を出迎えた。サリヴァーン先生が実験施設から解放してくれなければ、ここに居ることは叶わなかっただろう。
防壁街から実験施設に連行された時も同じように馬車だったが、待遇は雲泥の差だ。
あの時と違って手錠も掛けられていないし、車窓に黒いカーテンが張られていないので、外を眺めることも許される。馭者の紳士も、こちらを気遣うように時々話し掛けてくれた。
ともかく、私はまたしても教皇都に来ていて、目的地はこのレストランだった。
「狩長殿は先に入っているそうなので、合流してください」
「分かりました。ここまでありがとうございました」
「いえいえ、あなた様を無事に送り届けることが私のお役目です。サリヴァーン司教――いえ、もう大司教ですが、あの方からよく言い聞かされておりますので。それでは失礼いたします」
馭者の紳士は深くお辞儀をすると、また馬車に乗り、去って行った。
私がレストランに入ると、早速店員に声を掛けられた。
「お一人様ですか?」
「いえ、知人が先に来ていて」
「あぁ……もしかしてアインハード様のお連れ様ですか?」
アインハード……
姓の方で言われて少し考えてしまったけれど、狩長のことだと分かった。
「はい!」
「では、ご案内します」
狩長は抜け目の無い人なのか、或いはこの人は凄く気の利くのか、いずれにしても感心しつつ、私は店員の後ろに付いて行き、奥のテーブルまで来た。
「アインハード殿、お連れ様です」
「あぁ、サンキュー」
店員に対して軽く答えた金髪の青年――それは狩長、レオン・アインハードで間違いなかった。座っていても分かるスタイルの良さと言い、シンプルながら良く似合ったスーツと言い、風格だけで本物であると察せる。噂で聞く以上に若々しく、また、相当の美男だった。
一足先に食事をしている彼に向かい合う形で座ると、彼は追加注文をした。
「これと同じステーキを彼女にも」
「承りました」
店員が去ると、狩長は私に手招きをする。不思議に思いつつも耳を近付けると、
「これ、僕しか知らない裏メニュー」
と囁き、ドヤ顔をキメ込んで居た。その様は自慢をする少年そのものである。
「あ、ありがとうございます」
彼のテンポに若干置いて行かれている節があるけれど、決して悪い人ではないと分かった。何より、親しみ易そうだ。
「あの、ご存知とは思いますが、シルビアです。よろしくお願いします」
「うん。こちらこそ初めましてだね。
私の緊張が仕草に出ていたのか、彼はわざとおどけた。
「いえいえ、あなたのことは誰もが知っていますよ」
「そりゃどうも」
レオンは笑いながらまたステーキを一口。また、早くも私の分が運ばれて来た。
「ごゆっくりどうぞ」
渡された紙エプロンをして、
「頂きます」
と、フォークとナイフを握ったものの、すぐ身体に違和感を覚えた。
包帯に巻かれた、やつれた右腕。実験でしつこく傷つけられ、切断された事さえある。一応、聖血の恐るべき再生能力で繋がったものの、流石に完全ではなかった。現に、後遺症でまだ上手く動かせないのである。
モルモット扱いされていた頃は何でも無理矢理口に流し込まれていたし、先日はルギアとリゲルが介助してくれたので気付かなかった。
それぞれの指を同時に動かすのが難しい、均等に力が入らない……私は手の震えを堪えて何とか扱おうとした末に、カタンとナイフを取り落としてしまった。
「ぁ……」
手を止めてそれを見ていた狩長は何も言わず、代わりに私の肉を切ってくれた。
「ごめん、なさい……」
誰も責めていないと分かっていても、私は俯いてしまう。
仮にも弔い見習いとして自分を磨き上げて来たというのに、今や一人で食事をすることもままならないというのが凄まじく辛かった。
「僕の注文が良くなかったね。でも味は保証するから、ゆっくり食べな」
狩長の言葉に私は頷くが、その拍子に目元から涙が零れ落ちた。泣いてしまったら狩長に迷惑だろうと自分を叱っても、私の涙腺はあまり言うことを聞かない。ステーキのグリルプレートに落ちた涙がジュワッと音を立てた。
すると、狩長はいつの間にか私の隣に居て、よく背中を摩ってくれた。
「安心して。
「……本当、ですか?」
「あぁとも」
そうやって微笑む彼の言葉は極めて大袈裟だったけれど、説得力のある言葉でもあった。この人の下でなら、またやっていけそうだと思えた。
私は目を擦って涙を退場させ、もう一度フォークを手に持った。
「……であれば、きちんと栄養を摂るところからですね」
やはり指が震えてしまって、行儀の悪い持ち方に頼らざるを得ない。それでも私は諦めずに肉の一切れを刺した。
心身ともに一苦労して口に運んだステーキは、涙のせいか若干塩辛い味だった。
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