第1話 血の巡り 後編
僕は少し離れた屋根の上から師匠の方を見守っていた。ただ、今は建物の影に居て、スコープで覗いても彼の姿自体は映らない。そんなとき、突然大量の血が迸るのが見えた。
「……‼」
一瞬とは言え、真っ青な不安が心を覆い尽くす。
例え師匠のようなベテランでも、この仕事はいつも死と隣り合わせだ。だから、あの血が敵のものだと断言はできない……僕は弓をより一層強く握りしめて構える。
しばらく待っていると、その場所から色の付いた煙が上がった……師匠からの信号、発煙筒による合流の合図だ。
僕は安堵して、すぐに向かった。
駆け付けると、胸に深傷を負って死んでいる憑き物の前で、師匠が短く祈りを捧げているところだった。
例え醜い怪物でも、彼は死者に対する慈悲と敬意を忘れず、余裕があるときは昔からこうしていた。
僕も
「無事でよかったです。血だけ見えたりすると冷や冷やするんですよね……」
「確かに、頭上から襲われて危いところだった」
僕はその時の状況が大体分かった。
頭上から迫り来る憑き物に対し、師匠は咄嗟に矛を突き出したのだろう。想定外の反撃に、【
……【
一体も見かけない月夜は無いほど出没率が高いというのに、危険度も高い。この街以外でも、見習いや新人の弔いを早死にさせている脅威だ。僕も何度これに恐怖し、殺されかけ、また殺して来たことか……
「それとだ、この熊狼のとは別の血痕がある。お前の言った通りだ」
師匠はそのもう一つの血痕を指差していた。僕らが最初に矢を撃ち込んだ時、ここにはやはり二体の憑き物が居たようだ。
「……ホントだ、黒っぽいのありますね。で、合流したからには何か特別なことが?」
「様子がおかしい」
師匠は微かに聞こえて来る息遣いについて言っているらしく、血痕が続く方に耳を澄ませてみた。
「……確かに、何かめっちゃ苦しそう。こんなのは初めてだけど、ささっと確かめちゃいましょう」
「あぁ」
師匠が前、僕が後ろになって血痕を辿ると、その先には銀毛の狐のような憑き物が弱々しく丸まっていた。驚いたのはその大きさ。体長6メートルはある……先程の熊狼すら小さく思えた。
また、予想通り、背中には残り一本の矢が刺さっている。
この個体はとにかく異質だ。普通の憑き物は理性も失っているので、不潔で狂暴だ。一方、こちらの姿勢はどこか人間の座り方に似ており、月光に照らされた長いフワフワの銀毛も美しい。
こんな発症形態は見たことも聞いたことも無かった。
「こんなに綺麗な憑き物が……」
僕がつい声を洩らすと、憑き物はこちらを睨んだ。
僕は
(しまった!)
と慌てたけれど、それ以上の何もして来ない。それどころか、首をもたげるのも
僕はまだ距離を取って様子を窺おうと思っていたところ、師匠は何の躊躇いも無い足取りで憑き物に向かって行く――あろうことか、武器も構えずに。
「ちょっと、師匠! 弱ってるとは言え、迂闊ですよ!」
僕は心配のあまり、大きな声を出した。
「……」
彼は沈黙を保ったまま歩みを止めない。
「師匠、ねぇってば!」
服を引っ張っても彼は減速すらせず、僕の体重なんか知らん顔で引き摺って行くものだから、やがて手がすっぽ抜けて僕は尻餅を搗いてしまった。
「
丁度その時、師匠の表情がチラリと見えた。
ほんの少しでも素顔が見えたのはこれが初めてだ。
比較対象となる普段の表情など知らないが、何かに憑りつかれたかと思うほど純粋な眼差しをしていた。視線の先にある憑き物ではなく、もっと深いものに渇望し、惹かれていくような様子。
よく分からないのに、僕はとにかく不吉な予感を覚えた。
このまま行けば、彼が虚ろな別人になってしまうような気がして……
「……師匠?」
僕はもう一度、今度は丁寧な気持ちで呼び掛けると、彼は我に返ったように、ベールを揺らしてパッと振り返ってくれた。
「……」
師匠は一応正気に戻ったけれど、憑き物に歩み寄ることに変わりは無かった。
僕ももう、それを止めはしない。
師匠は手甲を取り、大きな掌で憑き物の額にそっと触れた。
憑き物は初め、威嚇を無視して寄って来た彼に怯えていたが、触れたまま少し経つと、安心したようにごくゆっくりと地に伏せ、やがて息もしなくなった。
「もう大丈夫だ」
僕に安全を告げたのか、或いはこの憑き物に安らぎの言葉を掛けたのかは解らないが、師匠は視線を悟らせずに言うのだった。
僕も彼の傍まで恐る恐る近付き、憑き物の腹に手を置いてみた。
「温かいね……」
僕は精密射撃の為にフィンガーレスグローブをしているから、そのままでもジンとした温もりがよく分かった。
「まだ腹が動いているな」
「え゛っ、嘘⁉」
僕はゾッとし、手を離して跳び退く。
「何何何何⁉ 寄生虫?」
想像しただけで身震いしている僕と違って、師匠は動揺せず答える。
「随分大きい。腹全体が膨らんでいるからな」
「え、じゃあ……喰われた人がまだ消化器の中で生きてるとか⁉
「お前、医者じゃないのか」
「いや、プロじゃないし! 仮にプロでもそこまでグロ耐性無いわ!」
「違う、きちんと分析しろ」
師匠が呆れたように叱るものだから、僕は水筒を飲んで一呼吸置いてから、憑き物の遺体を隈なく診た。
「お腹に赤子が居る。でも……でも、師匠。祟りを発症したら生殖能力は無くなるんだよ⁉ 実際この生物には産道も無いんだし!」
僕は自分の出した答えを必死で否定したかった。こんなにも異例な、おぞましい事態を受け入れられない。
「切開すれば解る」
得物は置き、短剣を取り出しながら師匠は言うのだった。
・後書き――――――――――――――――――――――――――――――――――
第4話「贈り物」で1段落するので、ギブアップする際は是非そこでお願いします。
また、私の近状ノートにはキャラクターイラストなども貼っているので、興味があれば見て行ってくださいな。
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