第2話 憑き物の子 前編
解剖には細かな知識と繊細な技量に加え、憑き物の厚い皮膚や硬い肉を切るだけの力が求められる。
非力な者が無理に力を込めた結果、臓器を傷つけてしまうというのは避けたい。
なので、作業自体はローレンスが行い、医学の心得のあるアシュレイは指示に徹していた。
彼の守備範囲はあくまでも人体医学だが、大抵の憑き物は哺乳動物とよく似た体の造りをしているので、知識の応用が効く。
ただし、この銀狐……血液だけは明らかに異常だった。
「ねぇ師匠。この血、黒過ぎません? まるでワインみたいだ」
「……」
先に発見していた血痕も純粋な赤ではなかったが、周りの暗さと酸化の進行に起因するものだと思われていた。
しかし、ローレンスが遺体に刃を入れる度に零れ出すのはまだ新鮮な血であり、量も多いので見間違いようが無い。
銀狐には初めから赤黒い血が通っていたのだ。
細心の注意を払いながらの解剖は難航したものの、二人は遂に子宮らしき臓器を突き止めた。
ただでさえ巨大な銀狐の下腹部の殆どを占める程の大きさのそれは、出口が退化して袋状になっており、何かを内包しているらしい。
祟りに感染すると生殖器官が無くなる。また、妊婦の場合は胎児ごと失われた事例が幾つかある。
要するに、憑き物が身籠る事など本来あり得ないのだ。
「開けるぞ」
ローレンスは合図と共に、ゆっくりと短剣を突き立てた。
湿った肉が弾ける気味の悪い音を経て、透明な液体が零れ出す。
「これは羊水か……もう少し待ちましょう」
アシュレイは恐怖に似た緊張の中にいつしか興奮を抱えて、息を呑んだ。
臓器は中身の重みで裂け目を広げ、長い管とそれに繋がった大きな肉塊を吐き出した。
粘液
表面はブヨブヨした膜に覆われていて、丁度死んだ蛙の腹のような質感だ。
動脈と静脈が織り成す不気味な丹青は、暗がりの中でもくっきりとしている。
「これも切るか?」
「いや、胎膜は中の赤子が自力で破る筈」
憑き物の子など見当も付かないまま、二人はこれを見守った。
数秒後、激しい脈動が見られた。
息が白くなるような真冬にも拘らず、大粒の汗がアシュレイの首元を流れ落ちる。彼はいつになく鳥肌を立てていた。
胎児は微かな生命力と強い意思によって何度も蠢き、力の限り藻掻き、ついに外の世界へと這い出た。
……誕生の瞬間である。
奇妙なことに、ローレンスもアシュレイも感動や驚嘆を覚えた。
「例え何であろうとも、この世に誕生するという事は素晴らしい」……そんな言葉が相応しい状況だった。
「人間の、手?」
アシュレイがそう呟いた通り、出て来たのは端正な指先を持つ白い腕。
彼は無意識の先入観で、目も当てられないような胎児の姿を想像していた……マウスの幼体のごとく
ただし、うつ伏せの上半身も出て来た事で、その想像はことごとく裏切られた。
「やっぱり人間で間違いない!!」
寄って見ると、その人間は華奢で、15か16歳の子供といったところ。
白磁のごとき肌は、ずっと胎内に居て日光とは無縁の時間を過ごして来た事を物語っている。
それは銀の髪も同じで、
また、母体の毛並みにそっくりなだけでなく、より
「こんな美しいもの、地面に着けておくのは憚られる」
ローレンスは胎児からへその緒を取り払って丁寧に抱き上げた。
彼の深い憐れみを以てすれば、得体の知れない粘液が付くのも厭わない。
「……女だ」
ローレンスが姫様抱きに持ち替え、アシュレイもその子の顔を覗き込んだとき、繊細な
震えている目蓋は今にも閉じてしまいそうにだったが、彼女は曇り無き宝石のような翠色の瞳で二人を捉えている。
「――」
少女は何か言いたそうに艶やかな唇を動かしたが、声が出ないままゆっくりと微睡みに落ちてしまった……ローレンスにぎゅっと抱き付いて。
ローレンスも彼女の顔を何か有り気に見詰めていたが、やがて口を開いた。
「アシュレイ、何か大き目の布が欲しい」
「ありますよ、ちょっと待ってください」
アシュレイは腰のポーチから言われたものを取り出して広げた。
これは使わなくなったシーツ……その場で裂いて、止血帯や骨折した際の三角巾として使う。
ただ、今回の用途は別であるとアシュレイは分かっていたので、それを師に手渡すまでもなく、一糸たりともまとっていない少女の体に被せてやった。
それから懐中時計を確認し、一言。
「師匠、もう定時ですね」
防壁街を警備担当とする弔いは、この二人以外にも存在する。
地区や日時で分担しており、そろそろ切り上げ時という訳だ。
「……帰るぞ」
ローレンスは少女を抱えたまま歩き出した。
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