第10話 絶脈の感触 後編
――シルビア視点で開始―――――――――――――――――――――――――――
今夜は獣除けの香料を焚いていない。
昨日メルヴィンの店で買った筈だが、彼が倒れたときに落とした後、拾い忘れたようだ。
香料は弱い憑き物にしか効果が無いらしいが、弱い憑き物ですら十分人を殺し得るのであって、決して侮れない。
備えの有無では雲泥の差だ。
いつも以上に早く目が覚めたのは、こうした不安のせいだろう。
仕方ないので、師匠たちが帰って来たときに返り血を拭う為の蒸しタオルなんかを準備しつつ、私は二人の帰りを今か今かと待ち詫びていた。
暖炉の薪が弾けて火の粉を飛ばす音とは異なる、玄関からの物音。
私の耳はそれを聞き逃さなかった。
(帰って来た!)
頬杖を突いている間のぼんやりとした表情は払い落とし、玄関へ駆けつけると、いつものように扉の鍵を開けて二人を出迎える。
その際、師匠の顔を見ようと私は視線をやや上に向けるのだが、
「お帰りなs――」
扉を開いても誰も目に映らなかった。
不可解に思いながら何気無く視線を落すしたとき、何かと目が合う。
(黒くて、大きな、毛の生えたもの……)
1,2秒経ってようやく脳が憑き物を認識し、同時に憑き物は跳び掛かって来た。
私は反射で叩き付けるように扉を閉める。間一髪のところを防げたものの、これ以上無いくらい全身で鳥肌が立った。
一瞥した限りにせよ、あれは熊狼――孤児院で植え付けられたトラウマの引き金たる存在だったからだ。
また、扉を背中で押さえても、向こうから爪で引っ掻く振動や体当たりする衝撃が絶え間無く伝わって来る。
「このままじゃ押し入られる……」
私は近くのソファーを押して来て、バリケードを作った。
それから部屋の奥に隠れてやり過ごそうと考えたのだ。
すると、案外早く音沙汰が無くなり、自分の荒い息遣いがはっきり聞こえる程の静寂が訪れた。
(……諦めてくれたのかな?)
息を整えつつ、私は安堵した――
――突如、静寂は窓ガラスと共に破られた。
「キャアッ!」
思わず瞑ってしまった目を恐る恐る、でも急いで開けると、粉々になったガラス片を振るい落としてこちらを睨んでいる熊狼が居た……侵入されてしまったのだ!
熊狼は低く唸ったかと思うと、早速跳び掛かって来る。
私は家具を盾にしながら必死に家の中を逃げた。
テーブルも椅子も棚も滅茶苦茶にされて行くが、それどころではない。
命を狙われるという実に直接的な恐怖は、容易に脳内を支配した。
次第に追い詰められている事にすら気付けず、逃げ場を失い、壁に背が付いて後
絶体絶命になってようやく周囲の状況を見ると、すぐ横に何かがある事に気付いた……壁に飾られている立派な剣。
(無謀だけど、これしかない!)
追い払うだけでも十分だと考え、勇気を振り絞って剣を手に取る――が、何かの反動に腕を引っ張られた。
剣は金具で固定されており、動かなかったのだ。
「嘘⁉」
そんな事をしている間に熊狼は今度こそ確実に私へと狙いを定め、掴みかって来たではないか。
殺意に満ちた爪と牙が後ろ髪に触れる感触……それでも私は、神にも縋る気持ちで剣を強引に引っ張り続けた。
(お願いだから!)
すると、
拘束を解かれた剣も私の手から離れて落下し、鞘走った。
その刃が偶然にも熊狼の首を掠め、澄んだ音を立てて床に刺さったのだ。
鏡のように照り輝く刀身はまだ小刻みに震えて余韻を長く響かせている一方、頸動脈を裂かれた熊狼は血飛沫を上げながら悶え、のたうち回っていた。
熊狼は最後にこちらへ手を伸ばして来たものの、結局届かぬまま私の上に倒れ込んで息絶えてしまった。
あれだけ恐ろしかった熊狼なのに、いざ事切れる瞬間を間近で見せつけられると、切なを覚える。
特に最期……正常な瞳孔などとうに失っている怪物なのに、
その首にはペンダントが下がっている事に気が付いた私は、手に取って開いてみる。
血の滲んだ家族写真が入っていた。
淑女と幼い子供の隣に
動揺のせいか、周りの景色がねじ曲がって見えて、平衡感覚もブレて来た。
私は今、凄く混乱している――いや、違う。
私は理解してしまった。
だからこそ、その真実を受け入れられずにいるのだ。
「……メルヴィン、さん?」
私はついに、全身から指先に至るまでガタガタと震え始めた。
手にベッタリと付いた血を見つめる程に罪悪感が滲み出し、涙で視界が歪んで行く。
そのとき、メルヴィンさんの遺体の辺りからぼんやりとした翠光の玉が浮かび上がって来た。
「何?」
その姿は透き通っているが、目を凝らせば生物のようにも見える。
また、一つの大きな親玉の周りを小さな光が纏わりついているのも分かった。
私は泣くのを止めて身構えたが、翠の光はゆっくりと飛び、やがて潜り込むように私の体の中へ消えた。
それっきり何も変化は起こらず、呆気に取られた。
――ローレンス視点へ――――――――――――――――――――――――――――
俺たちがバリケードを突き破って駆け付けた頃には、既に静かだった。
家具は殆ど横転し、壁・天井・床に至るまであらゆる場所が噴き出した大量の血で染め上げられている……完全に事後とといった様子。
俺は何よりも先にシルビアを見つけて駆け寄り、熊狼の死体を押し退けた。
彼女もまた全身血塗れだが、本人のそれはずっと濃い赤黒をしているので、返り血だと分かる。
「シルビア! 無事か!?」
「……師匠……」
俺がシルビアの肩を揺さ振ると、ようやく我に返った。
彼女は俺の姿を認めるや否や、抱擁を求めんと両手を伸ばして来た。
しかし、彼女は血だらけのそれを引っ込めようとする。
「構わん」
俺はすぐに手袋を外し、素の掌でシルビアの手を
そのまま彼女を強く抱き締めると、体温が急速に失われて行くのを感じた。その分、シルビアの体は温まっている筈だ。
彼女は始め、躊躇いを見せていたが、直に身を任せて嗚咽を洩らす。
「本っ当に無事で良かった……」
シルビアの気持ちを受け止めると同時に、俺もひとまず安心した。
翌日。
アシュレイは庭で洗濯物を干しているシルビアを窓から見て言った。
「師匠、あのままで大丈夫なんですか?」
「……」
正直、俺もどうして良いのかは分からずにいる。
とは言え、せっかくアシュレイが気に掛けてくれたのだから、取り敢えずシルビアの所へ行って話してみるとしよう。
今日は良く晴れていた。
あの子の背に近寄りながら
「無理をするな」
と言っても、彼女は目を合わさず、沈んだ表情のまま答える。
「無理はしていません……昨日のことをきちんと思い返す時間が欲しくて」
シルビアは手際良く次の服を物干し竿に掛けようとしたが、丁度手に取ったそれは昨日着ていたブラウスだった。
彼女の手が止まった。
十分洗った筈なのに、返り血がシミになってはっきりと残っている。
程無くして、今度はシルビアの方からこちらに近寄りながら口を開いた。
「私がメルヴィンさんを殺したようなものです」
「ああ。その事実は変えられない……それでも弔いになりたいと言えるか?」
今回の事件は予想外の出来事ではあったが、良くも悪くも彼女の覚悟を問い
シルビアが俺のことを深く慕っているのは確かだが、そんな動機だけでやっていける程甘くない世界なのは痛烈なまでに思い知った筈。
シルビアは握り締めたブラウスで顔を覆い、俺に抱き着いて言った。
「この血の跡と同じです、私の罪はどれだけ洗っても消えない……仕方無いものとして済ませて、日常に戻れはしません。…………どうか、向き合っていく術を教えてください! せめて、師匠の傍に居させてください……」
彼女が顔を
「俺はお前を守ると誓った。だがこの先、お前自身にしか解決できない苦難が待っている。そこから逃れる事だけはできないからな」
俺は自室に戻ると、倒れるように安楽椅子へ腰掛けた。
(……こんな事が無いようにと戒めていたのに、まただ)
シルビアを弔いにしたくなかった理由は二つある。
一つ目は、物理的にも精神的にも危険な目に遭ってほしくないから。
二つ目は、これ以上自分を追い駆けて欲しくないから。今俺を
俺はあの子の顔を見る度、安らぎと同時に罪悪感に襲われる。
自覚している……俺が愛しているのは亡き娘の影であり、
初め、彼女を一度孤児院に置き去ったのは、そういった歪んだ愛情は間違っていると思ったからだ。
だが、今やあの子自身がその愛情を望んでいて、無垢な心を裏切る真似もできない。
そんな状態が続く内にも、やはり情は膨らんでいって……
全ては俺の甘さに原因がある。
いつぞや、アシュレイやルドウィーグが「あなたのようなハードボイルドになりたい」などと言っていたが、俺の性根は未練たらしいハーフボイルドもいいところだ。
いずれにせよ、俺もあの子も互いに依存し過ぎている。
シルビアは穢れた
そこで俺が死んだとき、彼女が何もかも失ってしまわないかが心配だった。
(残る時間もそう長くはない。それまでに筋を通しておかないとな……)
そう考えながら、久しく机に伏せてあった写真立てを起こした。
・後書き――――――――――――――――――――――――――――――――――
獣除けの香
ドリフト島民たちが夜を凌ぐ上での必需品
焚いた際の独特な煙が獣の類を寄せ付けず、一部を除いた憑き物にも効果がある
今の姿がどうあれ、憑き物も元は人間であり
その人間すら獣に過ぎないと言うのだろうか
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