第2話 学校の裏庭

 死んでしまうことへの恐怖、一人が発覚すれば、また他の芸能人と、国民は恐れおののいた。

 逆に政府に対して、

「俺たちはどうすればいいんだ」

 と、

「何かあったら、すべて政府のせいにするという」

 という風潮があったのだ。

 しかし、政府もさることながら、国民も悪い。

 そうやって、一気に危機感が募ったかと思うと、しばらくすると、今度は、

「政府やマスゴミが煽ってくるが、そこまでひどい状況ではないのではないか?」

 ということを感じ始めたのだ。

 つまりは、台風などの時期によくある、

「くるくる詐欺」

 というようなもので、

「今回の台風は、数十年に一度の大きな台風で」

 という話であったり、

「かなり巨大で勢力の強い台風が直撃するので、未曽有の大災害になりかねない」

 などと言って、マスゴミや気象庁が煽ったとしても、実際には逸れてしまったり、中には急激に勢力を落とし、来る前に熱帯低気圧に変わったことで、消滅するものも結構あったりした。

 そんなことが何度かあると、

「マスゴミは、万全な対策をというが、どうせ、また台風は来やしないよ」

 と皆、タカを括ることだろう。

 これは、何かの現象に似ているのではないか?

 そう、この状況は、

「オオカミ少年」

 に似ているというものだ。

 この、

「世界的なパンデミック」

 にしても、

「政府やマスゴミがいくら煽っても、どうせ、人流を抑えたって、結局、収まるわけじゃないんだから、自分たちの好きにすればいいさ」

 という輩が増えてきたのだ。

 政府は、それをいいことに、そんな連中に忖度するというのか、補助金を出したくないという理由からなのか、行動制限を、感染者に関係なく、緩和しようというのだから、

「政府は国民を見殺しにしようとしている」

 と思われても仕方のないことではないだろうか?

 ただ、実際に、そんなことを言っていられないのが、医療の世界だった。

 完全に、医療崩壊していた。

「自宅待機の数は9割を超えている」

 という状況で、救急車を呼んだとしても、

「全部で払っている」

 あるいは、繋がって乗ったはいいが、受け入れ病院が見つからず、そのまま死んでしまうなどという悲惨な状態が続いている。

 今回の伝染病の特徴は、

「いきなり重症化する」

 というところにあった。

 しかも、波が襲ってくるたびに、毎回同じことを繰り返していれば、いい加減、嫌気が刺してくるというものではないか。

 最初の頃は、

「医療従事者の方が大変だ」

 ということで、皆医療従事者に敬意を表していて、だから、行動制限にもしっかりしたがっていたのだが、今のような、

「オオカミ少年」

 というような状態においては、誰も従わない。

「医療従事者が大変だ」

 ということは分かっていながらも、

「どうせ俺たちに何もできるはずなのないんだ」

 ということで、

「見て見ぬふり」

 を決め込んでいる。

 それが日本国民の正体なのだ。他の国から見ると、

「日本人は律義で真面目」

 と言われているかも知れないが、今は若い連中を中心に、結構、世の中をどうでもいいという風に感じる人が多くなってきた。

 政府が、国民無視になったのは、

「このような国民が増えたからなのだろうか?」

 それとも、

「国家が体たらくなので、国民が政府を信じなくなったせいで、こんな若者が増えたのだろうか?」

 そんなことばかりを考えていると、

「まるで、

「タマゴが先か、ニワトリが先か」

 という、禅問答を思い出す。

 そういう意味で、国家と、国民というのは、この禅問答のように、

「どちらかが、タマゴで、どちらかが、ニワトリなのかも知れない」

 と言えるだろう。

 昔、漫才で、

「地下鉄って、どっから入れたでしょうね?」

 というのがあったが、まるで、

「メビウスの輪」

 を感じさせたのは、作者だけだろうか?

 これもいわゆる、

「禅問答」

 に近いものだといえるのではないだろうか?

 そんな情けない状態の、戦犯の順位としては、

「マスコミ、陽動される国民、政府」

 の順ではないかと言われていた。

「なるほど、確かに、陽動される国民がいるわけだから、その責任は、マスゴミにあるわけだよな」

 というのが、1位をマスゴミにした理由だった。

 そして、何よりも行動で悪いのは、陽動された国民である。つまり、表に出てくるのが、いうことを聞かない国民であり、裏で操っているのが、マスゴミだということだ。

 政府もそんなマスゴミや、陽動された国民に対して、おたおたしていて、まったく対応ができていないのだから、同罪だといっても過言ではないだろう。

 それを思うと、

「亡国へと一直線だな」

 と思えても無理もないことであろう。

 そんな時代において、最初の緊急事態宣言が終わってから、その後、そこまで問題とはならなかった、

「第2波」

 を終えて、少ししてからのこと、政府は、性懲りもなく、

「経済を戻さないと」

 と、まだ感染が収まってもいないのに、キャンペーンを始めたことで、さらなる波を呼び込むことになり、ブーイングを博していた頃のことである。

 学校も、全面休校から、徐々に学校に戻ってくるようになり、世間では、一瞬の休息を満喫していた頃だった。

 夏の間、学校行事もなく、ほとんど、荒れ放題となってしまった学校では、裏庭など、雑草や、せっかく手入れを怠らなかった庭木などが、荒れ放題になっていた。

 これは一つの学校に限ったことではなく、公立私立の区別なく、ほとんどがそうだったのだ。

 要するに、ゴーストタウンを呈していた状況を、いかに打破するかということが問題だったのだ。

 季節は、秋から冬に差し掛かるくらいの晩秋の時期、どこの学校も、手入れ業者に依頼するので、大盛況であり、ちょっと遅れると、

「対応は、1カ月か、二か月先になります」

 という答えが返ってきた。

 そんなわけで、この小学校は、11月の上旬の、少し寒さを感じるようになったこの時期くらいからであった。

 ここは、前述のように、市街地から少し離れた中学校。

 前からあった中学校で、一時期近くに、もう一校できたのだが、それはあくまでも、住宅地の子供を当てにしてのものだった。

 しかし、分譲が会社の社宅のようになってしまうと、家族というよりも、単身者が増えてくることで、なかなか、子供が学校に来ることはなかった。

 そのため、できた小学校を廃止することにしたのだが、そのせいで、行政が、世間から、

「税金の無駄遣い」

 と言われたことも、当然といえば当然だった。

「どれくらいかかりますか?」

 と聞くと、

「3、4日くらいですかね?」

 ということだったので、校長も、それが長いのか短いのか分からないだけに、ほとんど相手の言いなりだった。

 それでも、

「1,2カ月も待たされるほどに、盛況なんだろうな」

 と思うと、値段も期間も妥当なんだろうと思った。

「分かりました。それでお願いします」

 と校長は、そういうと、さっそく、11月の上旬からの、予定通りの作業に入るのだった。

 中学校ともなると、結構裏庭も広くなっていて、まるで、日本庭園を模したようになっていることから、時間が掛かるのは分かっていた。

 せっかくの、日本庭園が、結構荒れているのが気になった。

 というのも、

「一年も放置しておいたわけでもないのに、ここまで荒れるものだろうか?」

 と思ったからだった。

 去年までと何が変わったのだろう?

 ということを考えてみたが、

「そうだ、今までいた用務員さんがおやめになったんだ」

 ということであった。

 校長も、その用務員のことをよく知っていた。いつも気が回る、気立てのいい初老の男性だった。

 初老と言っても、60歳は過ぎていただろう。あくまでも履歴書を見たわけではなく勝手に想像しているだけなのだった。

 その老人も、本当は辞めなくてもよかったのかも知れない。

 というのも、今回の、

「世界的なパンデミック」

 によって、学校が明らかに運営が難しくなるということで、理事長からの打診として、

「用務員はいらないだろう」

 ということからだった。

 体のいい、

「リストラ」

 だったのだ。

 本当は、ずっと前からこの学校にいて、校長先生よりも、教頭先生よりも長くいるのだった。

 もっとも、校長ともなると、定期的にいろいろな学校に行くことも仕方のないことであるが、ある意味それだけ、

「いろいろなところを知っている」

 ともいえるであろう。

 そんな校長が、今まで彷徨ってきた学校の中でも、この学校の用務員さんは、実に献身的であることは、すぐに分かった。

 昔からの学校ということもあり、宿直室で暮らしているような人だったので、ここをリストラということになれば、

「住むところも奪う形になってしまう」

 ということであった。

 ただ、この用務員さん、

「そういうことなら仕方ないですね」

 と、歯ぎしりが聞こえてきそうだったが、表面上は、何も言わずにしたがってくれた。

「この先が決まるまで、とりあえずが、3カ月は理事長に猶予は貰っているので、その間にできれば、住むところと、職を決めてほしい」

 と告げた。

 校長の方も、できる限り、他の学校に当たってみたのだったが、

「ここでリストラなんだから、他の学校だって、リストラしようと思っているところはあっても、雇ってくれるようなところなんてあるはずないよな」

 としか思えなかった、

 だが、この問題は、用務員だけに限ったことではなく、教師や、校長の問題でもあった。

「いつ転勤を言われるか分からない」

 というウワサも流れたくらいで、しばらくすると、デマだということが分かったが、

「昔から、有事の際や、災害が起こったりすると、大きなデマが飛び交って、治安が乱れる」

 と言われているので、それが怖かった。

 その最たる例が、

「関東大震災」

 であり、新聞などが発行できない状況なので、被災者には、まったく情報がいきわたらない。

 そんな時、

「朝鮮人がこれを機に攻めてくる」

 などというデマが巻き起こり、朝鮮人の虐殺が行われたというが、無理もないことだ。

 きっと、在日朝鮮人全員が、

「諜報部隊の人間」

 という風に写ったのだろう。

 戦争などにおいて、虐殺事件というのは、つきものであり、

「尼港事件」

「通州事件」

「通貨事件」

 などは、日本人に行われた海外での大量虐殺事件としての、悲惨なものの代表であろう。 

 そこまでひどいものではないが、この頃、令和2年というのは、

「有事と同じ」

 といってもよかっただろう。

 大日本帝国時代であれば、

「戒厳令」

 というものがありえたのだ。

「戦争、災害などの有事において、治安を維持するため、軍や政府が、その都市に戒厳令というものを敷き、市民に与えられている自由や権利を、ある程度まで制限できる」

 というものであった。

 今であれば、憲法9条がある以上、

「有事は日本にはありえない」

 という考え方と、さらに、

「基本的人権の尊重」

 という観点から、

「国家が、国民の自由を侵害してはいけない」

 ということになり、戒厳令というものがありえないものとなっているのであった。

 大日本帝国時代に、実際に、戒厳令は、3回発令された。

 その三回は、大日本帝国が存在した期間の、元号、それぞれに一回ずつという結果ではあったが、最初にあったのは、

「日比谷公会堂焼き討ち事件」

 であった、

 日露戦争終結の際、ポーツマス条約にて、戦争賠償金を得られなかったことに怒りを覚えた民衆が、小村寿太郎外務大臣の家や、日比谷公会堂を焼き討ちにするという暴動を起こした。その暴動を抑えるのに、軍が出動し、強制的に抑えるしかなかったのだろう。

 これが明治に起こった戒厳令であるが、次は大正時代である。

 大正に起こった、事件、災害で、未曽有の大災害が、大正12年の9月1日に起こった。これが、いわゆる、

「関東大震災」

 である。

 先述のように、

「朝鮮人虐殺」

 などという事件もあり、そのせいもあってか、治安はすこぶる悪かった。

 何しろ、情報が錯そうし、どうしようもない混乱だったからだ。

 そうなってしまうと、軍が出て、統制するしかないだろう。それが、大正時代に起こった、

「二度目の戒厳令」

 であった。

 一回目が、暴動、二回目が、地震という災害。では三回目はということになるのだが、これが、昭和に入ってからの、

「クーデター」

 ということになるだろう。

 もちろん、戒厳令というのは、大日本帝国時代にしか存在しないので、昭和20年までに起こったことになる、では、それまでに起こった、

「一番大きなクーデター」

 と言えば何かというと、そう、昭和9年の、2月26日に起こった、

「二・二六事件」

 ということになるのだ。

 いろいろ意見はあるようだが、このクーデターというのは、本人たちは、

「天皇を取り巻く、甘い汁を吸っている特権階級の連中を、奸族として天誅を加える」

 という精神で、

「尊王倒奸」

 あるいは、

「昭和維新」

 の旗印の元、立ち上がった青年将校たち。

 というのが、一般的に言われていることであるが、実際には、そうではない。

 単純な、

「陸軍内部の、派閥闘争だ」

 といっていいだろう。

 当時陸軍は、皇道派と呼ばれるグループと、統制派をいうグループが軍内部で激しい派閥争いを繰り返していて、暗殺事件も起こっていたりした。

 最初は、皇道派の力が強く、皇道派が覇権を握ったかに見えたが、そのうちに統制派が勢力を盛り返し、皇道派は劣勢となった。

 そんな時、皇道派の連中が、統制派に近い、政治家の連中を葬りさるという、クーデターを考えていた。

 さらに、統制派のリーダーと目された大将を、担ぎあげ、首相を殺した後で、その大将に、総理に就任してもらい、自分たちに都合のいい政府を作ろうと画策したことだった。

 それは、正直なところ、暗殺された人たちのメンツを見れば、派閥争いであることは火を見るよりも明らかだった。

 それでも、彼らは、

「天皇中心の中央集権国家にして、立憲君主制を推し進める」

 ということを、決起衆意書に纏めたのだった。

 しかし、この企みにいち早く気づいたのが、こともあろうに、天皇だったのだ。

 天皇はお怒りになり、

「こんな、残虐なやり方で、朕の重鎮たちを葬り去るなど、これ以上の暴挙があるか」

 と言ったという。

 陸軍側としては、青年将校に同情的な人もいたが、天皇陛下が、立腹しているのを見ると、何も言えなくなる。

 決起した青年将校たちは、

「反乱軍」

 というレッテルを貼られ、

「数日で鎮静化できないのであれば、自分が自ら軍を率いて、鎮圧することにする」

 というほどに、怒り心頭だったことで、もう、抑えつけてでも、鎮圧するしかなくなったのだ。

 もうこうなると、戒厳令は必然となってしまった。

 これが天皇の意志であれば、国民も逆らえないというものだ。

 反乱は三日で収まり、兵は、原隊に帰したが、青年将校の一部は自決し、一部は投降した。

 投降した連中は、

「裁判で、自分たちの決起を明らかにし、世間に、正しかったことを訴える」

 というものであったが、彼らの裁判は、

「弁護人なし」

 さらには、

「非公開」

 ということで、表に出ることはなく、全員、銃殺刑であった。

 この数年前に、海軍の青年将校が起こした、

「五・一五事件」

 においては、刑が重くても、死刑になる人間はいなかった。

 それを見ていた陸軍将校たち。彼らの中には、

「クーデターを起こしても、死刑になることはない」

 とタカをくくっていたのかも知れない。

 しかし、事の目的が、派閥争いであり、天皇が、

「反乱軍だ」

 と認定したことで、事態はまったく違っていたのである。

 そもそも、

「政治には不介入」

 とされている天皇にここまでさせたのだから、その罪は重いということであろう。

 天皇が、政治に口を挟んだのは、これも3回あり、一回目は、

「満州某重大事件」

 と呼ばれた、当時中国で内乱があったが、その一角にいる北伐のドンであった、

「張作霖」

 という人物を、満州鉄道の列車ごと、爆殺したという事件である。

 この時、当時の首相、田中義一に対し、天皇が、どういうことなのかと訊ねるので、

「調査して、犯人を見つけ出し、対応します」

 といっていたにも、関わらず、数日後に、

「結局犯人は分かりませんでした」

 と答えた。

 それを聞いた天皇は激怒し、

「この間は、ちゃんと対処すると言ったではないか。お前の言っていることはサッパリ分からん」

 といって叱責したのだった。

 まもなく、それが原因で、内閣は総辞職したのだった。

 天皇は、これをたいそう気にしてしまい、

「政治不介入」

 の精神をもう一度考えたという。

 ただ、さすがに、226の時はそうもいかなかった。基本軍内部のことだが、政府の人間が暗殺されたということに口出しはできないのかも知れないと考えたのだろうが、さすがに我慢できなかったのだろう。

 そして、最後に天皇の意志が明確になったのが、大東亜戦争の終結であった。

 御前会議では、普通は発言することのできない天皇が、

「国民のため」

 ということで、

「自分はどうなってもいいから」

 ということでの、玉音放送となったのだ。

 この3回が、天皇が政治関係のことに口出ししたものであった。

 どれも、天皇とすれば、黙っていることができないことだったに違いない。

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