第32話 歌の天使

 天気のいい、一日だった。


 デューイは小さな窓から小さな青空を眺めたが、外に出る気分にはなれなかった。


 アリスは、もういない。


(――お前にだけは、話しておく)


 戻ってきたオレンジが彼に告げたのは、あれからすぐのことだった。


(アリスは、ばらばらになんかされなかった。だが、もう、いないんだ)


 オレンジは彼に、フランソワのことを説明した。デューイは混乱して、オレンジにいくつも質問をした。オレンジは判る限りで答え、彼らは一度だけ、バックス邸の付近を訪れた。


 家を訪ねることはしなかった。〈クレイフィザ〉の先生ドクターと約束をしたことだし、彼らの身なりは薄汚くて不審で、訪れても会わせてもらえるはずがないからだ。


 だがそこで、彼らは、聞いた。


 紛う方なき――彼らにとっては――アリスの歌声と、知らない女性の楽しそうな笑い声。


 アリスは、フランソワとして幸せなのだ。


 デューイはそう感じた。


 彼は少しだけ目頭が熱くなるのを覚えて、オレンジに見られまいとうつむいた。


 それから彼はオセロ街に戻って、レオには少しだけ話した。アリスをばらばらにした犯人はいないということと、アリスは本当のオーナーのもとへ帰ったということ。


 レオは特に詳細を突き詰めることなく、友人が復讐をする理由がなくなったということにただ安堵をした。


 オセロ街から歌声が消え、一ヶ月近くが経とうとしている。


 ゴミ溜めの街から女神は消え、彼らはまた、希望のない暮らしに。


 あのあとすぐ、オレンジはまたいなくなった。今度こそ去ったのだと、デューイには判った。


(おっさんは、アリスのいないオセロ街に耐えられなくなったんだ)


(俺は)


(……俺は、まだ、ここにいる)


 デューイはぼんやりと、四角い空を眺めていた。


(――歌声が)


 ぼんやりと、彼は思った。


(歌声が、聞こえる気がする)


 アリスの声が、まだ彼の耳に残っているのか。彼は自嘲した。いつまで自分は引きずるのか。彼女はもういないのに。


(オレンジのおっさんには悪いけど)


(知らない方が、よかった)


 彼はそんなことを思った。


 アリスの仇を討つ。そう考えていた間は、苦しかったけれど、目標があった。いまは、何もない。以前よりも何もなくなってしまった。そんなふうに感じていた。


 彼らのアリスはデータだけの存在に過ぎず、消されてしまったら、もういない。


 フランソワはアリスではない。同じ声で同じ歌を歌っても、アリスでは、ない。


(歌声が)


 ぼんやりと幻の歌声に耳を傾けたデューイは、はっとなった。


(幻じゃ、ない)


(――本当に、声が)


「まさか」


 彼は呟いた。


「アリスが」


 そんな馬鹿な。あるはずがない。


 期待を自らに禁じて――そんなものは、この街では禁物だ――デューイはしかし、部屋の外に出た。


 歌声が、聞こえた。


 どこからか。


 ああ、いや、彼には判った。


 いつもアリスが歌っていた、あの広場から。


 デューイは走った。


(まさか)


(アリスが)


 彼は走った。


 壊れた石畳の散乱する、ゴミ溜めの街の広場。水の出ない噴水のふちに腰かける、女のシルエットがあった。


「――違う」


 アリスではない。すぐに判った。そもそも気づいていた。アリスの声ではない。


 だが、聞いたことのある歌だ。アリスも歌っていた。あれは誰のリクエストだったろうか。とても甘い恋の歌で、男たちはむずがゆくなるような、にやにやしてしまうような、奇妙な気分に陥ったものだ。


 デューイはゆっくりと噴水に向かった。


 歌はちょうど終わろうとしていた。


「……君は?」


 声をかければ、女は振り向いた。デューイはどきりとした。それは美しい女だった。アリスに引けを取らない。


「どうして、ここで歌ってた? どこから……」


 どこからきたのか。アリスに尋ねたことを思い出す。彼女は答えなかった。彼女は覚えていなかった。覚えていなかったところへ、彼女は帰っていった。


「君は、誰?」


 彼は尋ねた。女は優しい笑みを浮かべて、片手を差し出した。


「……それは」


 女の手首には、色あせたオレンジ色の布が巻かれていた。


「これ、おっさんのか?」


 オレンジの愛用していたものとよく似ていた。どういうことだろうと思いながら、彼はそれに触れた。女は布を解いて、彼に渡した。


「あ……」


 彼は驚いた。解かれた布の下には、薄れた――ナンバーが。


「君は、ロイドなのか」


 こくり、と女はうなずいた。


「いったい……」


 呆然とするデューイにもどかしそうな顔をして、女は布に手を伸ばした。再びそれを手にすると、彼女は布を開き、彼に示した。


 そこには、ペンで四つの文字が記されていた。


「E、M、M、Y……エミー?」


 こくり、とエミーはうなずいた。


「おっさんが? 君をここへ?」


 こくり。


「なん……どっから、こんな。何、やってんだ。あのヒト」


 呆れるような、困惑するような、よく判らない気持ちがデューイの内を駆け抜けた。


「アリスの、代わりに?」


 代わりになんて、ならないのに。デューイは唇を噛んだ。


 エミーはじっと彼を見て、彼が再び彼女を見るのを待った。デューイは複雑な表情で、視線を合わせた。


「あの、な、エミー。おっさんがどういうつもりか知らないけど、俺は……俺たちは」


 エミーはじっと、彼を見ていた。


 何かを待つように。


「……ええと」


 デューイは困った。


「君、喋らないの?」


 にっこりと笑んで、エミーはトークレベルがないことを認めた。


「弱ったな……どうすりゃいいんだ」


 彼が呟くと、エミーはとんとんと噴水のふちを叩いた。


「座れって?」


 こくり。


「……いいけど」


 デューイはエミーの隣に腰を下ろした。


(――こんなふうにして)


(アリスの歌を聴いたっけ)


 エミーは、じっと、彼を。


「……なあ」


 彼は彼女を見た。


「何か、歌ってくれるか」


 歌の天使は、にっこりと微笑んだ。

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