ガンヘッドの昨日と明日

千葉和彦

第1話

ガンヘッド(1989年)

東宝=サンライズ提携作品

製作:東宝映画、サンライズ

ガンヘッド製作委員会:東宝、サンライズ、バンダイ、角川書店、IMAGICA、東宝映画

製作:田中友幸、山浦栄二

プロデューサー:島谷能成、山田哲久

監督:原田眞人

特技監督:川北紘一

脚本:原田眞人、ジェームズ・バノン

音楽:本多俊之

主題歌:永井真理子

メカニカルデザイン:河森正治

出演:高嶋政宏 ブレンダ・バーキ 原田遊人 水島かおり 円城寺あや 川平慈英 斉藤洋介 ジェームズ・B・トンプソン ミッキー カーチス


 『ガンヘッド』のDVDは、2007年に発売されている。これは特技監督の川北紘一の尽力によることが大きい。

 川北は2003年に独立、ドリーム・プラネット・ジャパン(DPJ)を設立している。川北はここで特撮マニアの「声なき声」を集めて、自分の「代表作」である『ガンヘッド』をDVD化すべきだと東宝ビデオ室を動かしたのだ。

 私はその構成案を練らなければならない。『ガンヘッド』公開時には東宝系興行会社の営業係、DVDリリース時にはDPJに出入りするライターであった。

 正直、『ガンヘッド』には嫌な思い出もある。「東宝夏の超大作」といえば聞こえはいいが、宣伝会議とガンヘッドお披露目に出た私は敗北を予感したからだ。


    *    *   *


 1987年12月に、88年東宝ラインナップが発表され、そこでは『ガンヘッド』は、1989年正月映画とされている。これを見た『アニメージュ』編集部(徳間書店)は東宝宣伝部に取材したが、「まだ発表の段階ではない」というつれない返事が返ってきている。


 一方、1988年の年頭に、スポーツ紙のインタビューを受けた長谷川和彦(映画監督)は、『禁煙狂時代』(オムニバス映画中の一篇)、SF超大作。そして『連合赤軍』の3本を撮ると豪語していた。

 まさか「SF超大作」が『ガンヘッド』のこととは、私も知らずにいた。


 水面下では既に『ガンヘッド』は動きだしていたのだ。

 軍事作戦物で『戦闘機兵0』(仮題)と題された企画書は、1986年夏にサンライズの山田哲久プロデューサーが作成していた。

 東宝の映画調整部に提出され、部長の堀内實三や同部勤務の高井英幸から好意的な反応を得たことで、山田プロデューサーは企画のブラッシュアップを開始していた。


 ただ、これに先立つ1982年には『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙(そら)編』が公開され、同年公開のアニメ映画で配給収入第1位の12億9000万円の大ヒットを記録している。

 「松竹系でこれだけあがるなら、実写版を東宝でやれば」と映画調整部は算段したのであろう。アニメ・ファンが「実写を下に見ている」という常識も、この頃まだ浸透してはいなかった。


 ともあれ、1987年中には企画もまとまっている。すでに河森正治(メカデザイナー、アニメーション監督)が参画し、いくつかのデザイン画を描いている。

 この間、企画は一旦、未来警察物の『コマンドポリス』になったが、ハリウッドで『エイリアン2』『ロボコップ』が公開されており、重複をおそれて、さらに巨大ロボット物への変更がなされた。

 河森の命名で、映画のタイトルが『ガンヘッド』に決まったのは1987年10月である。翌1988年1月、ロボット原型も完成したのだが……。


 起用が決まっていた長谷川和彦がいきなり降板している。東宝の重役の中にも、長谷川起用を疑問視する向きは多かったと聞いている。だが降板したのか降板させられたのか、真相は外部には伏せられている。

 やはり起用が決まっていた川北紘一は、「長谷川和彦は打ち合わせに来なくなった」(大意)と発言としているので、川北組の見方はハッキリしているが。


 後任に監督候補が何人かあがったが、その中に原田眞人がいた。

 原田はロサンゼルスで映画を研究、ハワード・ホークスをはじめとするハリウッド映画人に取材して映画評論を書き、映画監督への道を歩き出した、という異色の経歴の持ち主だった。それだけに、世界マーケットを目指す『ガンヘッド』にはふさわしいのではないか、と思われたのだ。

 たとえば、1984年に原田が撮った日独合作映画『ウインディー』では、渡辺裕之扮する主人公に影響を与える老人役に、英国からパトリック・スチュワートを招くなど、つねに世界を意識した映画作りを行なっている。

 だが、山田哲久も、東宝の映画調整部から参画している島谷能成プロデューサーも、これが致命傷とは思っていなかったようだ。

 『ミステリマガジン』(早川書房)での原田の連載コラムを注意深く読めば、「世界」ではなく「日本でのロボット・アニメの興亡」に原田が興味を示していないことは明らかだったが。

 山田のブレーンであった会川昇(脚本家。アニメや特撮を得意とする)が映画脚本から外されたことも痛かった。


 ともあれ『ガンヘッド』のシノプシスは白紙に戻され、原田は手持ちのアイデアを幾つか出した。  

 敵中突破もののアイデアが採用された。これはハンフリー・ボガート主演『サハラ戦車隊』を元にしている。主演は高嶋政宏とブレンダ・バーキ。

 原田眞人の本編班は、1989年1月28日にクランクインした。川北紘一の特撮班は、それより3日早く1月25日にクランクインした。


 これより前、1988年秋、『ガンヘッド』は1989年夏の公開になると、瀬田一彦(映画営業部セールス)から聞いて、私は「大丈夫か?」と思った。

 この年に公開された『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、観客動員数103万人、配給収入6億2000万円(興行収入11億6000万円)まで落ちている。

 総製作費15億円といわれる『ガンヘッド』がペイするためには、配給収入約20億円(興行収入約35億円)が必須である! つまり『逆襲のシャア』の3倍の観客動員数約300万人だ……これは、やはり無理筋ではないか。

 『ゴジラvsビオランテ』を先にやって、特撮ブームを盛り上げてから、『ガンヘッド』にかかったほうがいいのに、と内心では思っていたが、すでに決定事項だと聞いて、瀬田セールスに何も言えなかった。


 製作記者会見が行なわれたのだが、映画『ガンヘッド』の知名度は、さっぱり上がらなかった。

 この手のロボットものアニメでは、まずアニメ誌で事前パブをして主役メカおよび主人公のキャラクターを浸透させるのが宣伝の常道である。それに半年くらいはかけたいところだ。

 だが『ガンヘッド』では、監督交代劇もあって、それができなかった。そもそも、作品のカラーそのものについて、前述のとおり、山田と原田のすり合わせが上手くいっていなかったのだ。

 会川による小説版『ガンヘッド』は、角川文庫で出ていたが、映画とは別のカラーの小説であるし、正直余り役には立たなかった。


 1989年3月6日。東宝撮影所第一ステージで、実物大ガンヘッドのお披露目が、全国の報道陣や劇場関係者を招いて行なわれた。

実は、この日の午前中、『ガンヘッド』の全国宣伝会議が開かれている。私も出席したのだが、正直頭が痛くなった。

 中川敬(宣伝プロデューサー)が獅子吼したのだが「女性客は要らない! 『少年ジャンプ』流の努力・友情・勝利を描いた作品として売ってくれ」の一点張り。

 宣伝資料でも、『ガンダム』について論ずるよりも『少年ジャンプ』精神の優位を、同誌編集部員の言葉を借りて訴えていた。

 『少年ジャンプ』精神と、サンライズ精神では自ずから差があるのに、それを無視して一緒にされても困るんです、と心の中で突っ込んだものだ。

(後日、映画業界誌『AVジャーナル』誌での中川インタビューを読んで、宣伝担当としての苦しみが分かった。ロボット・アニメのファンを総ざらえにしても、ペイラインに届かないと分かっていたので、『ガンダム』の亜流であることは捨てて、それこそ『ロボコップ』流のハリウッド製アクション映画を目指そう、ということだったのだ)


 その後、私たちも実物大ガンヘッドのお披露目にスタジオに向かった。実物大を前に河森が説明に立っている。

 だが、セレモニーの途中で山田Pが「今日は『ガンダム』の生みの親である富野由悠季監督にもお越しいただきました」と言い出したのには参った。

 これでは、『ガンヘッド』は『ガンダム』の亜流です、と宣言したに等しい。山田Pの頭の中ではそうなのだろうが、こうハッキリ言われると困る。『逆襲のシャア』の成績を『ガンヘッド』が超えることはありませんと公言したのと一緒だからだ!

 この日の宣伝会議とセレモニーを両方見た結果、私に分かったのは、山田Pと中川宣伝Pの間には相当ズレがあること。目指しているゴールが最初から違うのだ。ますます頭が痛くなった。


 もうひとつ頭の痛くなることがあった。取材陣の中に出渕裕(デザイナー)がいたのだが、出渕は『機動警察パトレイバー』のスタジャンを着ていたのだ。

 『パトレイバー』チームは、さほど製作上のギクシャクもなく、宣伝も上手くいっていていいなあ、と思った。

 しかし、『パトレイバー劇場版』(監督:押井守 配給:松竹)は、バンダイの出資、出渕裕、河森正治の参加で、『ガンヘッド』とほぼ同時の公開である。

 そしてアニメ・ファンへの浸透度は、『パトレイバー劇場版』のほうが遥かに上だ……これはマズイな、と思った。

 だが、東宝系興行会社の本社に戻って、上司たちに囲まれると何も言えなかった。


 瀬田一彦は映画調整部に移って、『ガンヘッド』では製作係を務めていたが、3月半ば、東宝映画の富山省吾プロデューサーに私を紹介してくれた。

 富山が、田中友幸会長のもとで『ゴジラvsビオランテ』の準備にかかっていることは、すでに聞いていた。(田中は『ガンヘッド』の製作にも名を連ねていたが、東宝映画の会長としての名目で、実務にはタッチしていない)

 私は、「瀬田さんの前では言いづらいのですが……『ガンヘッド』はコケますよ。その結果が出る前に『ゴジラvsビオランテ』の製作を固めておいていただかなくては」と富山Pに直言したのである。

 幸い東宝本社の営業サイドは、正月映画にゴジラを推そうという空気になりかけていた。

 ただ、そのニュアンスが富山にも瀬田にもまだ伝わっていなかったのである。

 その後、『ゴジラvsビオランテ』の製作が急遽決まった経緯については省略する。


 7月。限定公開になった『パトレイバー劇場版』にはアニメ・ファンが殺到した。

 それに比べて、邦画番線に出た『ガンヘッド』は前売も伸びず、ローカルでは原田知世主演『彼女が水着にきがえたら』との2本立になった。

 そして、6週の予定が5週になり、金子修介監督の『どっちにするの。』の上映が繰り上がった。


 「もしも『ガンヘッド』が、原田知世主演、金子修介監督になっていたら、と思わないでもないのだが……これは繰り言だ」「それに100%アイドル映画になってしまうので、川北紘一には合わないか?」と後日、川北宛の手紙で私はグチをこぼしている。


 実は、長谷川和彦が降板した頃、金子修介も自薦したというが、山田Pの耳に届いていたかどうかは不詳。のち、金子は『ガンヘッド』の失敗で、日本製実写ロボット映画の未来が閉ざされたと嘆いている。これも後日の話だ。


    *    *    *


 何か「死んだ児の齢を数える」調になってしまった。あれからもう35年になる。川北紘一は他界し、原田眞人は『関ケ原』『燃えよ剣』などの映画で名を馳せている。

 長谷川和彦は、1989年には結局1本も撮れず、その後も「女優・室井滋のパートナー」に甘んじているようで、ファンは焦れている。

 (原田眞人の『突入せよ!あさま山荘事件』が2002年に公開されたとき、長谷川は「あれは連赤映画とは認めない」と批判したのだが、では長谷川和彦の『連合赤軍』はいつ見せてくれるのだろう?)


 1989年、何とも混沌とした年であった。実写ロボット映画の終わりの始まりであり、ゴジラ映画の新たな始まりであった。

 先に述べた通り、この動きは私のまったく知らないところで決まった話であった。いま回想すると、薄氷を踏んだ思いがした。

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ガンヘッドの昨日と明日 千葉和彦 @habuki_tozaki

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