第21話「エミって誰?」

 深刻な話なのに、母の顔は明るくて、すぐにランチタイムのメニューを吟味しはじめた。朝は結構しっかり目に食べたのでそれほどお腹は空いてなかったけど、ボクは母に勧められた天ぷら御膳を、ユミ姉ちゃんはとんかつ御膳を注文。ボクの家庭が壊れてしまうかもしれないのに、平和なランチだ。

「凜は中学生になったら部活とかするの?」

「帰宅部でいいかな」

 なんて他愛のない会話が続く。

「あの中学、部活は強制だよ。全員何かに入らなきゃいけないんだ」

 ユミ姉ちゃんの言葉に焦るボク。笑う母。なんでもない会話のキャッチボールがとても心地いい。父がいなければこんな幸せな時間がずっと続くのかもしれない。

「ボク、運動とか苦手だから困るなあ」

「知ってる」

 ボクの言葉に母とユミ姉ちゃんが同時に答えてしまって、また笑う。

「凜、なんだか明るくなったね。きっとこれでよかったんだと思う」

 そうだ。きっとこれでよかったんだ。離婚がどういったことを意味するのかはなんとなくでしかわからない。ポジティブなことではないような気がするけど、それは間違った選択肢ではないのかもしれないという気がした。

「ありがとう」

 私が答えると、母は紙袋をボクの前に置いた。

「あなたのスマホ、買っておいたわ。中学生になってからでいいかな、って思ったけど女の子だし、いざという時にすぐ連絡できた方がいいしね」

 前にスマホが欲しいとねだったことはあったけど、中学生になるまではダメだと言われていた。

「ママ……ありがとう」

 母はボクが女の子になってから、前より優しい気がする。その場で母とユミ姉ちゃんの電話番号を登録してもらった。なんか、大人になった気分で嬉しかった。そして、いつでも母やユミ姉ちゃんと繋がれることが心強かった。


 話し合いと食事を終えるとまた仕事に戻って行ってしまった。午後から休んで父と離婚についての本格的に話す予定だったものの、父も仕事の都合で出社しなければならなくなったらしい。二人とも帰りは遅くなるということで、ボク達は一度帰って、出かける準備をすることになった。さすがに五日間ともなればそれなりの準備が必要なので、このタイミングを使って家に帰れるのは幸運だ。


「なんか、とんでもないことになっちゃったね」

 平日の午後の電車は空いていて、ボクもユミ姉ちゃんも楽に座れた。

「夫婦仲が良いとは思わなかったけど、そこまで悪いとも思ったことなかった。やっぱいボクが原因なのかな」

「そんなことないでしょ。大人の事情は子供にはわかんないんだよ。私も、無責任なことは言えないけどさ」

 原因がボクなのかは正直分からない。でも、引き金になったのは間違いない。さすがに責任を感じないわけではないけど、ボクは口を出したところで何も変わらない。今さら男の子に戻ります、なんて言えないていうか、不可能だ。

「わかんないけど。でも、まだ離婚が決定したわけじゃないんだよね。ママの言う通り、父があっさり認めるとは思えないし」

「そうだろうね。あんまり揉めずに解決してくれればいいんだけど……いや、これは時間稼ぎでもあるんだから早く解決しすぎてもマズいのか。困ったね」

 そもそも、あっさり離婚が成立しないと踏んで、単なる時間稼ぎの話し合いをするつもりなのかもしれない。母の思惑はイマイチはっきりしないけど、頭の良い人だからきっと計算があるはずだ。

「ボクがどんなに考えたって、答えなんて出るわけないか」

「そうだよ。とりあえず、心配しすぎても良くないし、温泉旅行楽しもうよ。残り少ない夏休みの最高の思い出を作るチャンスかもよ」

「本当はそんな気分にはなれないんだけど、せっかくだし楽しまないともったいないか」

 ずっとユミ姉ちゃんの部屋に隠れててもいいんだけど、それじゃ気が滅入ってしまいそうだ。それにしても、まるで落ち着かない夏休みだ。前は、つけっぱなしのテレビから流れるアニメや時代劇の再放送や甲子園中継をぼーっと見ながら退屈だなあ、なんて思ってたのに。今となってはあんな時間が恋しいくらいだ。

 そんなことを考えていると、最寄り駅についた。電車を降りると太陽は随分と傾いていた。


「急いで準備しないと、お父さん帰って来ちゃうよ。鉢合わせしちゃったら作戦は全部無駄になっちゃうんだから、すぐに荷物まとめてね」

「わかってるよ。とりあえず、適当にバッグに入れてユミ姉ちゃんの家でちゃんと整理させてもらうね」

「それがいいよ。じゃ、後でね!」

 それぞれの家の前で別れた。


 ようやく家にたどり着いたけど、ゆっくりしてはいられない。慣れた我が家なのに、変に緊張感があった。とりあえず、昨日空にしたばかりのキャリーバッグにまた荷物を詰め込んでいく。帰国してからすぐに昨日の騒動だったので、洗濯はしてなかったんだけど、母がしっかりまとめてくれていたので助かった。温泉で必要なものって何なのかよくわからなかったけど、とりあえず、着替えとヘアゴムや日焼け止め、化粧水なんかの小物をまとめた。足りなかったらユミ姉ちゃんに借りるか途中で買えばいい。お気に入りの服だけはシワにならないように丁寧に畳んだけど、他は雑に詰め込んだ。

 部屋の中を見渡して忘れ物がないことを確認しようとしたけど、よく考えたら何を持っていけばいいのかもはっきりしないので無駄な行動だった。

 素早く作業を終えたつもりだったんだけど、気付いたら20分ほどが経っていた。それでもまだ四時前だ。帰りが遅くなるのなら、まだまだ帰って来るような時間じゃない。それでも、何か嫌な予感がして、私は急いでバッグを持って玄関を出た。


 その直後、目の前によく知っている顔があった。父だ。もっとも恐れていた鉢合わせだ。

「父さん」

 思わず、声が出た。どうしよう。何て言えばいいのかわからない。次の言葉が出てこなくて、一瞬固まってしまった。

「エミ……なのか?なんでここにいる?」

 エミって誰?一瞬そんな疑問が浮かんだが、ボクはバッグを持ってダッシュする。今日はサンダルじゃなくてスニーカーで良かった。何度も路地に入りながら、ひたすら走る。振り返る余裕もなく走る。スーパーの駐車場や空き地を抜けて変則的なルートを選ぶ。できるだけ追われにくいように頭を働かせながら走る。ボクは走るのはあまり得意じゃないけど、それは父も同じだ。逃げ切れる。


 どのくらい走ったかわからないけど、随分と家からは離れた。ゆっくり振り返ったけど、誰もいなかった。逃げ切れたみたいだ。そもそも追われていたのかさえもわからないんだけど。でも、厄介なことになってしまった。

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