第16話「お父さん、帰って来るんだって」
帰宅するとすぐにシャワーを浴びた。鏡には少女の姿が映っている。もう、完全に女の子だ。手術を受けることが決まってから、ボクは股間の異物感に悩んでいた。はやく取ってしまいたいという気持ちがどんどん強くなって、本当に自分で切ってしまおうかなんて考えたくらいだ。
夢まで見た。ボクは中学校の制服を着ていて、目の前に男の子がいる。顔はぼやけててよく見えないんだけど、男子の制服を着ていて背が高い。二人の距離は凄く近い。多分、ボクは彼のことを好ましく思っている。自然と二人の身体が密着するんだけど、直後にボクのアソコが大きくなりはじめる。焦ったボクは急いで離れる。
凄くリアルな夢で、目が覚めたら涙で枕が濡れていた。ボクの身体に残っている男の部分が憎くて、凄く嫌だった。汚いとさえ思った。
シャワーを浴びながら、ちゃんと女の子になったことを確認する。もう、裸になったってちゃんと女の子だ。柔らかい身体のラインはボクの年齢にしては随分と発達していて、はっきりと女を主張する。多分、ヒナよりもずっと女らしい体つきに成長していた。ユミ姉ちゃんにはまだ負けるけど。でも、きっと追いつく。高校生になるころは、もっと成熟しているはずだ。丁寧に、確認するように身体を洗っていながら、もっときれいになりたい、かわいくなりたいという気持ちが沸いてくる。
この頃からボクは女の子としてきれいになる、かわいくなることに執着するようになった。年頃の女の子が抱く自然な感情のように思えるけど、多分違う。ボクにはそれしか拠り所がなかったんだ。手術をして身体の外見は完全な女の子になった。でも、本当は女の子じゃない。生物学上の女性になったわけじゃない。子宮も卵巣もないから、子供を産むことはできないんだ。もちろん、男性として子孫を残すこともできない。今の時代、子供を産むことが女の価値だなんて思わないけど、これはずっとボクの深いところでコンプレックスになる。所詮は偽物の女の子、作り物の女だ。
だから、本物の女の子以上にきれいで、かわいくないといけない。偽物なんだから別の魅力を身につけなければならない。だからボクはとにかくきれいで、かわいくあろうとした。
シャワーを終えて髪を乾かし終わると、もうお昼前になっていた。そういえば、機内食もあまり食べなかったし、少し飛行機に酔っていたので食欲もなくて朝ご飯も食べてない。それを思い出すと急に強い空腹を感じた。冷蔵庫を開けてみたけど、何もない。二週間も家を空けるので当然空っぽにしてる。仕方なく、戸棚の中にある買い置きのカップ麺を手に取ったけど、やっぱり戻してしまった。
「なんかお肌に悪そうだし」
そんなこと意識したことなかったのに。自分の独り言に自分で驚いてしまった。
「日本に帰ってきて最初のご飯がカップ麺は味気ないね」
言い訳するようにまた独り言。帰りに何か買って来ればよかったと後悔したけど、もう遅い。一番近いコンビニまで歩いて10分くらいだけど、窓の外から差し込む強い日差しを見ると、エアコンの効いた部屋から出る勇気が出ない。
それに、シャワーを浴びたばかりでボクはノーブラで大きめのTシャツをショート丈のワンピースみたいに着ていた。出かけるならまた着替えなきゃいけない。
「女の子ってめんどくさいね」
言葉とは裏腹に、ボクは何を着ていくか考えていた。ちゃんと女の子してる自分が嬉しかった。コンビニに行くのに気合いを入れてオシャレするのも少し変だ。それに、そもそも服のバリエーションはまだそんなにない。ユミ姉ちゃんが買ってくれた服はどれもちょっと気合いが入ったものが多い。少し考えて、ゆったりしたシルエットのワンピースと、サンダルの組み合わせを選んだ。シャワーを浴びた直後だから少し躊躇ってしまったけど、しっかりと日焼け止めを塗って玄関から出る。
そういえば、一人で出かけるのははじめてだ。でも、不安はなかった。歩いてる人とすれ違っても、視線を感じても怖くない。ボクは堂々としていた。あんなに外に出るのが怖かったのが嘘みたいだ。むしろ今はもっといろんな所に出かけたい。かわいい服を着て買い物したり、オシャレなカフェでお茶したり、カラオケなんかもいいな。ボク、歌にはちょっと自信があるんだ。中学生になったら友達と制服のまま遊びに行く。楽しい妄想をしながら歩いているとあっという間にコンビニについてしまった。
ドアを押して中に入ろうとして、ボクは急いで背を向けた。ヒナがいた。多分、気付かれてない。すぐに走ってコンビニを離れた。サンダルは走りにくくて何度も躓きかけたけど、お構いなしで走る。同じ街に住んでるんだからどこかで会ったって変な話じゃない。でも、帰国して初日に鉢合わせることになるなんて思ってもなかった。
いっそ、彼女にはカミングアウトしてもいいかも……そしたら、案外受け入れてくれるかもしれない。そしたら、今度はいい友達になれるかもしれない。いや、女の子になったボクのことも好きでいてくれるかもしれない。でも、ボクは彼女にはもう二度と会わないと改めて決心した。これからは出かけるにしてももう少し注意深く行動した方がいいかもしれない。
結局、買い物できないまま家まで戻って来てしまった。
「せっかくシャワー浴びたのにまた汗かいちゃったよ」
独り言を言いながら、玄関でサンダルを脱ぐ。すると、リビングに人の気配があることに気付いた。一瞬ドキっとしたけど、母の靴があるのに気付いてほっとした。
「ママ、帰って来るの早かったんだね」
ずっと母さんって呼んでたんだけど、少し前からママって呼んでいる。父の教育でママと呼ぶことは許されなかった。「男がママなんて口にするもんじゃない」ということらしい。でも、母はママと呼ばれたかったみたいだ。ボクも抵抗はなかった。
「お父さん、帰って来るんだって」
「え?なんで?」
「一時帰国で一週間こっちにいるって…もうすぐ帰ってくるから一旦ユミちゃんの家に行ってて!」
ボクはさっき脱いだばかりのサンダルをまた履いて外に出る。帰国早々、面倒なことになってしまった。この一週間をどうやって乗り切ろうかって考えたら嫌な汗が出た。本当、めんどくさい。シャワー浴びたい。お腹も減ってるし。
ヒナに鉢合わせたと思ったら、今度は父だ。せっかく落ち着いた毎日になると思っていたのに、帰国初日から慌ただしすぎる。
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