第21話 幸福の裏側 1

ディース神殿では現在、多くの魔術師が不眠不休で結界を張っている。神殿内で寝泊りし、片時も外には出ないのが慣例であるから、今回の彼の外出は異例のことだったといえよう。

 明るい部屋だった。

 丁寧に整えられた数々の調度品と、真ん中にポツリと置かれた大きなテーブル。

 その無音の空間に亀裂を生むかのようにして、一人の男が腰深く座っていた。

「失礼する」

 ドアが開き、ローブに身を包んだ老人が入ってきた。

 テーブルの前までゆっくりと移動して、老人は遠くに鎮座している男を見た。40代後半の風貌を示すその男は、その身分とは裏腹に割と質素な服装で身を包んでいた。

 老人は、いまや自分の眼前に間迎えた、背を向けた状態でいる男を眺めながら、彼の返事を待つ。

 ……お年を召された。

 男がこちらを振り向くのと、彼がそう思ったのとはほぼ同時だった。

 年の功だろう。表情一つ崩すことなく魔術師は一礼した。


「しばらくぶりだな、ネーブルファイン卿」


 男は優雅に微笑んだ。貴族らしい洗練された笑みだと、魔術師の老人 ――ラスタバン・ネーブルファインは頭の隅で独りごちた。

 そして言う。

「こちらこそ。長くお目にかからぬまま、はやくも半年が過ぎてしまいました。グラムハウツ国王陛下……」

 再び、深く頭を下げるラスタバンを見て、国王グラムハウツ――デリュー・グラムハウツ・フォン・ディースは目じりにしわを寄せた。

「よい。椅子にでも座って、気楽に構えてくれ」

 そういって、グラムハウツはラスタバンを促す。では、と一言口に出して、ラスタバンは腰を落ち着かせた。

 ここに呼ばれて話すべきことは、もう十分理解していた。ディース国王が聞きたいことも。

 保たれた秩序を破るようにして、ラスタバンは言葉を紡ぎだす。


「ディースの結界は、もはや限界のようです」


 グラムハウツは静かに目を閉じている。続いて放たれるであろう魔術師の言葉を待つ。

「本来ならば閉じられるべきであった『魔海』は、その影響力を徐々に強め、最深部の結界はすでにその法圧力に耐え切れず、完全に破られました。

 さらに、その影響により弱まった第一、第二の結界が何者かの干渉を受け、これらも同時期に破られました。

 今回の『魔海』の漏れは、この偶然の一致が原因です。すでに修復は完了しましたが……」

「第一、第二の結界を破ったのは?」

「おそらくファラを主神として崇める、一部の邪宗教でしょう。赤黒いローブを纏った数人の男が、結界に亀裂が入った前日に町の近辺で目撃されています」

「赤黒いローブ。ルーイン教か」


「そうです。ルーイン教の実行部隊の数名を捕らえて尋問したところ、いよいよ教団を挙げてファラ復活の活動を行っているとのことです。自明のことですが、教団の一部には魔法庁の人間も絡んでいます」


 『魔海』。その話はこの国に伝わっている物語の随所によくでてくるが、その実際の存在を知るものは、魔法庁部内の人間と、騎士庁内の限られた者だけである。


「現在、魔法庁が総力を挙げてルーイン教の本部探索・および実行犯の逮捕を行っています」

「『魔海』のことだが」

 ラスタバンは頷いた。

「人間への影響はないのか」

「今のところは観測されていません。おそらく、魔法が人間に『干渉』しないのと同じく、魔海も人間に効果をもたらさないのでしょう。しかし、黄龍騎士団の報告によれば、一部の動物が凶暴化、もしくは『魔海』のもつ特別な作用により魔法の詠唱をするといった現象が各地で起こっています」


 グラムハウツは、その言葉を聞き、くたびれたように一息ついた。

 これが事実だった。紛れも無い、純然たる事実。グラムハウツは黙っていた。ラスタバンも黙っていた。しかしこの沈黙は、敗北の味を匂わせるようなそれではなかった。いや、二人にとっては、敗北のほうが、よほど心地がよい。


「すべては、四年前だったな……」

「陛下」


 言葉を聞いたラスタバンは、とっさに声を出していた。

 グラムハウツは、ふっと自嘲気味に笑うと、目の前の老人に向けて言った。

「いいのだ、ラスタバン。……歯車はすでに、四年前に回っていた。どうしようもない事実だったのだ。だが、お前はこれまで苦の一つも言わず、私の命に従ってくれた。お前が罪を感じる必要など無い」


「……」

「お前の気持ちは、よくわかる。だが、今は罪を懺悔する時か? 残された時間は、少ない」

 そんなことは、十分すぎるほどにわかっていた。

 ラスタバン自身、何度『その誘惑』に駆られたことか。一押しすれば、即座に谷底まで転げ落ちるような彼の心を、しかし一線で支えていたのは……紛れもない、『その誘惑』自身。


「『鍵』を使え」


 グラムハウツが、重々しく述べた。

 ラスタバンは、黙ったままだった。

 再び、沈黙が訪れた。

 

 今回は、はたして、敗北のそれだったか。

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