第6小節目、夕暮れのような人
茜色の空が、藍色をした夜の気配に少しずつ少しずつ浸食されていく。
色調も、明度も、温度も、分刻みで移ろう。
決して同じ姿に留めておく事の出来ないそれは、頭の中でしか再現のできない、儚い幻のようなもの。
あたしが高校で美術を専攻した本当の理由は、それらを何とかして残す手立てが欲しかったからだ。
だけど、大人への扉は思っていたよりもずっとずっと近くにあって、入学した途端、そんな想いなど忘れ去ってしまうほどに、将来に関わる様々な決断を余儀なく迫られる。
そして、嫌でも向き合わなくちゃならない。
決して豊かとはいえない自分の家庭環境とか、そもそもの資質とか。
『デザイナー志望 』
それは、そんな事情を踏まえた上でなんとなくあたしが出した、いかにも安直な答えだったのかもしれない。
★★★
男の子と肩を並べて、ふたりっきりで下校する。
あたしには、かなり不慣れなシチュエーション。
今日の場合、事情といきさつは突っ込み所満載だと思うけど、不思議なくらい嫌じゃない。
しかも、その子は、ごくごく自然に、それが当たり前のように車道の方を陣取って、あたしの少し前を歩いている。
そんな些細な気遣いにもあたしのテンションはおかしなことになり、ついつい、言葉が前のめりになってしまう。
それを隠すのに、結構必死だ。
「ねえあんたは? あんたの名前は?」
とりあえず、社交辞令の範囲で無難な質問を投げかけてみる。
すると突然その子は歩みを止めた。
「どうしたの?」
「俺の事…知らない?」
(まったく。どこまでも自惚れの強い奴め)
「あは。 ごめん、ごめん。
知ってるよ、名前くらいは…。社交辞令っていうか、初めてしゃべったからさ。
あんた、有名だもんね」
「…そうじゃなくて」
「ん?
沈んでいく夕日から、斜め左上にあるその男の子の顔に視点を移すと、少しだけ怪訝な顔を見せた。
「ああ・・・名前はそうだけど」
あたしは少し焦ってしまった。
急に歩く速度を早めたその男の子の、逆光に黒く浮かび上がる背中が、近寄り難い程に、とても、とても寂しそうに見えたから。
……なんでそう思うのか、自分自身でも、全然ピンとこないのだけれど。
それでも、この沈黙をどうにかしなくちゃいけないと、できる限り頭をフル回転させて、慌てて次の言葉を探す。
「えーっと…じゃ、あたしも『殿下』って呼ぼうか? みんなそう呼んでたよね?」
「……」
今度は返事すらよこさない。シカトってやつ。
だけどこうなったらそれだけでもなんとか聞きたくなって、つい必死になってしまう。
「今朝の女の子、明石さん…だったよね?
二人が付き合ってたなんて、知らなかったな」
「おい!」
急に振り向いたその子顔を見た時、あたしはまたどこかで、別の地雷を踏んでしまった事に気付いた。
少しづつ穏やかに変わりつつあった空気が、もうとっくに一変して、既に全然別の色に変わってしまっていたという事に。
「おっかない顔。だ、だって、付き合ってないの?」
「いいか。誰にも言うなよ、絶対」
「い、言わないよ…、絶対。 で、でも、なんでわざわざ秘密にするの?
二人は誰から見ても自然ってゆーか、お似合いだと思うんだけど」
「
この事がもしもバレたら…あいつと俺はもう、そこで終わりなんだ。
声をかける事もままならなくなるだろう」
「えっ…?」
…なんて言えば上手く言い表せるんだろう。
その時の、やるせないような、悲愴な
(あたし、余計な事言っちゃったかな?…でも)
だったらなんで、教室でキスなんかしてんのようーーー!
普段のあたしなら、絶対にそう言い返すと思う。
だけど今日という日は、朝から日常を逸脱した大事件の連続で、あたしの心はへとへとになってしまって、今から一戦を交えるパワーは流石に残ってなかった。
「じ、事情は知らないけれど…でもあれね。 明石さん、超綺麗だもんね」
「…顔のことだろ?お前が言ってんのは」
「うん。学校で一番美人」
「わかってねえな」
「え?」
西園寺新は、そろそろ一番星が瞬き始めた空を、ゆっくりと見上げた。
まるで夢に浮かされているようにうっとりと、少し興奮気味に、また、これまでには聞いた事のない調子で、弾む様に話す。
「
あたしは、今、この瞬間を、多分、この先もずっと忘れる事はないと思う。
恋をしている相手を語る、その声、その横顔、その姿かたち。
全部。
今ここにあるぜんぶに、あたしはいとも簡単に引き寄せられてしまう。
ーーーこの人は、色調も、明度も、温度も、分刻みで移ろう、夕暮れのような人だ。
「ないよ」
そう、無関心を装って、そっけないフリをして答える。
すると、今さっきまで忘れかけていた、今朝のショッキングな光景と、ムンクのあの絵が、入れ替わり立ち代わり頭の中を交差しはじめる。
胸のあたりが、トクリと音をたてる。
ちょうどその時、坂道のてっぺんにさしかかり、あたしは足を止めた。
「ねえ、殿下」
「殿下はやめてくれ。
「じゃあ、新くん。ここまででいい。あたしんち、この坂下ったらすぐだから。 それにもうホラ、全然、元気だし」
いかにもわざとらしく、腕をぶんぶん振り回して見せた。
「ああ。そうみたいだな」
「どうもありがとう。 そんで…今朝はホントにごめんなさい」
あたしはこれ以上は無理って程に、深々と頭を下げた。
そして再び頭を上げると、もう一度、念を押す様に、きっぱりと言った。
「絶対に、誰にも言わないよ」
「頼んだぞ」
それだけを言い残した彼が、二人で一緒に上った坂道を足早に下って行く後姿を、しばらく眺めていた。
念を押したから、安心したのだろう。
彼が振り返る事は、一度もなかった。
あたしは、心の奥底に、誰かに歯をたてられたような・・・
少し痒みを伴うような、初めて感じる不思議な痛みに戸惑っていた。
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