第5小節目、からかわないで

「な、何であんたが…?」


「いやさ。

授業中、すぐ後ろの席で、いきなり派手にぶっ倒れた奴がいたもんだからさ、驚いたよ」


(そうか…そういえば殿下って、映像クラスだったっけ)


「…よ、養護の先生は?」


「研修で外出。 俺、留守番」


そう言って、石膏像みたいに完璧な形状の高い高い自分の鼻を指差す。


「おまえがもし倒れた理由を聞かれて、余計な事までペラペラ喋り出したら困るだろ? だから運んだついでに見張ってたってわけ」


(ちょ、ちょっとまって。 今、運んだって言った?)


「こうやって、お姫様だっこしてさ。

もっと念入りに口止めもしたかったしな。

チャンス、と思って俺、真っ先に倒れたおまえを抱き上げに行ったよ」


(だ、抱き上げって…)


あたしの脳内は、再び大混乱。

考える隙もないくらい、意外な程にべらべら喋り出すこの男の子に、のっけから頭の中をどんどん掻き回されちゃって、全く整理がつかない。


「思ったより、軽かったなあ。

おまえさ、わりとイイ足してるよな? もっとスカート短くしたら」


「ななな、何なの? 失礼なーーー」

「覗き見する奴よりましだろ」


その時目があって、その目をみて、胸がちくん、とうずいた。


ああ、まただ。

また、今朝けさと同じ。

さげんだような目をしてあたしを見ている。


そうだよね。わかってる。

あたしはあれを、眺めているべきじゃなかったんだ。


後悔に項垂うなだれるあたしをよそに、男の子はしゃべり続ける。


「俺たちのアツいキッスをヘーキでガン見してたくせに。

たかだか絵を見て気絶するなんて、変わった感性してるよな。さすが美術科」


(…俺たち)


「ち、違う……急に立ち上がったから目眩がしちゃっただけで」


「まあ、お前ら担任も何考えてんだか。

ムンクの「接吻」なら他に着衣のものもあるってのに、よりによって刺激が強そうなやつを、なあ?

どういうつもりなんだ、おまえらの担任は。

サカりな季節の俺たちのこと、おちょくってんのかな?」


(…接吻)


その男の子の唇が、せわしなく動くたびに、気がつくとついついそこに目が行ってしまう。

それに気付かれないように、その度にそこから目をそらし、かなりいい加減に相づちを打つ。


「へ、へえ、あんた……美術のこと、結構詳しいね」

「そうか?」


少し、間があった。

その男の子が急に黙るから、気になって、またつい表情かおを見てしまう。


どうしてだろう。

今度はすごく穏やかだ。

さっきとは別人みたい。


「ああ、ちょっとな。

知り合いが美術やっててさ。食えなくて、子持ちのくせにヒモしてたけど」


そう言いながら、今度はくるりと背を向ける。

そして薬の入った真っ白なキャビネットに近づき、扉や引き出しの開け閉めを繰り返し始めた。


その間は視線から逃れることができる。

…そうやってずっと後ろを向いていて下さい。


「とにかく俺、お前らの担任はどうもいけすかない。

いつだって芸術家気取りでさ」


(この子、ものすごくべらべらしゃべる上に、随分と毒舌じゃん)


あたしの希望は虚しく、男の子は、再び体を反転させ、ゆっくりと近づいてきた。

そして、ベッドの端に腰掛け、あたしと向き合うようにからだを捻る。


こうして改めて、正面から彼を見てみると。


すうっと通る綺麗な鼻筋に、大きくはないけれど切れ込みが印象深い目尻、常に左右対称に動く口元と、魅力的なパーツが絶妙なバランスで配置されている「相当なイケメン」だってことに気づく。


その上、今度はまた、それまでのその子とはまたちょっと違う…

甘い匂いが、こちらまでふわりと漂ってきそうな雰囲気を醸している。


… 高校生にして、なんというお色気なんだ。


あたしは唾を一回、ゴクリと呑み込んだ。

今の聞こえてないよね?

聞こえてたら、ものすごく恥ずかしい。


「なあ」

「えっ?」

「目、つむって。顎、少ーしあげて」

「め・・・目?」


清家陽葵せいけひまり。 おまえが今、一番欲しいものをやるよ」


(…うっそ)


「なあ。は・や・く…」


少し掠れたその声に、促されるように…。

まるで魔法をかけられたかのように、あたしは素直に、その場で目を閉じた。

心臓が、怖いくらいの猛スピードで、内側からノックする。


『アケテ! アケテ! ココカラダシテ!』


まるでそう叫んでるようだ。

本当に、本当に、心臓が口から出ちゃいそう。

目はつむってるから見えないんだけれど、あたし、気配で感じてる。

あの、美しい顔が、あたしに、どんどん近づいている。

突然やってきた、清家陽葵せいけひまり17歳の貞操の危機。

血が逆流し、からだは爆発するまでのカウントダウンをきざみ始める。


3秒、2秒、1・・・





ぽちゃん。


「ひゃっ!」


目頭に、ひんやりとした、何かの雫が落ちてきた。

右と左。 ひと雫づつ。


「目、ぱちぱちしろよ」


はちはちってーーー。

これって…目薬?


「おまえさ、全然寝てないだろ? 目が真っ赤だぞ」

「…」


今までガチガチだった体から、ヘナヘナと力が抜けていく。

これってもしかして、からかわれてる?



太陽が、目薬のせいで滲み、何重にも重なって見える。

少し赤みを帯びたそれはすっかり西に傾いて、一階にあるこの保健室からでも、全貌が見える位置にさしかかっている。


下校時間を知らせる最後の鐘が鳴る。

それを聞きながら、その子も、あたしも、なんとなくしゃべるのを止めてしまった。


朝イチのショッキングなシーンから始まった、今日っていう一日が。

あたしの17年の人生の中で、一番といっていいくらいにドタバタした一日が、まるで嘘みたい。


なんて静かなの。



「送ってく。 最後まで見張らせてもらうぞ」


少しだけ優しさも感じとれる言葉は、大方おおかた、養護の先生のいいつけを守っているだけに違いないんだろうけど。



それでもあたしはちょっとだけ嬉しくて、涙が溢れてそうになった。

積み重ねてきた苦労が、初めて報われたような、そんな気持ち。


あたしはこのところ、ためいきの原因を突き止めようとすると、とたんに色々な事が不安になって、それをうじうじと考え出しちゃって、眠れない夜が何日も続いていたんだ。



その事に気付いたのは、今日初めてまともに話しをした、この男の子だけだった。


たったそれだけだった。


たったそれだけのことで・・・

大切な事を置き去りにして、あたしはうっかり心を開いてしまった。






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