第27話 引きこもりと幼馴染

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」


 僕は、ただ何も言わずに財布だけ持って外に飛び出た。夏特有の湿った空気が肌に張り付く。


 走らずにはいられなかった。走れば、少しは冷静になれると思った。

 だけど僕はそのまま、駅に向かっていた。

 電車はもう動き始めている。ほとんど乗客のいない上り電車に駆け込んで座席に座る。ロングシートの片隅で、僕は肩で息をしながら酸素を取り込んだ。


「マジで僕は……何してるんだろう」


 言葉に出さなければ、思考がまとまりをもたない。


「何のために僕は……どうして……」


 沸騰しそうなくらいに、頭が熱い。どうしてあの瞬間に外に飛び出てしまったのかも、なにがトリガーになったのかもわからなかった。


 ずっと溜まっていたものが爆発したのか。落ち着きを取り戻す前に、電車は終点駅へと到着する。空港に接続するモノレールが来るまでの空き時間で、僕は依里に連絡する。あれから30分以上時間が経ってしまっていた。


『ちょっと待ってて』


 返信は来ないかもしれない。送信するまではそう思っていた。

 既読が付くのは、一瞬だった。


『いつまでも待っていますよ!』


 依里はそういうが――きっと、いつまでもは待ってくれない。

 タイムリミットは、あと少しだ。

 夜明けの太陽が、水面に向かって照り付ける。もうすっかり外は朝になっていた。



 国際線ターミナルは、スーツケースを持ったサラリーマンが沢山いた。半そでにジャージというラフな格好で、荷物を何も持っていない僕は確かに浮いていた。依里が言っていた他人の目が気になるというのは恥ずかしいほど分かった。


『いったんチェックアウトしますね。自動精算ができるうちに』

『見てくださいこれ! 沢山のお土産ショップですよ!』

『旅券はチェックインだけでオッケーみたいです。市役所とは違いますね!』


 ちょくちょく市役所に対する怨嗟の念が挟まってくる。僕の返信を待たずに、依里はどんどんと先へ進もうとしている。


『ちょっと待ってて!』


『いつまででも待ってますよ~』


 依里は顔文字もスタンプも使わず、文字列だけで文章を打つ。千尋とは大違いだ。だからこそ、感情がわからない。


 旅券を持たない僕が行けるのは、手荷物検査のゲートまで。

 それまでに依里を見つけなければいけないのだが。


『人が増えてきたので隅っこで固まるしかなくなっちゃいました……今は死角になってる非常口の隙間にいます』


 依里から送られてくる写真は、軒並み人のいない場所だった。

 サラリーマンが中心とはいえ、空港は人が少ないわけではない。こんな場所に依里がいることができるわけがない。


 時間がたつにつれ、どんどん人は増えてくる。空港という場所柄、人の往来は想定されている。


『泣いてる?』

『私をなんだと思ってるんですか!』


 軽くちょっかいをかける。文字の上では元気そうだ。


『人混みが嫌なら、展望デッキに行くといいよ。端っこのほうは人いないし』

『有識者の方ですか!?』

『これでも16年生きてるんでね』


 依里の行動パターンはつかめない。


 だけど、僕は彼女のあとを追いかけることしかできないわけじゃない。

 道を指し示す(逃げ道を与える)ことだって、できるはずなんだ。



 朝の展望デッキに、人はいなかった。せかせかと移動するサラリーマンはラウンジに集い、観光目的の人はこんな時間から空港には来ない。いるのはバードウォッチングを趣味とするカメラマン集団が数人いるだけだった。


 そして、その端っこのほうで赤いスーツケースのがぽつりと置かれていた。

 僕はそのスーツケースに見覚えがある。

 依里が体育座りをしたときに、ちょうどスーツケースの裏に隠れることのできるくらいの体型だということも知っている。


「おまたせ」

「うっ……ううっ……ふぇぇぇぇ……?」


「僕だよ、恭弥」


「ひぃっ……ぅぇ?」



 スーツケースの後ろで、嗚咽を漏らしている女の子を発見した。

 バードウォッチングをしている衆も、依里が周囲にまとう異様なオーラを感じ取って近づいてこなかった。


「なんでぇ……恭弥が」

「寂しがってるかなって思って」


「でもぉ……ここまで、遠かったんじゃ……」

「ちょっと、じゃなかったかな」

「全然ちょっとじゃありませんよぉ……」


 泣き虫一名、保護完了。


「もう、強がらなくてもいいから――」


 俯いて泣きじゃくる依里の頭を見て、僕は自然と手が伸びた。優しく撫でる。ドライヤーをかけた時の質感と、まったく一緒だった。


「強がってなんて……なんて……ひぇぇぇぇふ……」


 まだ情緒が安定していないようだ。文面で見せる依里の姿とは全く違う。

 人嫌いが、こんな人ごみの中に出てこれるはずもないのだから。



「あの……電話って知ってます?」


「知ってるよ」


「ずっと、話したかったんです!」


「僕もそう思った。だから来た」


「なんで来ちゃったんですか! 来なければ……」


「来なければ?」


「覚悟、決まってたのに……」


 依里の言葉は小さくなる。隣で飛行機が飛んだ。轟音で声のほとんどがかき消される。


「揺らがせちゃった?」

「……いえ、頑張ります。ここまで来ましたし、あと一歩ですから」


 クマができている依里の眼の奥に、わずかな闘志が残っている。


 今日、今から僕は――その心を、折りに来たんだ。

 覚悟を決めろ、自分。


「伝えたいことが、あるんだ――依里」

「……なんでしょう? 別れの挨拶は、もう済ませましたよ」

「心して聞いてくれよ――依里」


 すぅと、息を吸う。僕は立ち上がる。依里の手を引いて。

 細く長くて、白くてもろそうな。女の子の手だった。

 僕の手を拒まずに、依里も立ち上がる。向き合って、依里を正面から見て――僕は。


「僕の部屋に、これからも居てほしいんだ」

「……何を、言って」

「依里が海外に行くのに、本当は反対したい。家から出ていってほしくない! 家にいて迷惑なんて思ってないし、ずっと楽しかった。心地よかった!」


「私も、楽しかったです……」

「家に帰ると、依里がいる。それだけで、僕は安心できるんだ。依里がいなくなってから――気づかされたよ」


「だけど、私は――変わろうとして……変われなくて!」

「変わる必要なんてない! なんで――変わらなきゃいけないんだ。引きこもりでもいいじゃん。引きこもりの何が悪い!」

「そんなこと、今まで一言も……言ってなかったじゃないですか……」

「依里が、変わりたいっていうから! 変わりたいのに、成長したいって言ってるのに――それを僕が止めちゃダメだろ……だけど! でも!」


 言葉に詰まりながら、僕は思っていたことをぶちまける。

 依里に遠慮はしない。僕は僕の覚悟を決めた。


「それでも、僕は依里に遠くに行ってほしくない! 近くにいてほしい!」


 依里が自分で変わろうとしたように――僕も、変わる。


「引きこもりだとか、迷惑だとか、そんなことは一ミリたりとも思ってないから!」


 自分が変われば、世界が変わると信じて、思うままに言葉を口走る。


「どこにも行かなくていい! 僕の部屋にいてほしい! それが――僕の本心だよ」


 引かれるかもしれない。

 僕が行っているのは、ただの逃げだ。現実逃避で、停滞でしかない。

 なんの成長もない、ただただわがままでしかない。


 依里が覚悟を決めた今、それでも彼女が変わりたいと思っているのならここから飛び去るだろう。そしてそれは正解だ。

 こんな言葉を泣けがける必要だって、本当はない。ただの自己満足だ。


 だけど、今。この瞬間に。


 僕は依里に伝える必要があると思った。


 今じゃないと、間に合わないから。


 本当の、ラストチャンスだった。


「恭弥――私は、どうすればいいんですか……?」

「覚悟、決まってるんだろ」


 それは、自分に向かって言った言葉だったかもしれない。

 依里に残ってほしい。その心は本心だ。ずっとそう思っている、変わりはしない。


 だけど、僕自身が変われていない。


 変わる――変わる。


 ずっと、依里が言っていたその言葉の片鱗が、初めて分かった気がする。

 引きこもりをやめることだとばかり、思っていた。

 だけど、本当はそうじゃなくて。


 変わるっていうのは――。



「依里が自分で決めればいいと思う。だけど――言っておきたかった。なんで依里が変わりたいのか、僕にはわからないから」


 僕が応援した――なんて。

 そんな言い訳みたいな理由で発とうとしている依里を、僕は放っておけなかった?


 違うだろ。


「私、弱いんですよ……?」


 あと一言。


 たった一言、僕が押せば――依里は靡くだろう。


 ――僕に言われたから踏みとどまった、と。

 だけど、本当に大事なのは、そこなのか?

 本当にできていないのは――変わっていないのは、僕で。


 伝えられていない言葉が、ここにあるからじゃないのか?


「教えてほしい。依里は何のために――どうして、シリコンバレーに行こうとしてるんだ?」


 とん、と胸のあたりに何かが触れる。

 依里の頭だった。


「女の子には優しくしろって、言われませんでした?」


 ゆっくりと、依里は僕に体重をかける。気づけば、距離は1ミリたりとも離れていない。


 僕の背中に、腕が回る。締め付けるようにきつく、依里は僕に抱き着いていた。

 自然と僕も、依里の背中に手をまわした。


 依里は、言葉を待っている。

 僕が、言わなければいけない言葉。

 ずっと抱えていて、それでも踏ん切りがつかなくて。


 それでも――一週間、依里がいない間に、何度も自問自答を繰り返した言葉を。


「ああもう――わかった、わかったから」


 もう一歩。本当に、もう一歩必要だったのは、僕のほうだった。

 覚悟が足りてないのも、変われていないのも。全部僕の実力不足だ。

 怖かったから、恐れていたから、無くしたくなかったから、怯えていたから。


 先の見えない不安に、押しつぶされていたから。

 僕は、このたった一言が言えなかった。


 すべてを言いつくしたつもりだった。


 僕の部屋に引きこもっていてくれ。

 本音だ。


 だけど――それがすべてじゃ、ない。



 はぁっ、と。

 肺の中の空気を絞り出して、すべてを空にする。


 一瞬、何も考えられなくなる。

 それでいい。


 今しかない。

 伝えるのなら――悔いのないように。



「僕は――依里が好きだ」


 依里の表情は、見えない。その代わり、ぴくりと身体が揺れた。


「ずっと、気付いてなかった。いなくなって初めて――分かったんだ」


 胸の中で、依里は小さくくぐもった声で、言葉を発した。


「……そう言われるの、ずっと待ってたんですから……!」


 騒音甚だしい飛行場で――それでもきちんと、一言一句たりとも。

 依里の言葉を、聞き逃すことはなかった。



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