第26話 引きこもりと旅立ちの日


 部屋は暗い。相変わらずだ。


 見えない瞬間は、妄想力を掻き立てる。見えないから、わからないから。電気をつけたら依里がこの部屋にまだいるのかもしれない。

 さっき見送ったばっかりなのに。

 見苦しいぞ、僕。


「ロス、か……」


 いるはずのない猫を閉じ込めておきたくなくて、僕は電気をつける。

 忘れ物の一つでもあれば、追いかける口実になるかもしれない――なんて。うだうだとそんなことを思ってしまう。この部屋には、依里の痕跡はあっても依里のものはない。


 いないからこそ、かえって存在感が強まる。

 僕はこの部屋に、いられなかった。



「猫でも飼おうかな……」

「リビングに降りてきたと思ったらいきなりそれ? ってかあの女のことペットか何かだとおもってた?」


「そうじゃなくて……よく言うじゃん。寂しさの隙間を埋めたいならペットを飼うって」

「はぁ……兄ぃはこの二か月で変わったね……」

「昨日と言ってること違うじゃん」


「この二か月でダメになったね」

「僕はずっとこんな感じだよ」

「千尋LOVE♡LOVEだった頃の兄ぃはどこに行ったのか」

「そんな頃はなかった」


 あれからずっと、千尋はリビングで勉強している。千尋いわく、理由は「こっちのほうが勉強がはかどるから」だそうだが、本当の理由は依里にあまり会いたくないからかもしれない。


 とはいえ、ここで勉強する癖がついたのか、リビングに来るといつでも千尋の顔が見ることができる。


「ってか、あの女もスマホとか持ってるんだから、寂しいなら連絡すりゃいいじゃん。兄ぃはスマホも知らないの?」

「依里とスマホで連絡とかしたことないし」

「もういい、スマホ貸して」


 千尋は僕のポケットからスマホを強奪し、当然のように指紋認証を潜り抜けてチャットツールを開いてメッセージを送る。


 友達が少ない僕のアカウントからは、依里の名前がすぐに見つかった。


「『元気にしてる? 僕はさみしいです』……っと」

「千尋!」

「千尋に送らされました――って言い訳してもいいから。ここまでお膳立てしないとなんもできないのかこの兄ぃは……」


 男は度胸、女は愛嬌なんて言い出しそうな風格が、今日の千尋にはあった。


「ありがとう、千尋」

「これ以上兄ぃに凹んでほしくないし。あの女がいなくなった記念の出血大サービスだよ」



 部屋に戻るころには、依里から返事が返ってきていた。


『こんな形で恭弥と話せるなんて、うれしいです!』

『それはよかった』

『空港、思っていたよりたくさん人がいます(写真添付)』

『僕の部屋には思ったよりも人がいないよ』

『文面になっても恭弥は変わりませんね』


 それは僕のセリフだ。


 依里からは、たくさんの人がいる空港の写真が送られてきた。観光客気分でパシャパシャ撮っているのか、8枚ほど連続で送られてくる。車から降りてすぐの写真。バスターミナルの写真。遠くに見える飛行機の写真。ホテルの外観の写真。帰っていく父親の車の写真。などなど。


『誰もいないところで一人で寝るのは慣れているので、心配いりません!』


 ホテルの部屋の写真は、僕の部屋にあるものと同じくらいのサイズのベッドが写っていた。すべてが風景写真の中、この写真だけ窓ガラスに反射して依里がカメラを持っている姿が見える。


 最初の一歩さえ踏み出せば、依里と話すことに躊躇いはなかった。むしろ、どうしていままでずっとチャットをしていなかったのかわからないくらいに。


 その夜、僕はスマートフォンの画面に虜にされていた。同じ夜空の下で、また依里も画面に向き合っている。フリック入力の遅さもあって、遅々として会話が進まない。だけど、僕が打ちこんだ後の文章はすぐに読まれていたし、依里が文章を打ち込んだその瞬間に僕も文字を見ていた。


『恭弥は寝なくていいんですか?』

『そっちこそ』

『私は、13時間のフライトがあるからいいんです。そこでぐっすり寝かせてもらいますから』

『こっちも30日以上の夏休みがあるから』

『休暇は私にだってありますよ! なんならずっと夏休みでしたし!』


 今まで話していたみたいに、僕は文章を打ち込む。

 これがあるのなら、依里と離れ離れでも今までと変わらない生活が送れるかもしれない。


 ――いや、そもそも。


 なんで僕は、依里のいる生活を中心に考えているんだよ。

 いままでずっと、依里のいない生活に慣れていたはずなのに。

 たった二か月。依里がこの部屋にいたのは、高校二年生の二か月だけだったはずだ。


 それなのに――どうして。

 依里の残したパソコンの青白いライトが、わずかに明滅する。明りのないこの部屋の、ほんのわずかな光源だ。


「日が――明けてきたな」

『太陽出てきた!』


 僕が気づいたのとほぼ同時に、依里から連絡が入った。


『なんか、急に眠くなっちゃいました』

『僕もだ』


 嘘だ。

 眠くなんてない。


 この一週間、眠い瞬間なんてひと時もなかった。

 気づけば気絶している――そんな疲れの取れない睡眠ばかりを繰り返してきた。

 原因はわかっている。この一週間の間にあった変化。今まであったものが、ここに居た人がいなくなったから。


 熱くなっていたスマートフォンが、限界を超えてフリーズする。3年以上前の機種だ。そろそろガタも来ている。強制的に再起動をするために、電源ボタンを長押し。依里からはなんて返信が来ているだろうか。寝たと思われてしまったか。


 そういえば、風呂も入っていなかった。依里と別れた後から、何も口にしていない。時刻は午前四時。こんなに夜更かしをしたのは、依里と夜遅くまでゲームをしていた時以来だ。


 妹ももう寝ている。物音をたてないように、そっとリビングに降りた。

 何か食べるものでもあればいいけど――そう思って、冷蔵庫を開ける。ずいぶん前に買ったプロテインくらいしかなかった。賞味期限が若干怪しいが、あるものを美味しく頂こう。


 右を見ると、カレンダーに夕食当番が書かれていた。僕と千尋と、二週間に一回依里の名前が挟まっている。千尋は勉強で忙しいので、もっぱら僕が担当している。

 今日の日付の下には『依里』と書かれていた。もちろん、その上には二十で打ち消し線が引かれている。


 ガチャ、と扉の開く音がする。まさか、依里が――


「ただいま~」


 母さんだった。顔を合わせることはほぼない。依里が棲むことを容認してくれたり、僕を自由に育て上げてくれた一人だ。


「あら、母さん依里ちゃんかと思っちゃった」

「なんでよ。依里とはあんまり会ってないでしょ」

「いやいや、依里ちゃんとはよく会うよ。あんたよりね。昼夜逆転してるからっていうのもあるけど、この時間に帰るとたまに見るのよ」


「なんでリビングに。引きこもってたはずだけど」

「外に出る練習、とか言ってゴミ出しとかしてくれてたわよ。ちゃんと感謝してる?」


 依里がそんなことをしていたなんて、僕は知らなかった。確かに、母さんは依里に何かものを頼むことが多かった。こんなところに接点があったなんて驚きだ。


「あんたが不甲斐ないから依里ちゃん逃げちゃったじゃない~ もったいない」

「あいつはあいつの夢を追いかけるためにアメリカに行ったんだよ」

「そうなのかしら。詳しいことは聞いてないからわからないし知らないわ。首を突っ込むつもりもないしね」


 母親は、いろいろなことを知っている割に知らないふりをする。どこにも肩入れしないし、常に中立だ。その結果が放任主義に繋がっている気はする。


「ふーん、夢なんて大層なものがあるならいいじゃない。あんたたちにもそういうのがあればいいんだけどねぇ」


 夢。


 夢?


 依里には夢があってアメリカに行った?

 母親に対して、どう説明すればいいかわからなくて、適当についた詭弁だ。

 だけど――依里は、どうしてアメリカに行くんだっけ。



 スマーフォンが再起動した。


 通知が二件。二分前。


『最近、ずっと眠れなかったんですけど』

『今日はよく眠れそうです』


 それはよかった。

 僕はこれから、眠れない日々が続くかもしれない。



 ピコン、と続けてもう一件連絡が入った。相手は依里。


『でも私、恭弥の声が聴きたいです』

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