第25話 幼馴染と、前夜


「行ってきますね」


 小さいバックパックが一つ。そして大きなスーツケースが一つ。

 そして、普段は見ることのできない私服姿の依里。


 出発予定日の前日、夜の10時。依里のお父さんの仕事の関係で、空港まで送れる日が今日しかないらしい。依里は空港近くのホテルで一泊してから朝9時の飛行機に乗るらしい。到着は明後日になるそうだ。


 別れの挨拶をするために、依里は館山家のドアを叩いた。玄関先で依里と会うのはいつぶりだろうか。


 引きこもりは、なぜか太陽に弱い。この時間は人もおらず、父親の前ということもあって依里のテンションはいつも通りだった。


「クソお……依里さんも、お元気で」


 後ろに依里の父親の車が見えて、千尋は暴言を飲み込んだ。

 窓ガラス越しに見える依里の父親に、軽く会釈する。見えていたのか会釈が返ってきた。


「うん、千尋ちゃんも、元気でね! 受験、頑張ってください」

「あんたがいないから、兄ぃにみっちり教えてもらうもんね!」

「迷惑かけちゃってましたね……。うるさかったと文句を言われると思ってましたが」

「それもあったけどね。でも別に、迷惑じゃ……なかったけど。荷物は一つだろうと二つだろうと変わりないし」

「酷くないですか~?」

「……言い過ぎたこともあったかも。それはごめん。全部忘れていいから」


 千尋は、最後の最後に謝ってから、軽く手を振って家の中に戻っていった。中学三年生らしいマセた挨拶だ。


「最後の最後まで千尋ちゃんらしいですね」

「ああいうのクソガキって言うんだぞ」

「恭弥は千尋ちゃんだけには厳しいです」

「依里は甘すぎ。なんか言われたら言い返していいんだよ?」

「言い返せるほど私は正しい大人になれなそうなので」


 正しい大人ってなんだよ、というのはあるが、少なくとも引きこもりである依里は口喧嘩では勝てなさそうだ。


「恭弥も、お元気で」

「いつ戻るとかは……」

「さぁ? 私にはわかりません。向こうですぐに失敗して泣いて帰ってくるかもしれないですし、完全に居を構えるかもしれません」

「覚悟を……決めたのか?」


「全然です。心配ですし、本当は……行きたくないのかもしれません」

「なら!」

「それでも! 私、気づいたんです」

「何に?」

「いろんな人に出会いました。いろいろなことを思われていると思います。変な奴、おかしい人、学校から逃げた、などなど……正直、何かを思われるのはつらいです。――それでも。大切な人から失望されるのが、一番しんどいんってことに気づきました」

「依里は、失望なんてされないよ」

「まだ、そうかもしれません。でも、これからずっと――人生長いですから」


 僕は高校生だ。今はただ毎日がいっぱいいっぱいで、そのうち受験勉強がまた始まって――のんべんだらりと生きているだけ。人生なるようになる、そんなお気楽人間でしかない。


 だけど、依里は違う。


 彼女は、とっくにレールから外れている。

 人生のことを自分で考えなければいけない、そんな道の上に立っている。


「お守りとか、あげようとしたんだけどさ」

「いいですよ。私、恭弥から服貰いましたし」

「ごめん、決められなかった。友達にプレゼントとかしたことないから」

「そうですね、あらかじめ何が欲しいかとか言っておけばよかったですね。ちょっとだけクサいこと言いますけど――『思い出』、たくさん貰いましたので!」


「でも、そんな……」

「二か月間も部屋においてくれる人、なかなかいませんよ。それ以上貰っても、返せるものはありませんから!」


 それでも、申し訳なさは残る。

 依里がどこかに行ってしまうまでの1週間――時間はたくさんあった。



 実家に帰ってから、僕の部屋は真っ暗だった。

 たまに、窓の向こう側の景色が明るくなる瞬間がある。でも、それはほんの一瞬。窓が開くわけでもない。真夏にもかかわらず、入り口は閉じ切ったままだった。


 一人で過ごす、いつも以上に広いベッドに横たわりながら――ひたすら考えた。

 考えて考えて、決まらなかった、


 決められなかった。

 この部屋に依里がいない、たったそれだけなのに。

 それだけの変化なのに、前までの状態に戻っただけなのに。


 頭が働かない。


「ロス、ってやつじゃん? あんまり信じたくないけど」


 依里が家に帰ってから三日目。千尋にそう診断された。


「会いに行って来ればいいじゃん」

「でも、僕から会いに行くのは……なんか違くない?」

「何が違うのさバカ兄ぃ……。強がってる? それともプライドの問題?」


「そうじゃなくて……あくまで僕と依里は幼馴染ってだけだし」

「遊びに行くくらい、いいんじゃない? 引き離されたわけでもないんでしょ」


「でも依里が自分から来ないってことは……」

「ああもう……1年前と全く同じこと言ってる……」


 1年前。高校生になって、依里が隣の家に戻ってきたとき。僕は今と同じく声をかけられずにいた。


 依里がこうしてこの部屋に戻ってきたのは、今年の六月――急な探訪だった。

 それまでほとんどコンタクトをとっていなかったが、元通りの関係を構築するのに時間はいらなかった。


「兄ぃは、あの女がいないとなんも考えられないの? 将来社会に出てからやっていけないよ?」

「…………?」

「皮肉も通じてないのね……」


 やれやれ、というジェスチャーをとってから、千尋は腕を組む。


「どーせアホ女なんだから、兄ぃが渡すもの全部喜ぶよ」

「いやいや、そんなわけ……」

「いやいやでもでもって、兄ぃ、あの女から口癖移ってる」

「もとからだよ」

「……それもそっか。似た者同士だった」


 似た者同士。千尋は僕らのことをそう評した。その上で――。


「変わろうとしてるあの女のほうが、兄ぃよりいいのかもしれないね」


 すっぱりと言いのける。

 僕は――僕は、どうなのだろう。



「次会うときまでには、引きこもりを治しておきますね!」


 依里は手をひらひらと振って、車に乗り込んだ。


「さよなら! 恭弥!」


 別れの挨拶。

 挨拶なんて、儀礼的なものに過ぎない。だけど、僕は――何も、言わなかった。


 ほんのわずかな、最後の抵抗だった。



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