第24話(下) 引きこもりと、おやすみ(2)

「このベッドで寝ること?」

「……正しくは、『ここで寝ること』です。意外と新鮮ですね。昼間はここで寝たりするんですけど」

「新鮮だよ。二人で寝ることなんてなかったから。……とてもじゃないけど、寝れない」

「私もです。お泊り会ってこういうことなんでしょうか」


 お泊り会――依里らしい言葉のチョイスだ。でも今は、それがちょうどよい。


「さぁ。僕は誰かの家に泊まりに行ったことなんてないからわからない」

「奇遇ですね、私もです」


 ふふっ、と依里が笑う。彼女の口から漏れた息が、そっと首元を通り抜ける。暖かい風だった。


 近い。

 ちょっとでも手を動かせば、触れかねない距離。自制心を強く保たなければ、依里の手を掴んでしまいそうで――僕はこぶしを握り締めた。


「っていうか、いいのかよ。僕の家で泊まるなんて」

「パパが知ったら、卒倒しちゃうかもです。もしかしたら、ずっと泊まり込んでるって思いこんでるかもしれませんが――私、信頼されてるんですよ?」

「そうだとしたら、信頼されているのは依里じゃなくて僕だ」


 何度も面識はある。理知的で話の分かる人だった。こんな僕でも、一人の人間としてみてくれていた。だからこそ、自由奔放に依里が過ごせる環境があるのだろう。


「そうかもしれません。恭弥のことを話すと、いつもにこやかに聞いてくれます」

 それは依里に友達がいるという安心感から来ているのではないだろうか。

「まぁ、ほとんど家にいないんですけどね……」

「今日はいるんじゃないか?」

「昨日から出張です。なので、私を止める人はいませんよ」


 いたずらっぽく、依里は笑う。僕はどこまで耐えられるだろうか。

 それでも、幼馴染という刻まれた一線を飛び越えるには至らない。


 この関係を壊す覚悟は、僕にはない。


「ねぇ、恭弥……」


 言葉は、続かない。

 依里らしくない言葉遣い。吐息とともに齎される声は、精神衛生上よくない。


「出発、一週間後に決まったよ」


 それは、さよならの報告だった。


「この部屋で過ごした時間、楽しかったです。恭弥は半分くらい学校に行ってましたけど」


 僕は、何も言えない。依里も僕の言葉を求めていないだろう。滔々と、言葉を紡ぐ。


「恭弥と同じ高校なら、行ってもよかったかもしれません」


 そんな未来も、あったのかもしれませんね――と。冗談交じりに依里は話す。惜しむわけでもなく、悔しがるわけでもなく、ただそんな可能性もゼロではなかったと、もしもの話をする。


「一緒に登校して、同じクラスになって、新しい知り合いもできて、部活に入って、休みの日にはみんなで遊びに行って――普通の学生生活も、あったのかもしれません」

「……今からでも、遅くないんじゃないか」

「仮定の話ですよ。それに……私は、そういうの向いていませんから。羨ましがって終わりです。そうでしょう?」


 帰宅部で、仲のいい友達こそいるが、その友達は僕以上に仲のいい友達がいる。

 ああ――そうだ。依里が言っているのは、想像の話。実際には、僕だって羨ましがる側だ。


「これは、ないものねだりなんです。私のことを羨ましいと思う人もいると思います。だけど、私は――こんな体験じゃなくて、もっと普通のことが欲しかったんです」


 抽象的な言葉で、依里は濁す。どろどろに溶けてしまった心の内側を、炉に入れて固めようとしている。


「だけど、それは届きそうで、届かなくて」

「僕は、依里が何を考えてるかわからないけどさ」


 依里の言葉を、遮る。依里から出かかった言葉が「んっ……」という喃語になって漏れ出した。


「残念に思われたくないとか、人から白い目で見られたくないって気持ちだけはわかるよ」

「だから、私たちは仲良くなれたのかもしれませんね――それでも恭弥は教室には溶け込んでるし、無理しながらでも生きてます。それは、恭弥が強いからですよ」


 違う。


 違うんだ、依里。


 そう言いたかった。だけど――そのあとの言葉を絞り出す勇気は、僕にはなくて。


「私は、弱いんです。折れてしまったんですよ」


 そんなことはない。依里は強い。だって――とてもじゃないけど、僕にはできない決断だ。

 お金がないから。高校があるから。そういう常識的な倫理観が、目の前で邪魔をする。


 それを押しのけて自ら選択できる彼女は、僕よりずっと強い人間だ。


「海外に行くこと、恭弥が応援してくれたおかげで、踏ん切りがつきました」


 僕のおかげ。依里はそう言う。


「ずっと、悩んでたんです。穀潰しと言われてその通りだと思って、恭弥の部屋にずっと居候して何もできずにいた、そんな私が――頑張れること。そう、恭弥が思ってくれたのなら、私は期待に応えたいんです」


 誤解だ。

 そんなつもりで言ったんじゃない。


 ただ僕は、依里の気持ちを尊重するつもりで言っただけで――。


 言いたい言葉はいくらでもある。


 だけど、見えない彼女を目の前にして。


 どんな表情を浮かべているのかもわからない。口角は上がっているか? 目は怒ってないか? 表情筋は弛んでいるか? リラックスして話しているか?


 この期に及んで、僕は。

 依里に対して優しくあろうとしている。


「だから、私は――」


 依里は、心の底から――少なくとも、聞こえている限りでは。

 思いの丈を言葉にする。


「この気持ちを大切にしていきたいんです」



 月明りは、届かない。


 結局、あの日は何も起きなかった。ふわふわとした会話を繰り返して、どきどきとした気持ちを抑えきれないまま――依里は寝息をたてていった。


 その一方僕は――眠れないまま朝を迎えた。


 スマホを弄っていたら、太陽が昇っていた。光が舞い込むと同時に、少しずつ依里の実像が明らかになっていき――“そこにいる”という実感が僕の鼓動を加速させる。


「……おはよ」


 気づけば、依里が目を覚ましていた。朝7時。一睡もしていない僕が言えることではないが、依里も快眠したとは言えないだろう。


 本当に眠りたいのなら僕はリビングのソファで寝るべきだったし、依里はこの部屋に来客用の布団を持ってくるべきだった。


 それでも、そういうことをしなかったのは、同じベッドで寝るという共通認識がどこかにあったからだろう。


「よく寝れたよ」


 依里は寝ぼけ眼をこする。嘘だとわかりつつも、依里はそう言った。僕も同じ言葉を繰り返す。そういわなければいけない気がした。


 『今』を成功体験に変えなければいけない。これもまた共通認識だ。

 そうでなければ、次は訪れないのだから。


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