第9話 引きこもりと勉強(1)

 今日も何もない一日でした。


 高校生になって初めて導入された『日誌システム』に何を書こうか悩んでいる間に、一日が終わった。何を書いたのかは一文目の通りだ。

 僕の非日常は、高校生活の中では起こらない。


「なにこれ」

「おかえり!」


 自室の扉を開くと、大型犬の出迎えのように依里がしっぽを振って駆け寄ってきた。しっぽはもちろん比喩だが(念のため)。


 それすらも今までの日常になかった要素なので、驚くべきことではあるのだが――それ以上に非日常な要素があることに驚いた。


「この、モニタは?」

「これ? これは新設しました。邪魔にならないところに置くから……ね?」

「そんな上目遣いされても……」


 モニタはすでに配線されているようで、見知らぬパソコンにすべてのコードが集約されている。静音ファンの静かな風切り音と緩やかに点滅している緑色のランプが特徴的だ。


「つけるよ?」「え、ちょっ」


 ポチ、と依里が何かを言うより早く僕はスリープモードを解除する。


 そこには、日経平均の推移グラフとニューヨーク株式市場の値動き、それから2,3秒に一度更新されるドル円相場、そして夥しい数のローソクが入り乱れており――パソコン初心者の僕には何が表示されているのかもよくわからなかった。


「あ――ちょっとまってね、今閉場前の時間だから、ちょこっとだけ動かしちゃうね!」


 声音だけは明るかったが、画面に向き合う依里の姿は真剣そのものだった。どこから取り出したのか、気づかぬ間に眼鏡をかけており、目の黒点があちらこちらへと移動していく。当たり前のように瞳孔は開きっぱなしだ。


 それから少しして――熱を冷ますかのように、依里はモニタの電源を落とした。


「見たらやんなきゃいけないことが見えちゃうから、勝手につけちゃめーですよ」


 血気迫る表情を見せた後の、昨日と同じ依里の表情。ようやく僕は、今の依里が現実のものだということに気づいた。


「昨日言ってたのって、もしかして本当ってこと……?」

「ん? ああ――働かなくてもいいってこと? そりゃ嘘なんてつかないよ。そうじゃないと、こんな無茶苦茶なことしないでしょ?」

「自分がやってることが無茶苦茶だって自覚はあったんだ……」

「そりゃね。幼馴染とはいえ赤の他人の家に上がり込んで居座るなんて、普通無理じゃない? そのうえ学校にも行かず引きこもるって、やばくない?」

「マジやばい」

「ウケる~」


 雑な女子高校生らしさを醸し出してくる。僕にはそれが笑っていいことなのかはわからない。


「恭弥も、学校行かずに私とずっと遊んでてもいいんですよ? 高校の授業レベルなら教えられますし」

「そんな天才キャラだっけ?」

「いや? 天才のつもりはないですよ? でも、人間学べばなんだってできるから! 恭弥のために教えることができるくらいに賢くなる、くらいならよゆーよゆー」


 軽々と笑う依里に、今日返却された英語の中間テストを渡してみた。


「高校レベルって、こんなに難しいんだぜ?」

「いや17点って。評定2じゃん……進級大丈夫? 私とは違う意味で退学とかになるんじゃない……?」

「依里の退学理由が珍しいだけ。普通退学するとしたらこっちだよ。依里も解いてみる? 久しぶりの学校のテスト」

「面白い。って言っても辞めたのついこないだだけどね。私の英語力が落ちてないことを見せつけてあげるよ!」



「全然解けなかった、はは……」


 相星依里 英語:32点。僕よりはずいぶんいい点数だったが、それでも34点以下という赤点ラインには違いない。


「帰国子女じゃなかったの!?」

「帰国子女が全員英語話せると思ったら大間違いだよ! 『This one please』さえ言えれば日常生活なんて不便ないんですから!」


 依里はむきになって反論する。今まで言われ続けてきたのだろう。


「こんなの覚えればいいだけなんだから……見ててください! 次の英語テストで満点取るので!」

「本当は依里に教えてほしかったんだけどね……このままだと留年だし」

「ん~~、1週間! 1週間くれれば教えるだけ理解できるようになるから……」


 正座をしてすりすりと依里は手を合わせてくる。


「いや、わざわざそんなことしてもらわなくても……」

「絶対に私が恭弥に英語でいい点とらせてあげます!」

「そこまで言うなら……」


 そうして、僕は引き下がって依里に教えてもらうことを良しとしたわけだが……この判断が間違いだった、というのは後々わかる話だ。


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