第2話 僕の部屋が封鎖されました

 雨が降るかもしれない。


 そう思って、念のために持ってきた雨傘は結局一回も開かれることなく傘置き場に収納された。曇り空の中に閉じ込められていたせいか、玄関の照明が太陽のように眩しかった。


「ただいま」


 今この家に誰もいないとわかっていても、幼い頃からの慣習で言葉は出てしまう。鍵が掛かっていたから、もう母親は夜勤に向けて出発したはずだ。

 僕一人しか家にいない瞬間の寂しさは幼稚園の頃に卒業したし、鍵を握って帰る生活は小学生の頃に慣れきった。灯ってないリビングの明かりも、耳鳴りがしそうなほどにシンとした廊下も、いつか幽霊が出ると妄想を掻き立てた二階の両親の寝室も、全部僕の友達だ。


 もう六月なのに未だブレザーを着てちょうどいい外気とは違って、家の中はすっかり保温されていた。皴にならないように脱ぎながら、僕は自分の部屋の扉に手をかける。


 ガチャ。


 ――ドアノブが回らない。L字型のドアノブが、何かに突っかかったかのように固定されている。


 ……鍵が掛かってる?


 今、この家には僕しかいないはず。ということは――泥棒か!?

 一瞬のうちに伝った冷や汗が肌着に染み込む。どんどんどん、と強く扉を叩いた。


「誰かいるのか! いるなら返事しろ!」


 ナイフを持った空き巣が部屋に居たとして――今出くわしても勝てる未来は見えない。こちとら現役高校二年生の身体一つしか持っていない。運動は中の下、平均的な帰宅部だ。


「ぴゃっ!」


 扉の奥から、少し甲高い悲鳴が聞こえた。どこかで聞いたことがあるような声だったが――そんなことは関係ない。そこに人がいることが確定したことに意味がある。


「泥棒か! 出てこい!」


 近所迷惑を鑑みないレベルの大声で威嚇するも――自分でわかるくらいに声は震えていた。幸いなことに、隣の家はこの時間には人がいないので誰の迷惑にもならない。誰にとって幸いなのかは、僕にもわからない。


 だが――泥棒は、僕が思っているよりもよっぽど明瞭な返事を返してきた。


「突然の来訪失礼します! でも譲りません! 即刻退去を命じますぅっ!!!」

「……は?」


 それは、確かに聞いたことのある声。だが、奔った緊張感はちょっとやそっとでは抜けない。


「えっと……誰? っていうか、どゆこと?」


 退去を命じたいのはこっちだ。


「お母様からも許可は貰っているので……! 許してえっ……!」

「許すって……いや、なんていうか……」


 対話に成功したことで、今の状況が少しづつ呑み込めてきた。……気がする。

 いったん鞄を廊下に置いて、僕は自分の部屋の鍵のスペアをリビングに取りに行った。



 リビングには、一人前のオレンジジュースとありあわせのお菓子が並んでいた。ガラスでできたコップは結露が滴っていて、コースターは濡れている。氷は完全に溶けきったようで、容疑者の来訪はおよそ三十分前だと推測される。

 家に置きっぱなしだったスマホを見ると、母親から三件の通知が入っていた。


『依里(より)ちゃん来てるよ』『ひゅ~ひゅ~』『夜勤なんで出ます』


 連絡事項が二件、煽りが一件だった。


『いってら』


 そっけない返しを打ち込んで、棚の中に仕舞われていたスペアキーを取り出す。

 そのついでに、誰も飲んでいないオレンジジュースに口をつけた。


「うっす……」

 


 こんこん、と伺いを立てるような軽い叩き方で、僕は自分の部屋をノックする。なんで自室に向かってこんなことをしているのかと内心思いながらも、念のため。


「おかえりください! 私は決めたんです!」

「決めたって……何をだよ」

「私、ここに引きこもることにしたので!」

「そこは僕の部屋なんだけど」

「私の部屋といっても過言ではありません!」


 どうやら扉の向こう側にいる人間とは、言語を通じての対話は不可能なようだ。鍵をそっと錠に差し込んで、扉をそっと開けた。


 そこは、いつも僕が過ごしている部屋。子供部屋、というには少しだけ大きい12畳もある大きな一室。少し青みがかったシーツを纏ったベッドが隅に置かれ、真ん中には冬場に重宝される電気カーペットが敷かれている。それ以外にも勉強机、可動式の椅子などなど、CMで見るような家具が取り揃えられているだけの、広さ以外は平均的な一室だ。


 感動も何もない。ほんの少しだけ、いつもとは違う匂いが鼻腔を通り抜けてゆく。たった一つ、いつもと違うところがあるとすれば――ベッドの上。春用の掛布団が大きく膨らんでいることくらいだろうか。


「何言われても、私は出ていきませんからぁー!」


 まだ僕が外にいるのだと勘違いしているのか、布団の中からそこそこ大きな声が聞こえてくる。この部屋の防音機能に驚きながらも、僕は布団を引っぺがす。


「久しぶりに会ったと思えば……どういうつもり?」

「ひゃぁっ!? なんでです!? 鍵かけてたのに!」


 なんで、はこっちのセリフだが。


 布団の中にいたのは、相星依里(あいぼし より)。僕の幼馴染で――去年まで海外にいた、ちょっとだけ世間知らずな帰国子女だ。


「僕の部屋だから。そりゃスペアくらいあるよ」

「だからって! 引きこもっている娘の部屋に突入してくる人がいますか!?」

「いるだろうね――だって、依里の部屋はあっちでしょ」


 僕はそう言って窓の外を指さした。窓の外に見えるのは――窓。

 住宅が密集しているこの地域では、建蔽率ギリギリにそれぞれの家が建てられている。何を間違えたか――僕の部屋の窓と相星家のある一室の窓がちょうど同じ高さに設置されてしまっていた。


 人が一人出入りできるサイズの窓の先にあるのは、依里の部屋。部屋、とは言い難いサイズの物置部屋ではあるのだが彼女はそこを自分のものとして暮らしていた。

 だから、結果として僕の部屋と依里の部屋は窓二つ超えるだけで繋がってしまい――。


「同じ一部屋みたいなものです! ちょっと飛び越えるだけで来れるんですから」

「危ないからここ超えるのは止めろって怒られてなかったっけ?」

「落ちてもへーきですよ。そうです! 部屋の間に橋を架けましょう!」

「断固拒否する」


 依里はたまに突飛なことを言い出す。有り余る行動力と彼女を取り巻く環境のおかげで実現可能であることを忘れてはならない。


「ほら、窓空いてるから。帰れ帰れ」

「冷たくないですか!? せっかく幼馴染がひっっっっっさしぶりに訪ねてきたのに!」

「久しぶりに訪ねてきた結果、もう片方の幼馴染が泥棒かと思っちゃっただろ」

「それはごめんなさいて~~! ねぇ~~っ」


 ずるずると襟首を掴んで引っ張ることも考えてみたが、気安く遊んでいた昔とは何もかもが違う。依里の顔から下に視線を向けたくなる自分をぐっと自省して、彼女の瞳だけを見つめる。


「それに、今日は前から入ってきたので! 靴もありましたよね?」

「玄関のこと前って言うなよ」


 靴――言われて帰ってきたときのことを思い出そうとするが、まったく思い出せなかった。日常の一ページを切り取って保存するほど僕の脳にはメモリがない。


「おばさんにも会いました! ちゃんと許可とってるんですよ!」

「僕の部屋なんだから許可とるならこっちだろ」

「私の部屋でもあるので!」

「依里の部屋はあるだろ、そこ」

「あそこ狭いし埃っぽいんですよ! Wi-Fiもろくに届かないし! あんなところで引きこもったら私の人生廃人ルートですよあれ!? 実質監獄! そんなかわいそうな幼馴染を見過ごせるとでもいうのですか!?」


 依里の部屋――この部屋から窓伝いに行ける4.5畳くらいの小部屋を僕はそう呼んでいる。ベッドが一つと、勉強机が一つ。それ以外に物を置くスペースがないその部屋は、本来なら物置として使われていたはずだ。


「太陽の光も届かない。冬は寒いしトイレまで遠い、エアコンが付かない……引きこもるには向いてないんですよ!」

「引きこもるなってことじゃねーの?」

「そこで私は一つの妙案を考えたのです!」

「全く話を聞かないじゃん……」


 そういうところも昔から変わらない。幼馴染とはいえ、依里とは最近疎遠がちだった。久しぶりに話して、昔はこうだったなと少しだけ懐かしくなる。


「恭弥(きょうや)の部屋に引きこもればいいんじゃないかと!」

「トンでるじゃん……」

「ここなら少なくともエアコン完備、トイレも近いしWi-Fiも強い! 有線完備! しかも広い! これが部屋ガチャのSSRですよ!」

「それを僕が許すとでも……?」

「おばさんの許可も取りました!」

「それは家に上がってもいいってことで……」

「許可も取りました!」


「…………?」

「…………(ニコッ)」


 依里が笑みを称えて僕を見る。なんだ、何が起きている?


「ちょっと待ってな?」


 スマホを出す。今母親は移動中だろう。出るかどうかはわからないが、嫌な予感の真否を確かめておく必要がある。


 ――だが、僕の嫌な予感は母親に連絡するまでもなく的中していた。

 母親からの返信が一件。


『あ、依里ちゃん今日から家で預かることになったから。よろ~』


 理解が追い付かないまま画面の文面を眺める僕の隣で、依里がつんつんと肩を突っついてきた。何事かと振り向くと、そこには正座した依里がいた。


 深々と頭を下げて、一言。


「というわけで、お世話になります!」

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