第89話 社畜は本の中にいる

 俺とクロは本の中にいた。



 今いる場所は、どこかの街の細い路地裏だ。


 ところどころ凹み、欠けた石畳が、路地の先の大通りまで続いている。


 見上げると、古めかしい建物と建物のせまっ苦しい隙間からは、突き抜けるような深い青空が見えた。


 もっとも、周囲には誰もおらず喧騒も聞こえない。


 寒くはないが空気は乾燥していて、街の静けさと相まってどことなく寂しさを感じる。



「あー、そういうことね……」



 それにしても、この魔法の歴史書……まさかの追体験型である。


 一瞬びっくりしたが、まあ異世界だしこういうこともあるか……と自分を納得させる。



「一応、退路はあるわけね」



 後ろを振り返れば、本の表紙に似た『扉』が佇んでいた。


 おそらくこの扉を開けば外に出られるはずだ。


 ……出られるよな?



 さすがに不安になったので、扉を開いてみる。


 すると、宿の部屋が見えた。


 ベッドがすぐ目の前にあったので、扉はちょうど俺たちが座っていた場所のすぐ目の前に立っているようだ。



「……よし」



 問答無用で本の中に閉じ込められる、みたいな事態はなさそうである。


 『鑑定』先生が『取り込まれないよう注意を要する』とか言っていたから一瞬ビビったぞ。



 ……ただ、これまで『鑑定』の説明が間違っていたことはないので、もしかすると他の意味で『取り込まれる』可能性があるかもしれない。


 本の中を探索にするにあたり、注意を要することに変わりはない。


 とはいえ、本の中に入れるという体験はそうそうできるものじゃない。



「よし。それじゃクロ、行こうか」



 と、路地裏を抜け大通りに足を踏み出した、その時だった。



『……きゃっ!?』



 女性の軽い悲鳴とともに肩に軽い衝撃を感じる。


 どうやら誰かにぶつかられた……らしい。



 らしい……としか表現できなかったのは、人にしてはあまりに衝撃が軽かったからだ。


 むしろ、小鳥か何かにぶつかられたような感触だった。



「あっ、すいません!?」



 慌てて謝るが、目の前には誰もいない。


 相手が転んだのかと思ったが、足元にも人影はなかった。



『あたたた……』



 だが、声だけは聞こえる。


 なんだこれ?



「グルル……」



 代わりに足元から聞こえたのはクロの唸り声だ。


 見れば、クロは俺の肩のあたりを見上げてちょっと険しい表情をしていた。


 で、ようやくそこで気づく。



「…………妖精?」



 そこにいたのは、小さな人……というか妖精だった。


 うん、妖精。


 トンボみたいな透明な羽が背中から生えた、手乗りサイズの少女だ。


 その子が俺の肩のあたりをフワフワと浮遊しながら、まるで尻餅をついたような姿勢をしていた。


 なるほど……そりゃ衝撃も軽いわけだ。



「あの、大丈夫ですか?」



 もう魔物とか人外は見慣れてしまった俺は、その状況にまったく違和感を覚えなかった。


 ていうか本の中だし、何が出てきても驚くこともない。


 むしろぶつかってきた相手がオークとか変な魔物でなかっただけだいぶマシな状況だとすら思った。



『あ、うん、大丈夫……じゃなくて!』



 と、向こうも我に返ったようだ。


 ハッとした様子で俺を睨みつけると、空中で立ち上がり(?)、ビッと指を突き付けてきた。



『ちょっとアンタ! いきなり路地から出てきたらぶつかるでしょ! 前だけでなく、ちゃんと右も左も見てから出てきなさいよ!』


「す、すいません?」



 正直こういう状況はお互い様だと思うのだが、こういうところは日本人気質というか社畜気質というか、反射的に謝ってしまうのは悲しい性である。


 もっとも、俺の謝罪で妖精さんは機嫌を直したようだ。



『まあいいわ。そっちこそ怪我はない? 私、結構急いでいたから痛かったでしょ?』


「いえ、こちらは大丈夫です」


『そう、ならいいわ。それよりアンタ……神官? そうは見えないけども。それに物腰もあいつらと比べて柔らかいし……ていうか犬? まあペットの持ち込みは禁則事項じゃないけど』



 と、訝し気な様子で俺たちをジロジロとみる妖精さん。


 ……神官? ペット持ち込み? 禁則事項……?


 どういうことだ?



『あれ? もしかして完全ご新規様……?』



 こちらの態度に、妖精さんも困惑した表情を浮かべている。



「ご新規様かどうかは分からないですが、私は神官ではなく商人です。あとこっちの犬……狼はペットじゃなくて相棒です」


『そ、そう……それはごめんなさい! ……ともかく』



 意外と素直な妖精さんはペコリと頭を下げると、真面目な顔で続けた。



『アナタが今回のお客さんね? 私はこの本の案内役を務める、ミルよ。人造精霊……って言えば分かるかしら?』


「まあ、だいたい分かります。あ、私はヒロイと申します。こっちはクロです」


『ヒロイとクロね。ひとまずよろしく』



 予想していた通り、この妖精……ミルさんは本のガイド役のようだ。


 彼女が急いでいたのは、俺たちが本の中にやってきたのを察知したからだっただろう。



 それにしても……人造精霊、か。


 察するに、自立型AIみたいな存在だろうか。



 それさておき、えらいクセが強めな案内役だな。


 まあ敵意剥き出しとかじゃなければ別にツンデレでもヤンデレでも構わないけども。



『それで……商人のアンタは何しにここに来たの? まあ、その神官もしばらく訪れてなかったけども……もしかして迷い込んだとか? ならば、もと来た道を引き返せばすぐに本の外に出れるわよ』


「ああ、そのことなんですが。実は……」



 とりあえず、ミルさんに俺の目的を話すことにした。



『――――『深淵の澱』? うーん……少なくとも私の情報検索には引っかかってこないわね』


「そうですか……」



 どうやらこの本に『深淵の澱』について記されている箇所はないらしい。


 残念。


 異世界の古代文明に興味がないかと言われればあるのだが、目当ての情報がないのならここにいる意味はない。


 さっさと外に戻ろう。



「それじゃ、せっかくで申し訳ありませんが……」


『ちょっと待って』



 立ち去ろうとしたところで呼び止められた。


 なにやらミルさんが腕を組み、思案気な表情をしている。


 それから彼女は俺を見て、言った。



『……確かに『深淵の澱』という言葉に心当たりはないわ。でも、その特徴には心当たりがあるかも。……せっかくだから、ちょっとこの本の内容を体験していかない?』



 パッと花の咲くような、素敵なスマイルとともに。

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