二十〈あやめ〉

 セイは数日間、自宅にいる時間や仕事の合間を縫って仇をとるような思いで暗号文と戦い、ついに二十三文字の謎を解いて、決然としてわたしのところに知らせにきた。顔は明らかに悩みを雲散した人のそれであった。清々しく眩しさがあった。

 木曜日なので雑貨屋アイリスは休みだった。セイは忙しい時期にもかかわらず休暇を取ってきていた。いかにこの問題について熱い思いを傾けているかがわかった。

 セイはなぜかウォーキングをするような格好であった。スポーツジムにでも行ってきたのだろうか。そんな話は聞いた覚えがない。いつもの安い服を上品に着こなした服装とはまったくかけ離れていた。あまりにも似合っていなかったので、ひょいと倒れそうになった。


  チバケンフッツシ

  コクテイコウエン

  ダンヤクコアト


「と書かれていたよ」

 解くのに腐心したわりには思いのほか冷静な口調でそう言った。

「そこに何か隠されているってこと?」

「それはわからない。行ってみなければ。だから、いまから行こう」

「いまから千葉まで行くのー!?」

「そうだ。絶好の行楽日和じゃないか。観光ついでだ」

 わたしはセイと同じく、ウォーキングをするような格好に着替えた。

最寄り駅から電車に乗り、東京駅に向かって、東京から総武線快速で君津、そこで内房線に乗りかえて、青堀で降りた。ここからはバスに乗りかえて、国定公園である富津公園まで行く。バスは一時間に一本しかない。公園に到着してからは、徒歩で弾薬庫跡まで歩いて行かなければならない。運動不足のわたしにはとてもきつい旅程で、先が思いやられた。うまい物を食って温泉に入るくらいはして帰らないと、とてもじゃないが気が済まなかった。

「着いたーっ。長かったーっ」

 富津公園のバス停についたわたしは、大きな伸びをして言った。

「さて、ここから歩きますよ」

「はぁーい」

 アスファルト道路をてくてく歩いていると、向こうから知った顔が近づいてきた。おそらく帰るところなのだろう。

「あれ? クリープのマスターじゃないですか! どうしてこちらに?」

「どうもこんにちは。いつもお世話になっております。嫁の実家が富津なんで、ちょっと遊びに」

 マスターは嫁と幼い子供を連れていた。嫁さんはどこかで見た覚えがあると思っていたら、クリープのカウンターにいる姿がぼんやりと頭に浮かんできた。客に手を出したということか。いや、客に見せかけて旦那の仕事をチェックしていたのだろうか。嫁さんと同じ立場だったら、わたしもやりかねない。

バス停からしばらくアスファルト道路を歩いていくと、色とりどりの低い花と、ゲートのような大きな二本の松が見えてきた。その右手には「南房総国定 富津公園」と書かれた木製の看板があった。左手に並んで植えられたごつごつとした桜の木を見て先へ進んで行くと、二軒の古びた食堂があった。その先の角を折れると、公園へ入って行くことができた。

 枯れ芝で敷き詰められた広場を進んで行くと、お堀にかかるアーチ橋があり、意外に半径の小さい起伏を乗り越えると、今度は石造りの富津公園の看板が右手にあらわれた。

 石垣にはさまれるようにして道を進むと、周囲を桜の木で囲まれた開けた場所に出た。春になって桜が咲けば、さぞ美しいだろうと思った。

 振り返るとコンクリート造りの長い階段があって、のぼり切ると茶色の砂利で敷き詰められた遊歩道にたどり着いた。歩道は両側を柵で仕切られ、どこかのどかな印象であった。左手には松がずっと先まで植えられ、右手は下り勾配になって、さっきの開けた場所につながった。

 ぐるっと遊歩道を右に曲がってしばらく進んで行くと、途端に道が細くなった。その先に見えてくる石垣の右隣には石階段があり、傾斜の強いその階段をのぼり切ると、左手に茶色いレンガとコンクリートで作られたアーチ型の弾薬庫跡が姿をあらわした。

「ここだな」

「疲れたあ。運動不足にはきっついわ」

「さて、中に入ってみよう」

 と言ってセイはリュックから懐中電灯を取り出した。ふたりで中に入ると、ひやりとして不気味な感じがした。床にはワラが敷き詰められたようになっていて、缶チューハイの空き缶がひとつ転がっていた。浮浪者かなにかが寝床にしているのかもしれない。

 セイが電灯で照らしてレンガをひとつずつ慎重に調べていったが、暗号のヒントになるものはなにも見つからなかった。その姿をセイのうしろからずっと見ていた。

 やはりこの場所は気味が悪い。入口が何者かの手によって塞がれ、閉じ込められるような気がして仕方なかった。暗号のことなんか忘れて、もう帰りたいと思っていた。

 しばらくすると、調べがひととおり終わったらしく、壁のほうを向いたまま、セイがため息をついた。探すのをやめて帰るのかと思ってほっとしていたら、セイがわたしのほうを振り返って、

「うしろ!」

 と叫んだ。

「うええええっ!?」

 わたしは恐怖のあまり大声を上げ、首を縮めてその場に固まった。

「うしろの天井とレンガのつなぎ目あたりに、亀裂があるな」

「びびったあ! もうっ」

 セイはリュックからピンセットを取り出し、その亀裂の中を電灯で照らしながら調べた。カリカリという音が弾薬庫内に響いた。

「あっ、これは――」

 と言いながら、セイが銀紙のような薄くて四角い名刺大のなにかをつまみ出した。

「な、なにそれ?」

「わからん。なにかを銀紙で包んであるようだ。慎重に開いてみよう」

 セイがゆっくりと、折り込まれた銀紙を開いていった。すると、黄ばんだ紙に文字が書いてあった。数字と記号の羅列であった。

「こ――これ――?」

「ああ、見つかったな。これだ」

「また暗号ってどういうことよ~」

 わたしは情けない声を出して、がっくりと下を向いた。

「面白くなってきたじゃないか」

 わたしは大きく息を吸い込んでから、

「終わりだ終わり! お疲れさん! 温泉行って帰るぞ!」

 と一気に言葉を吐き出した。

セイは紙をもう一度丁寧に銀紙に包み、なくさないように財布のなかに入れた。

 バス停まで同じ道を戻り、バスで富津公園から大貫駅、そこから内房線に乗りかえて浜金谷に出た。旅館に併設されている鋸山金谷温泉に行くのだ。

 浜金谷から数分歩いて旅館についた。荷物を降ろし、ソフトドリンクを買い、フロントのソファーで少し休んだ。セイは缶ビールを飲んでいた。宿泊してゆっくりしたいところだったが、ふたりとも明日は仕事なので日帰り温泉だ。浴槽はソラマメのような形をしていて、お湯は透明度のある黄金色湯だった。冬の温泉は格別であった。

 大貫駅に戻って昼食をとった。名物の「はかりめ丼」というものであった。細長いアナゴの姿が魚市場で使われている天秤ばかりの目盛のように見えることからついた呼び名であるそうだ。

 自宅につく頃には、ぐったりとしていた。セイも一緒にわたしの家にきた。これから暗号を解読するのである。わたしは缶ビールを開けて、畳の上に腰をおろした。ひとくち飲んで、畳の上に大の字になった。

「あーっ! 疲れたあーっ!」

 セイは、小ぶりの電気スタンドの下に紙を置き、じっと見入っていた。

「これ、座標だな。あやめ、なにか方眼紙のようなものはないか?」

「方眼紙はないなあ――あっ! 作業場にカッターマットがある! あれならマスが引いてあるよ!」

「よし、それだ!」

 わたしは急いでカッターマットを取ってきた。

「あと、碁石のようななもの――三十個くらい」

 わたしは縁側のガラス戸をバアッと開け、庭に敷かれている砂利をつかみ取った。

「こんなもんでどうよ?」

「完璧だ」

 まず、最初が、

 (0,0)―(10,0)

だからこうやって石を並べて、つぎが

 (0,2)―(10,2)

だからまたこうやって石を並べると、いちばん上に二本の横線ができる。その要領でこのひとまとめの座標にあわせて石を置いていくと、

「ラ」の文字があらわれる。

 つぎのひとまとめの座標にあわせて石を置いていくと、

「ン」

 そして最後に、

「プ」

 の文字があらわれる。

「ランプだな」

「ランプ――」

 ランプをどうしろというのだ。わたしはなんのことを指しているのかさっぱりわからなかった。

「おばあちゃん、ランプ、ときたらなにか思い当たる節はないか?」

「あーっ! そういえば、おばあちゃん電気スタンドのことランプって呼んでた!」

「それだ! その電気スタンドはどこにある?」

「目の前。いまあたしたちの手元を照らしてるこのランプ」

「なんだって!? そんなバカな! あやめ、ドライバー持ってきてくれ! フタを開けてみる!」

 わたしはベビータンスをゴソゴソやって、赤いドライバーを取り出してきた。

セイがコンセントからランプのコードを引っこ抜き、底ふたのネジを慎重にドライバーで回していった。

「開けるぞ――」

 パカッという音を出して、底ふたが取れた。

果たしてそのなかから出てきたのは、四つに折りたたんだ一万円札であった。

「すごい! セイすごいよ! さすが! ――ていうかさあ、これから旅費引いたら、いくらにもなんないんじゃないの?」

「いや、ふたりで行ったからマイナスだな」

 わたしは白目をむいた。

 もう夕食を作るのは面倒なので、出前を取ってしまおうということになった。出前圏内には中華料理屋しかないので、わたしは野菜炒めライス、セイは細切り豚肉そば、酒のつまみに餃子を一人前取った。

 十数分経って出前が届いた。明日、欽ちゃんでいろいろまとめたパーティーというかお祝い会があるので、いったん区切る意味で立てこもり事件からこれまでの流れをさらってみることにした。

「立てこもりのあと、はじめたツイッターはまだやってるの?」

「やってるよ。フォロワー一万超えた。アンチもすごいけど」

「演くんと亜由美ちゃんはどうなっているんだ?」

「やっちゃったって」

「はやいな。みんなそんなもんなのか」

「しらない」

「山崎くんはどうなるかね。はからずも失恋してしまったな。失恋って言っていいのかわからんが」

「カスミちゃんとくっついちゃえばいいのに」

「あっちがだめだったから、じゃあこっちみたいな感じになるがそれでもいいのか」

「恋愛なんかみんなそんなもんでしょ」

「沙々ちゃんは、大丈夫だろうか」

「大丈夫――だと思いたい。これからも自然に接して、特別やさしくしたりはしないようにしようと思ってる」

「甘木さんとはうまくやっていけそうか」

「いまのところ特に問題ないよ。彼の性生活はちょっと心配だがね。それこそ風俗に行けばいいのに。高校卒業してすぐの子もいるし。それでも本物じゃなきゃだめなんかな」

「わっさんの奥さんは――正直きびしい気がする」

「わかんないよ、それは。医師にもわからない。なにかが起きるかもしれない」

「そうだな。あきらめるようなことは言うもんじゃなかった」

「それでよし」

「ルミちゃんとは仕事上必要最低限のことしかしゃべっていない。正直あんな人だと思わなかった。何年もずっと普通に仕事してたんだぞ。その間ずっとモンモンとしていたんだろうか」

「いつの時点で意識するようになったか、わかんないからなんとも言えんな。わたしとしては感謝してるんだけどね。いいきっかけになりましたし」

「あとは、ひなちゃんの結婚だな」

「ほんとおめでたいよ。わたしが求めているしあわせの形ではないけどおめでたい」

「あやめのはどんな形なの?」

「結婚にメリットを感じない」

「主要な出来事はこんなところか」

「いやいや、大問題が残ってるじゃないですか」

「千影ちゃんか」

「会ってるの?」

「たまに」

「やってるの」

「やってないよ!」

「いやそっちのやってるじゃなくて。バイト」

「あ、ああ。やっている。これからバイトです、と消えることがあるから」

「そのたび、片思いしている女の子に〔好きな人ができたんだ〕と告げられたときの顔してるんだね」

 ぐさりと刺さった手ごたえがあった。そんな意地悪なこと言うつもりはなかったのに。なんで言っちゃったんだろう。

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