二十一〈セイ〉

 欽ちゃんに夕闇が訪れると、欽さんは橙色の電球をつけ、看板の蛍光灯をともし、いつもと同じ夜営業の体制になる。僕は荷物を抱え、のれんを首から肩へ流し、ガラス戸を開けて店内に入った。まだ店内には誰もいない。誰もいない欽ちゃんは、人の存在感にごまかされることがないぶん、いつもより煩雑に見える。

「これです」

 と言って、僕は大きな箱を欽さんに渡した。

「けっこうデカいね」

 欽さんは上半身をすこし反り返して箱を受け取った。

「ひなちゃんこれが欲しいらしいんですよ」

「むしろウチに欲しいな」

 欽さんは外箱を見回してうらやましそうに言った。

「あれ? あやめちゃんは?」

 僕のうしろをついて来ないか確認するようにして欽さんが言った。

「あとで来るそうですよ。今日も店番ですからね」

 あやめは今日も雑貨屋アイリスである。

「そうか。いまだに仕事してるって実感がわかないね」

「そうですね。あれだけブラブラしてましたからね」

 欽ちゃんに荷物を搬入し終わって、カウンター席に腰をおろした。思わずひと息をつく。とりあえずソフトドリンクが飲みたい気分だった。

「今日はいろいろおめでたい話がありますね」

「だから、日本酒買ってきた」

 と欽さんが得意そうに一升瓶をかかげる。

「やっちゃいますか」

 僕はなぜかしたり顔である。

 そのとき、引き戸を開けて亜由美が入ってきた。高校の制服姿である。

「おっ、学校終わりか」

 欽ちゃんが気安く声をかける。

「帰宅部なんで」

 亜由美は感情を乗せずに答えた。顔は悟った風である。

「毎度」

 続いてわっさんが入ってきて、

「こんばんは」

 と千影が入ってきた。千影も高校の制服姿である。

「あら、親子で」

 欽さんは区切るように言った。

「たまたまです」

 千影は明瞭な発音で答えた。あいかわらず輝くような美しさである。

「欽ちゃん来たお」

 ロックンロール氏は何もしていないのにロックンロールしている。彼は仕事を退職したので背広ではなくパーカー姿である。

「どうも」

 バンジョー先生があらわれた。どこかスッキリとした顔をしている。ベトナムで相当やってきたのだろう。

「こんばんはー」

 演くんが店に入ってきた。弾き語りをやってきたようでギターを背負っている。

「お疲れっす!」

 ひなちゃんが元気いっぱいに入ってきた。今日の主役である。

「あやめ出勤です!」

 ついにあやめがあらわれた。早番でアイリス。遅番で欽ちゃんといったところか。

「役者が揃ってきたねえ」

 欽ちゃんがかみ締めるように言った。

「ひとり大根がいますけど」

 僕は欽さんにだけ聞こえるように言った。

「なに? 脚?」

「しーっ、役者ですよ」

 先日、欽ちゃんである映画の撮影があり、たまたまそのとき店にいたあやめがセリフありの役で出演したのである。「欽ちゃん、塩焼きそば」というよく言っている言葉だったのだが、あまりにも棒読みで、まさに大根役者といった感じだったのである。そのテイクが実際に使われるのか、なかったことにされるのか、本編をみるまでわからない。

「亜由美ちゃんと演くんはうまくいってるの?」

 欽ちゃんがなんとなく聞いたが、演くんは、

「いや、そんな直接的に言われると――」

 と気まずそうにして言葉を失う。

「いやいやそっちじゃないよ。ユニットのほう」

「あーいやーそっちでしたか。まあ、レコーディングした二曲以外は全然ですね。それこそ、千影ちゃんと欽さんのほうはどうなんですか?」

「まあ、演くんと同じようなもんだね。レコーディングした二曲以外は全然だよ。千影ちゃんは何でも弾けちゃうし覚えも早いんだけど、俺が全然ついていけなくてね」

「まあ、そうなっちゃいますよね」

 と演くんが言った。もちろん欽さんの能力を否定しているわけではない。千影の能力が高すぎるためにそうなってしまうのだ。

「わっさん、今のうち歌っとく?」

 今日はのちのち歌うことになりそうなので、歌の練習をしておくらしい。聴いていたところ、以前に比べてだいぶ上手くなっていた。

 そんなところで、奥さんが引き戸を開けてあらわれた。眼鏡が似合っている。欽さんが惚れたのも合点がいく。僕にとってはベースの教師なので、ちょっと背筋が伸びた。奥のほうで用を済ませ、しばらくするとカウンターの向こう側に回った。

「欽さんのところは本当にいろいろな人が来ますよね。飲みすぎて自宅前の階段で転倒して頭を打って出血、意識不明になって、頭を開けて閉じる手術をして生還した人だったり、フィリピンパブの女性に入れあげて、流血事件を起こした人だったり。それにしても流血事件は面倒でしたね。杖で頭ぶん殴るとあんなに血が出るもんなんですね。初めて来たお客さんだったけど、冷静に止血してくれる人がいてよかったですよね。目の前で警察にワッパかけられるのなんてはじめて見ましたよ。嫉妬って怖いですね」

 と不意に演くんが昔話をする。

「あったなぁ。厄介だねえ」

 欽さんは額に深いしわを寄せた顔をした。

 そこで欽さんがなんとはなしに、

「千影ちゃんバイトとかしないの」

 と聞いた。

「頭のなかが散らかってしまって、気の利いた答えができそうにないですね。曖昧にして済ましてしまいたいところです」

 千影はしばらく時間を置いてから、一句一句を区切らず流れるように答えた。実際に曖昧にして済ましてしまった。

「内田百閒のような答えだな。内田百閒と言えば、阿房列車は読んだ?」

 と僕は言った。これ以上バイトの話に及ばないように話の行き先をそらした。

「読みましたよ。全部」

 助け舟を出したつもりだったが、あっさりとして手ごたえがなかった。しかし無言でなかったのは救いであった。

ロックンロール氏が、また珍エピソードを披露してくれた。

――親と一緒に映画を見ていて、小便がたまり、我慢していた。コマーシャルになり、小便に行った。チャックを急いで閉めたら、ポコチンの皮がはさまった。親のところに戻っていろいろやってみたが、取れない。ひとまずズボンを切って、ものをしまった。医者に行くが、どこも対応できないと断られ、病院をたらいまわしにされた。数軒目でやっと対応してくれる医者が見つかり、手術。無事に分離することができた。その手術の間、なぜか勃起していた。包帯を巻いて、処置は終了した。そのエピソードのあと、あだながオチンチン坊やになった――

という話である。

「マジうけるんだけど!」

ひなちゃんの好きそうなネタである。

 今回も十六夜に続き、ロックンロール氏のエピソードに助けられている感じがある。当のロックンロール氏はニヤニヤしている。

 バンジョー先生はバンジョーを適当に爪弾きながら、チューニングをしている。思いのほか大きな音が欽ちゃんの空気を揺らす。

 あやめはツイッターをチェックして、ツイートをしている。アンチのつぶやきを見たのか、渋い顔をしている。

 バンジョー先生が突如歌い出し、よどみのない発音の英語を披露した。得意の All of Me であった。段々と欽ちゃんの空気に熱が加わる。いつもなら欽ちゃんの奥さんがベースで演奏に加わるところだが、代わりに僕がベースで参加した。たどたどしく、リズムを崩しているように思えて申し訳ない。

 そこで、わっさんがソース焼きそばの大盛りキャベツ増しを頼んだ。欽さんが気合いを入れて焼きはじめた。それをきっかけにして、さまざまな注文が飛び交った。この時期はおでんもやっているので、僕はおでんのおまかせ八品を注文した。

 注文の品をすべて出し終わると、欽さんがあやめと僕を見て、いやらしい顔をした。以前から欽さんは「セックスをしてしまった男女は空気感ですぐわかる」と言っていたが、まさにそれに思い至ったのだろう。それに気づいた僕は急に逃げ出したくなった。いずれこの空気感は皆にも伝播するのであろう。

 欽さんは金粉入りの日本酒の一升瓶を持って、飲める人に分けて回った。振舞い酒である。亜由美と千影、ひなちゃんにはソフトドリンクがサービスされた。ひなちゃんは普段お酒が飲めるが、今日は飲めない。

 さて、と欽さんが皆の前に直立して、きまりが悪そうにはにかむ。普段はカウンターの影になって見えない加茂鶴の前掛けが渋い。

「それでは、えー、今日はこうしてお集まりいただきまして、えー、本当にありがとうございます。今日はいくつもおめでたいお話がありまして、これから発表していこうと思うわけであります」

 欽さんがかしこまって話すと、どこか口上のような雰囲気がある。

「まずはひとつめ! ついにマルチトラッカーレコーズ、オムニバスアルバム発売です!」

 欽さんが高らかに発表した。欽さんが主催するレコードレーベル、マルチトラッカーレコーズからついにCDが出るのだ。

「亜由美ちゃんと演くん、千影ちゃんと僕でユニットを組んでます! ほかにもこの店に来るおなじみのミュージシャンが多数参加しております! 壁掛けポケットに入っておりますので、チェックしてみてください!」

 亜由美はボーカル担当、演くんはハーモニーとギター担当である。もう一組は千影がベース、欽さんがボーカルギターをつとめている。両方ともまだ聴いていないので、聴くのが非常に楽しみであった。

「まだまだ嬉しいお知らせがあります! お客さんがいないあいだを利用して、わっさんが一生懸命歌を練習した結果、わっさんの音痴がマシになりました! ぜひあとで歌を披露してもらいたいと思います!」

 笑いと歓声が一斉に起こった。続いて、

「ベトナム帰りのバンジョー先生ですが、このたび江戸検定に受かりました! 半分しか像の山車が入らなかったから、半蔵門。そうですね?」

 おーっ、と感心の声があがった。続いて拍手が起こる。

「そして、これはかなり大事で、おめでたいお知らせです。えー、わっさんの奥さんが、一時退院しました!」

 誰かが、わっさん、立って! と声をかけた。わっさんはへこへこしながら、恥ずかしそうに立ち上がった。いろいろなところから、おめでとうと声が沸き上がる。

「そして最後は――ひなちゃんが結婚しました! そしてなんと妊娠です!」

 おめでとうの言葉より、驚きの声のほうが大きかった。この界隈で有名なビッチが、突然結婚および妊娠を発表したのである。

 そこで僕は奥に隠してあった大きな箱を出してきて、ひなちゃんに差し出した。

「結婚祝いです。どうぞ! ガールズバーに聞きこみに行って、ほしいものをチェックして選んだんだけど、合ってる?」

「合ってます、合ってます! うわ、めっちゃ嬉しんだけど!」

「OKロックンロール!」

 とロックンロール氏が酒をかかげて大きな声で言った。

 僕はひなちゃんにプラズマクラスターの空気清浄機をプレゼントしたのである。ガールズバーに行っていたことをあやしまれていたとあとで聞いて、真面目なイメージがついているのもずいぶん厄介な話だなと思った。

「では皆さん! いろいろな思いがあると思いますので、あとはご歓談ということにしたいと思います!」

 欽さんは日本酒をぐいっと飲んだ。ひととおりの役を終えて安心したのだろう。

 時は二十時。まだまだ欽ちゃんの盛り上がりは続く。そろそろわっさんが歌い出し、ロックンロール氏も歌うだろう。演くんは歌えと言われても暗い曲しかないと言って固辞するだろう。あやめが歌うとしても誰かの歌に合わせて適当にサビを歌うくらいだろうし、亜由美と千影がこの状況で歌ったり弾いたりするようには思えない。彼女たちには可愛い制服姿で花を添えていただけば充分である。実をいうと、僕は制服が大好きなのだ。この一文はあやめの怒りを買いそうな気がするが、正確に状況を伝えるためには止むを得ない。

なお、この小説は、あやめが十六夜を書いたことに影響され、僕が続編を書いてみたものである。僕が書いたことになっている部分は事実の記録で、あやめが書いたことになっている部分は本人の口述をもとに、僕が想像して書いたものである。おおむねうまく書けていると本人の評価は得ている。



――――後日、わたしは千影の母から、一通の手紙を託された。しかるべき時がきたら、千影に渡してくれと。それをこの小説の末に写す。

 僕はこの手紙を破棄することを願っていた。病を克服したとき、破棄することに決まっていたのである。母娘が互いを尊重し、本心で話し合い、いつか和解してくれることを願っていたのである。

 しかし、それはかなわなかった。僕はこの手紙をもって、この小説を完結としたいと思う。彼女の苦しみを除く、偽りなき真実の文章をもって。

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