十九〈セイ〉

「さて、なにが必要?」

 僕は家の近所のスーパーで、買い物カゴをぶら提げて店内を回っていた。

「麻辣火鍋にするからぁ、豆板醤、鷹の爪、食べるラー油――」

 ルミちゃんが必要な食材を列挙していった。

 今夜は同僚のルミちゃんとカスミちゃんと三人で、うちのマンションで火鍋をやることになっているのである。同僚といってもふたりとも年下である。本来、僕の歳ならもっと出世していてもおかしくないのだが、いまの地位と環境がしっくりきているので、出世を拒否しているのである。釣り好きの父が釣りを楽しむために責任の小さな平社員で通したことに影響されているかもしれない。

 食材が揃ったあとは、各々が好きな酒をカゴに入れた。こういうときによくあるように必要以上の酒を買ってしまった。

 スーパーを出てほんの数メートル歩くと、僕のマンションに着く。レジ袋は女性ふたりが持ってくれていたので、ポケットから鍵を取り出しエントランスを開けた。

 ふたりを連れてエレベーターに乗り、八階で降りた。降りてすぐにある玄関を開け、僕は部屋に入った。続いてふたりが入ってくると、フェロモンや香水がないまぜになった女性独特の匂いが部屋にすべり込んできた。

「わぁ! 片付いてますね! うちの部屋見せらんない」

 先に入ってきたルミちゃんが声を上げた。

 カスミちゃんはまだショートブーツのサイドファスナーを下げている途中だった。レジ袋をキッチンに置くどさりという音がした頃、カスミちゃんは三人の靴を揃えているところだった。こういうところに性格が出る。

「セイさんは部屋を提供してくれたから、料理はわたしたちに任せてください!」

 カスミちゃんが言って、女子ふたりできゃっきゃしながら料理をしはじめた。僕は酒を冷蔵庫に入れたり、鍋を出したりカセットコンロを準備したりしていた。

 すぐに終わってしまって時間を持て余したので、ラグに座って一度みた映画を流してなんとなくみていた。そういえば、あやめから借りた映画だった。彼女には不評だったが、なかなか面白いと思っていた。

「あいつ本当に使えないんですよ! どんな世界にもバカっていますよね! まさにアイツがそれ。セイさんみたいに地頭がいい人ばっかりだったらいいのに」

 とルミちゃんがのたまう。

 ふたりとも個別に飲みに行ったことはあるが、この三人で一緒に飲むのははじめてだった。完成した鍋をつつきながらしたのは、やはり仕事の愚痴が主だった。

 あやめのことについては恋愛相談したことがあるので知っていたが、その後どうなったかについてはふたりとも知らなかった。おそらくその話は終わっていて、現在はフリーの男だと認識されていると思われた。

「カスミちゃんの浮いた話って聞かないよね」

 僕の恋愛話に持っていかれそうな雰囲気を察したので、カスミちゃんに話を振った。

「いまはもう貯金するのに精一杯で。恋愛している暇がないです」

「そんなにお金貯めてどうするの? そもそもウチの会社の給料じゃ厳しいでしょ?」

 とルミちゃんが言った。副業についてはなにも知らないのだ。

「確かに厳しいんですけどね――特に目標はないけど、将来のために――」

 カスミちゃんがあいまいに話をかわした。ルミちゃんは質問したにもかかわらず、すでに興味を失っているようであった。

 鍋は空になり、空き缶だらけになった。三人で一旦分担して片付け、ほっと一息ついた。僕は缶チューハイを改めて開け、テレビを公共放送に合わせた。明日は晴れだが冷えるらしかった。

「はぁー、気持ちいい」

 と言いながら、ルミちゃんは勝手にベッドに大の字になった。

 僕はちょっと嫌な顔をした。その顔を見られていた訳ではないが、カスミちゃんは申し訳なさそうに荷物をまとめて、急に立ちあがった。

「すみません、そろそろ終電だから先に帰ります。ルミちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

 と言ってカスミちゃんは帰っていった。

 ルミちゃんはすでに僕のベッドを占領して眠っているようだった。ルミちゃんの家はここから遠いので、ひとりで歩いて帰ってくれとは言えない。家まで送っていくか、タクシーに送り届けてもらうかである。そう考えていると突然、

「ここで寝ます」

 ルミちゃんがくぐもった声を発した。

「起きてたの?」

 僕は意外だという気持ちをそのまま言葉に乗せて言った。

「いま起きました」

 ルミちゃんは向こう側を向いて寝ていたので表情はわからなかった。

「いや構わないけどさ。こっちのソファーベッドで寝るから」

 ルミちゃんは無言だった。

「シャワー浴びたいです」

 ルミちゃんはぶっきらぼうともいえる物言いだった。

「どうぞ。適当に部屋着出すから待ってて」

 と言って僕は部屋着を出して風呂のカゴに入れた。新品の歯ブラシも忘れなかった。そんなところで僕は、

「ていうか、先にシャワー浴びていい?」

 と聞いた。ルミちゃんのシャワーの間に寝てしまいそうだったので、目を覚ますために先に浴びてしまおうと思ったのである。客をほったらかしにして先に寝てしまうわけにもいかない。ルミちゃんは、

「いいよ」

 と急に馴れ馴れしくなった。

 僕がシャワーを浴びて歯をみがいて出てくると、ルミちゃんはさっきと同じ格好でベッドに転がっていた。もう寝てしまったかなと思い声をかけるのを躊躇していると、

「入ってきます」

 と言ってむくりと起き上がり、目の前をサッと通り過ぎて風呂に向かっていった。

 シャワーを浴びているあいだ、とくにやることもないので、ソファーベッドに横になっていた。起きていなければと思いつつも、いつの間にか意識があいまいになっていた。

 僕はなんともいえない気配を感じた。人が近づいてくる気配である。目を開けようと思った瞬間、シーリングライトをさえぎる影のかたまりが覆いかぶさってきた。酒に酔った僕の緩慢な動きでは、そのかたまりを避けることができなかった。ルミちゃんが全力でキスしてきたのである。

「セイさん好き」

 舌が入ってきた。

「ああっ、ちょっと待った、ちょっと、ちょっと落ち着こうかルミちゃん」

 僕はルミちゃんの両肩をつかんで押しのけた。

「彼女いないんですよね? だったらいいじゃないですか! 女をほったらかしのまま寝るなんて信じられない!」

 ルミちゃんは逆上した。

 そのとき、呼び鈴が鳴った。間違いない。間違いがないということは、緊急事態である。どうしたものか。危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せば、その一足が道になる。迷わず行けよ。行けばわかるさ。

 僕は呼び鈴に出て、エントランスを開けた。ルミちゃんは乱れた髪のまま、ソファーベッドに腰掛けて頭を抱えていた。ほどなく部屋の呼び鈴が鳴った。僕は部屋の鍵を開けた。そこには顔を赤くしたあやめが立っていた。僕の顔を見て、異常な違和感を覚えたのだろう。僕の間をすり抜け、部屋に突入してきた。僕はあやめを追いかけるように部屋に戻った。

「この女だれ!? もうすこし粘ればヤレるところだったのに!」

 ルミちゃんは髪をかきあげながら起立した。三人全員が棒立ちになった。

「それはこっちのセリフじゃボケ!」

 悪いあやめが出てしまった。

「なんかめんどくさ。帰るわ」

 ルミちゃんは着てきた服にそそくさと着替え、ドアを勢いよく開けて出ていった。

「こんどちょっかい出したら承知しねえからな!」

 と言ってから、あやめは僕に向き直った。

 しばらくの間、ふたりは見つめあった。経験したことのない空気が流れた。意外にも窮屈な感じではなかった。僕はあやめの奥二重を改めて認識した。

「――やった?」

 あやめが小声で聞いた。

「わたしはやってない。――でも、ごめん。俺に隙があったからだ」

 キスをしたことは隠し通そうと思った。

「口のまわり、口紅ついてるよ」

 僕はあわてて、手で口のまわりをこすった。

「嘘だよーん」

 やられた。僕は思わず笑ってしまった。

 あやめは、

「シャワー浴びてくる!」

 と言って僕の、

「はい」

 という返事を待たず、素早く風呂に入っていった。僕はどうしていようか行動を決めかねたが、残りの酒を飲むのはやめて、ベッドに横になって待つことにした。電気はこうこうと灯ったままであった。

シャワーを済ませたあやめは、泊まりにきた時のために常備してある寝巻きを着て、僕の隣に寝転んだ。

「さて、寝るか」

「やだ」

「ん?」

「それくらい理解しなさいよ」

 僕はしばらくのあいだ考え込んだ。

「――ごめん」

「電気暗くして」

 僕はリモコンで調光した。

「これくらい?」

「明るいってば! 胸ちいさいからやだ。でも暗すぎるのもやだ。セイの顔ちゃんと見たい」

 最後の言葉に面映さを覚え動揺した。僕は電気をいい按配に暗くした。

「最後したのいつ?」

「ひみつ」

「ま、いっか」

「でももうひさしぶりすぎてやりかた忘れちゃった」

 ひさしぶりという言葉を聞いて、喜びに近い安心感を覚えたと同時に、やりかたという言葉の生々しさに震えるような思いがした。

「大丈夫。俺がんばります」

 と言ったものの、どうもこういう雰囲気は苦手である。手を出すまでの流れがわからない。焦らすという行為のバランスもまったくわからない。結果、僕は機能を停止してしまったのである。それではと、あやめのリードによって続きが行われた。何より自宅に避妊具があったのが驚きであった。

「あーっ! めっちゃ気持ちよかったぁ! まだしびれてる感じ」

 あやめが伸びをしながら言った。ご満足いただけたようでなによりである。

「あーあ。やっちゃった」

 僕は思わず、ため息をつくようにそう漏らした。

「なんだそれは」

 と言ってあやめは笑った。

「そんな気持ちにならない? もうこれ以上がないことをしてしまったんだよ? 最大の感情をぶつけたような」

「まあそりゃそうだけど。それ男だからだな。賢者タイムってやつ」

「なんだそれは」

 と言って僕は微笑んだ。

 僕たちはそのまま翌日まで寝た。つぎをすることもなく、からだに触れることもなく。ただ隣で呼吸し、お互いの脈動を意識した。

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