十八〈あやめ〉

 つぎの日の夜、わたしは雑貨屋アイリスを閉めたあと、セイのマンションに来ていた。今日はこれからアイナメを釣りに行くのである。夜釣りだ。昼間釣ることができないサイズのアイナメが、夜なら釣れるらしい。全長30cm~40cm程度のサイズが針に掛かってからの引きは、日中の釣りではなかなか味わえないということだ。

「さあて、そろそろ釣りに出かけますか」 

 とセイが言ったところで、わたしのもとに山崎くんから電話がかかってきた。

 わたしはセイのベッドで本を読んでいるところだった。本はセイが持っていたスタンダールの恋愛論だった。

「あやめぇーっ――彼女が仕事やめちまったよう――もう連絡を取りようがない――この世の終わりだ。源氏名だけしか知らない人がいなくなるということは、永遠に意思疎通をはかれなくなるわけで、僕にとってみれば対象の死に近い。死であればまだ諦めがつくが、どこかで生きていると思い続けるのは苦しい――かといって腐っても男だ。店外デートまで持ち込めなかった俺の力量不足だ。カスミちゃんのほうから連絡を取ってもらうなどという未練がましいことはしない」

 最後に男らしい部分を出してきたが、それでも山崎くんは死にそうな声をしていた。

「うーん、セイとアイナメ釣りに行くんだけど、山崎くんも一緒に行かない? いい気分転換になると思うよ」

「いーよ、ふたりの邪魔になるから」

「なにいまさらそんなこと言ってんの! セイのうちどこだかわかる? 待ってるから、これから来なさい!」

「――わかったよ。あのさ、もうひとり連れて行ってもいい?」

「誰?」

「カスミちゃん」

「はあ、なるほど。ちょっとセイに聞いてみる!」

 セイに事情を説明したら、かまわないが竿が三本しかない、とのことだった。

山崎くんとカスミちゃんがかわりばんこに竿を使うことに決まって、合流して堤防までやってきた。堤防の下にはテトラポッドがひしめき合っていた。

餌のアオイソメが気持ち悪くて仕方がなかったので、セイにつけてもらった。

最初はわたしとセイ、山崎くんの三人で糸をたらした。しばらく何の反応もなく、セイがふとカスミちゃんに質問を投げかけた。

「風俗で働き始めるってのは、どういうきっかけだったり、事情があるんだろうか。言いたくなければ、ノーコメントで」

 わたしはこの質問に、千影ちゃんの姿を重ねた。千影ちゃんの現在の状態に、なんらかの答えが得られるのではないかというセイの期待を感じた。

「家の借金があったり、ホストに入れあげたり、バンドマンに貢いだりって人はいますけど、いまは単純にお金が必要になってはじめる人がほとんどですね。大学とか看護学校とかの学費を稼ぐためにやっている人、奨学金返済のためにやっている人、お昼の給料では毎月の支払いが大変で、普通の仕事より手っ取り早く稼げるからやっている人、お酒が飲めないから水商売が無理ではじめた人や、わたしみたいに貯金が目的で副業としてやっている人、資格を取りたくてやっている人、なかには起業したいという大きな目標を持っている人もいます。 服を買いたいとか、ゲームにお金を使いたいという軽い気持ちでやっている人もいます。女に生まれただけで稼げるんです。かわいければさらによし。それを使わない手はないんですよ。父親に性的虐待を受けていたんだろうとか、レイプされたんだろうとか、聞いてくるお客さんはいるんですけど、そういうのって、だいたいが男性の思い込みなんですよ。男性はロマンチストですから、そういうバックストーリーを作って、女性を神聖な位置に置いておきたがる。女性は本来清いもので、汚れたのは周囲の影響だということにしたい。お客さんの中には、そうやって勝手に哀れんで、すごくやさしくしてくれたり、チップをくれたりする人がいるので、こちらとしては嬉しいんですけどね」

 セイの期待は裏切られた。セイはロマンチスト側の人間だった。あからさまに腑に落ちない顔をしていた。

「特別な環境に置かれていると気づけない人もいるんじゃないかな。たとえば子供の頃に父親から性的虐待を受けていたものの、つらい体験を記憶から切り離すためのいわゆる解離状態になっていて、自分自身はそれに気づけていないというような」

 セイはロマンチスト側の意見を簡単に曲げる気はないようだった。

「もし特別な環境にあると気づけない人がいるとしたら、それはもちろんわたしにも気づけません。友達ならまだしも、仕事仲間ですから」

 カスミちゃんは多少のいらだちを加味してそう言った。

 山崎くんは糸を巻き上げ、カスミちゃんと交代した。カスミちゃんが釣り始めてすぐ、強い引きがあった。

「えっ、えええっ! これどうするんですか!?」

 カスミちゃんはすっかりうろたえていた。セイは自分の持っていた竿を山崎くんに持たせて、カスミちゃんのもとに駆け寄った。

 セイはカスミちゃんの竿に手を添えてバックアップした。カスミちゃんはリールを巻き上げていった。

「おっ! これはでかいぞ!」

 セイが勢いよく言った。

「わあっ! すごいっ!」

しなる竿と魚を前にしてわたしは声を上げた。カスミちゃんは大きなアイナメを吊り上げた。わたしはしっかりと網で受け取った。

 釣りを終え、わたしたちは魚を持って欽ちゃんに向かった。これから魚を捌いてもらおうという腹である。

 欽ちゃんがあるほうの駅出口に出るにはガード下をぐるっと迂回しなければならなかったが、最近になって駅に沿って連絡通路ができたので、そちらを通ることにした。

すると連絡通路の中間あたりに、弾き語りをしている人が見えてきた。

「あれ演くんでしょ?」

 わたしはそう発して、小走りに走って演くんの前に立った。みんなもすこし遅れて前に立った。

演くんはすぐにわたしたちに気づいたようだった。一曲歌い終わって拍手を聞いてから、わたしたちに話しかけてきた。

「皆さんおそろいで」

 と演くんは言った。

わたしはごく自然に、

「亜由美ちゃんは?」

 と聞いた。

「今日は千影ちゃんと遊ぶって言ってました」

 演くんは当然聞かれるだろうと思っていた風であった。わたしはちょっとセイのほうをうかがった。特になんの表情も示していないように見えたが、内心はどうだかわからない。どこに遊びに行ったか、なにをして遊んでいるのか、聞く必要はないので放って置いたら、

「あのふたりは普段なにをして遊んでいるんだろうか」

 やはりセイは気になっていたのであった。

「亜由美ちゃんの家にふたりでいることが多いみたいですね。ゲームなんかやって過ごしているようです。ふたりとも家にいるのが好きなタイプですからね」

 と言った演くんの言葉に、セイは

「ああ、そう」

 と気のない返事をした。

「じゃ、わたしたちはそろそろ」

 と言って、わたしは片手で拝むように手を上げた。

「アイナメが釣れたから、欽さんに捌いてもらうつもりなんだ。演くんも時間があったら、食べにきてほしい」

 さも自分が釣り上げたような言いかただったので、思わず笑ってしまった。

「それは楽しみですね! 歌い終わったらすぐにうかがいます」

 欽ちゃんの近くまでくると、エリカちゃんの車が停まっていることに気づいた。欽ちゃんの引き戸が開いていて、欽ちゃんが表に出て真由子さんと話していた。ビニール袋を提げていたので、なにかを持ち帰るところなのだろう。そばには沙々ちゃんもいた。真由子さんはあの件があって以来、沙々ちゃんをできるかぎり一人にしないようにしていた。さいわい真由子さんは家で仕事をしているので、そうするのには都合がよかった。

「欽ちゃんこんばんは~。真由子さんも沙々ちゃんもどうもっ」

 わたしは引き戸と欽ちゃんの間をするするとすり抜けるようにして店に入った。ほかの三人もそれにならった。

 適当に席に着いて一息ついた。不意にこの四人が集まって遊んできたことを振り返って、人生とは本当に予想のつかない不思議なものだなと考えた。去年だれが予想できただろうか。わたしは夏にセイと偶然出会い、山崎くんは風俗に行ったことをきっかけにカスミちゃんと出会い、たまたまカスミちゃんはセイの同僚だったのである。

 わたしはなぜだか悲しい気がした。嬉しいことなのに、なぜだか悲しいのだ。いや、おそらく怖いのだ。すこしでも成り行きが違っていれば生まれなかった偶然の頼りなさを思うと、やりきれない気持ちになるのだ。いつか壊れてしまいそうで、いつか自分の手の届かないところに行ってしまいそうで、いつかすべてを忘れてしまう日が訪れるような気がして、たまらなく怖いのだ。

「どうしたんすかぁアヤメさん? なんか顔暗いっすよ?」

 エリカちゃんがそう言った。彼女の話しかたはいつも投げやりだが、いつも自然なやさしさに包まれている。

「そ、そう? そういえばさ、エリカちゃんてお酒飲まないよねえ。まあいつも車で来てるからかもしれないけど」

「アタシ酒弱いんすよ! ほろよい一本でほろ酔い、二本で酔っぱらい、三本で泥酔、みたいな」

 と言って乾いた笑い声を上げた。

欽さんが戻ってきて、

「なにか釣れた?」

 とすぐに聞いてきた。

三本竿を持ち、クーラーボックスを提げているのだからそう思うのも当然だった。

「アイナメが釣れました?」

 セイが自慢げに言った。

「あやめ?」

 欽ちゃんがすっとぼけた。

「アイナメです。欽ちゃん捌いて! さしみ!」

 わたしは早く食べたい気持ちを充分に込めて言った。

「がってん承知!」

 刺身が仕上がるまでの間、エリカちゃんを含めわたしたち四人はよもやま話で暇をつぶした。偏見の塊であるエリカちゃんにカスミちゃんの正体がバレると面倒なので、その点だけは注意して話すようにしていた。

「じゃ欽さん仕事行ってくるわー」

 とエリカちゃんが言った。

「今から? 遅いな」

 捌いている手を止めて、欽さんが顔を上げて言った。

「アタシ特に出勤時間決まってないんだよねー」

 ナンバーワンの彼女は重役出勤なのである。

「じゃ、あやめさん、お疲れっす!」

 と言った彼女を、

「お疲れっす! 頑張ってねーっ」

 と送り出した。エリカちゃんは長い髪をなびかせながら、すばやく店を出て行った。

 入れ違いにロックンロール氏が店に入ってきた。なにかにうろたえている様子であった。

「財布がねーなっちったお。どっかおっこってねーかし」

「またぁ? バッグのなかにあるんじゃないの? ちょっと探すからバッグ貸して。あ、ちょっとその前にトイレ」

 居酒屋のトイレに入ると酔いがだいぶ醒める。もやっとリセットされる。和式便所にまたがって、正面にある水色のタイルを見た。タイルを一枚一枚数えるのをやめて、だんだんと視線を上げてゆくと、標語の書かれたカレンダーが目に入った。十二月は、


  すべての存在は

  実体がない空であるから

  生じたり滅したりしない

  汚れもせず清らかにもならない

  増えたり減ったりもしない


 と書かれていた。なにを言っているのかさっぱりわからなかったので、さっさとトイレを済まして戦場に戻った。

「ごめんごめん。はい。貸して」

 夏のときのことを考えて、奥のほうから探し始めた。すぐに見つかってしまった。まったく張り合いがない。

「もおーっ。しっかりしてよ」

「もうあったかえ! あんがとさんよ。じゃ、またくるわ欽ちゃん」

 と言ってロックンロール氏は帰っていった。はしご酒の途中で財布がないことに気づき、早い時間に飲んでいた欽ちゃんに探しにきたらしかった。本当に大切にしたいものは、わかりやすいところに入れておくべきなのだ。わたしは夏に学習した。

「刺身できたよ!」

 テーブルの上に美しい白身がずらりと並んだ。

「おおーっ! 食べよ食べよ!」

 わたしは率先して箸をつけた。釣り上げたカスミちゃんに先に食べさせるなどという余裕はなかった。セイはカスミちゃんが食べやすいように、しっかり場所をゆずっていた。

アイナメをつまみながら、酒を飲みながらワイワイやっていると、控えめな音を鳴らして引き戸が開いた。千影が入ってきたのである。多くの影をまとったような雰囲気で。

「ちょっと約束の時間が変更になったので、待たせていただけませんか」

「いいよ! よかったらその刺身食べて。さっき釣ってきたんだって」

 欽さんが気安く声をかけた。

「ありがとうございます。でも、これから人と食事なので、遠慮しておきます」

 わたしは千影ちゃんの食事量を知っていたので、おなかの心配ではないなと考えた。にんにくをつけるわけでもないので、とそこまで考えたが、自然と思考はふたたびアイナメに奪われた。

 食欲を満たしたら、ふと夏の記憶がよみがえってきた。十六夜の夜に釣りに行き、セイに告白した記憶だ。自分から抱きつくなどという、いま考えるとはずかしくて仕方ない行為の記憶だ。

 恋愛関係において、自分に素直になることは滅多にない。よほど考えあぐねて、素直になる以外の最適な選択肢がないときに、はじめて素直になることができる。もしつぎに素直になる場面があるとしたら、セイを奪われそうになったときだろう。それはいつだろうか? いつか訪れるのだろうか? わたしにはセイを引き止めるだけの魅力があるのだろうか?

 千影は半時間ほどいて、店を出ていった。そのとき、セイのほうをうかがうと、こわばった顔をしていた。片思いしている女の子に「好きな人ができたんだ」と告げられたときの表情に似ていた。セイは箸を止めて、ホッピーセットを注文した。出てきたセットのホッピーを少なめにして、いつもより濃い状態で飲んだように見えた。

 千影ちゃんの返済期限は、まだまだ残っている。しかし早く返済期限が来てくれとは、とても願えない話なのである。

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