十七〈セイ〉

「今日ね、沙々ちゃんが女の子と手をつないで歩いてたの。夏に好きな人はいるのって聞いたら、いるけど女の子って言ってたんだよね。本当だったんだなと思って」

 あやめは女性らしい、しとやかな声で言った。

「好きにもいろいろ種類があるからな」

 僕は千影のことを思い出していた。彼女のことは人として好きなだけだ。誰にどう言われようと恋愛ではない。しかし好きという言葉に敏感になっている自分に驚く。

「あたし、セイのこと好きなのかな?」

 その言葉が意味するところを僕は判断しかねた。

「好きじゃなかったら、なんだ?」

「腐れ縁の、セフレ」

 あやめは微笑んだ。

「まだセックスしてないだろうが!」

 僕は音勢だけ強くした声で言った。

「ふふ。あたしもう誰かとやっちゃってるかもよ?」

 首を振りながら、おどけた調子で言った。

「それなら、それまでだ」

 太い声でいかめしい言い方をした。

「わたしから離れる?」

 あやめは飲んでいたジンリッキーのグラスを通して僕を見ながら言った。

「離れる。許せる許せない以前に、人としての信用がなくなったらおしまいだ」

 僕は罰を与えるような厳しい声で言った。

「千影ちゃんとやってない?」

 あやめは障子の破れ目から僕の顔を覗き込むようにして言った。

「誓ってやってない」

 はっきりさせておかなければならないという強い思いで言い切った。

「セイって面食いだから、千影ちゃんなんかまさにタイプでしょう?」

 あやめはちょっとからかうような感じだった。

「たしかに彼女は美しい。タイプかもしれない」

 正直に言った。笑顔も素敵だ、とつけ加えようとしたがやめておいた。

「セイはこういうとき無闇に正直だから腹が立つ」

 思いのほか立腹しているようだった。やはりつけ加えないでよかった。

「ごめん」

「そこがいいとこなんだがな。こっちはやきもきして仕方がないぜ」

 あやめは面映さをごまかすように男言葉で言った。

「僕はあやめから見て、不安定か」

 自然な調子をよそおって言った。

「すくなくとも千影ちゃんのことに関しては。名前を出すと、明らかに嫌な顔をする」

 言葉につられたように、あやめも嫌な顔をした。

「嫌なわけじゃないんだ。あまりにも困難な問題で苦しくなってしまうんだ」

 否定というより自己弁護をするように言った。

「結局どうしたいの?」

「僕は、千影ちゃんが抱えている問題が解決されるように手助けしたい。彼女は母の無事を祈りながら、母の死を願っている。とても残酷で悲しいことだよ。女を売ることで母に抵抗するという思いから、どうにか開放したいと思っている。母が死ねば彼女は女を売ることをやめるだろう。本来、千影にとって不本意な行為だからだ。原因が取り除かれてしまえば、漫然と続けるとは思えない。おそらく彼女と母親の関係には数多くのすれ違いがある。そのすれ違いをひとつひとつ上げていくのは難しいけれど、間違いなく根底にはすれ違いがある。千影ちゃんが言うように、娘を圧力でコントロールするだけの冷酷な人間であるはずがない。しかし母親が生きているかぎり、大学に行っても成人になっても、千影は無言の圧力で母に動かされていると思い続けるだろう。彼女と母にとっていちばん必要なのは話し合いだが、お互いが話し合いを拒否している。はっきりと言葉にしているわけではないけれど――――真実をはっきりさせるのが怖いからだ。いままでの長い人生、千影ちゃんが生まれてからの十七年間を、すれ違いのまま生きてきてしまったからだ。そう簡単に〔ああ、すれ違いでしたか〕とはとても済ませられない。そんな状態のふたりに、僕はいったい何ができるのかと思うだろう。それは、母の死を願うというとらわれから彼女を解放するすべを見つけさせることだ。残念ながら、その方法はまだ見つかっていない。いまの僕にできるのは、彼女の話を聞くことと、積極的にアドバイスをすることだ。彼女は自分自身で進む道をきめることに疲れている。一時、僕に対してからだの関係を求めているのではと思ったことがある。女を売っている自分の行為を上書きするような意味でだ。汚れた――僕はそう思っていないが――からだを浄化するような意味でだ。僕に浄化するちからがあるという意味じゃない。金銭の絡んでいない、不本意ではないセックスをすることが、心の浄化につながるという意味でだ。しかしもちろん根本的解決にはならない。逆に不本意な行為を助長しかねない。一時的に浄化されたという安心感が得られるため、女を売ることを病的に繰り返すきっかけになりかねない。彼女は利口だ。利口だからこそ、割り切って行為を行っていられるに違いない。淫乱な馬鹿より、なまじ性質が悪い。もしかしたら善悪の判断を超えてやっているのかもしれない。実際、本人は――少しくらい悪いこと――と言っていた。自分自身では悪いことをしている意識はないが、周囲から見れば悪いことだから〈少し悪い〉んだと考えているのかもしれない。対価をもらっているので定言的ではないが、むしろ善であると思って行為に及んでいる可能性だってある。おじさんを救ってやっているという感覚だ。もし本当に彼女にとって善でありながら、自分を救うすべであるなら、そこから連れ出すのはきわめて難しい話だと思わざるを得ない。もう一度考え直さなくちゃいけない。僕は千影ちゃんと、まだまだ話さなくちゃいけない。聞き手に回ってばかりいたが、いくつかの疑問をぶつけてみなければいけない。彼女には時間がない。いや、彼女の母には時間がない。できることなら、母が生きているうちに、すべての問題を解決したい。でも正直、僕にはそのちからがない。千影のように、利口で論理的に考えられる男じゃない。あまり好きではない言葉だが、論破するようなことが必要なのかもしれない。それができたら、母娘は救われるのかもしれない――正直、一時は千影ちゃんの魅力に惑わされ、自分の気持ちを恋愛感情に近い何かと勘違いした。性的な対象として見てしまった。ふたりで会っている時間を僕は楽しんだ。これは言い訳の仕様がない。でもいまは違う。僕はもう彼女を客観的に見ることができるようになった。好きとか嫌いとかを超えて、ひとりの大人として取り組むべき問題になったんだ」

 あやめはなにも言わなかった。話を聞いているのかどうかさえわからなかった。そう思っていたら、

「考えすぎだよセイ。きっとそんなに難しい話じゃないよ。セイの返済期限が過ぎる頃には解決してるよきっと。セイはいつも思い込みが激しいから大変だなあ。文庫本にして二ページ以上はしゃべったんじゃないの? ――あのさ、思ったんだけど、単純にそういう行為が好きって可能性はないの? やってるうちに好きになっちゃったとかさ」

 とあやめはつぶやくように言った。

「――それは――考えたくない。そんなことがあってたまるか」

 希望のない可能性に打ちのめされたと同時に、そう考えるのがもっとも単純で、わかりやすい結論なのだろうと思った。でも僕はやはり、そう考えたくはなかった。きっかけは母への抵抗だったにせよ、いまはおじさん相手のバイトが好きだからやっています、などという言葉は聞きたくなかった。僕を破壊するのに充分な言葉であった。

あやめの部屋で彼女が作った鶏ささみのチーズ焼きを夕食に食べていた。テレビには適当なAVが流れていた。最近の菖蒲家ではよくある光景だった。

「プランターのミントでモヒート作ってみたんだけど、飲んでみない? いらなきゃあたしが飲む」

 とグラスに入ったそれをテーブルに乗せた。

 僕は口をつけて、

「おっ、うまい。やっぱり生ミントはいいね」

 と満足げに言った。

「でしょー! セイが味がわかる人でよかったわ」

 最近のあやめを見ていると、飲みかたがやさしくなったと思う。二日酔いになるまで家で深酒をすることはなくなったし、欽ちゃんで飲んでも歩けなくなるほど酔うこともなくなった。僕が思うに、飲み方が改善した理由は、やはり雑貨店を任されたことにあると思う。生活を支える仕事についたことで精神が安定し、自暴自棄になったり、明日をごまかしたりせずに、毎日を迎えられるようになったことが大きいと思う。いわゆる自己肯定感が高まったのではと思われる。しかし、本人はまったく自分の変化に気づいていないし、気づく気色もないようだ。先日「家でひとりで飲む酒がおいしくなくなった。誰かが一緒にいて、楽しく飲む酒じゃないと入っていかない」と不思議そうにしていた。やっと本当の意味でおいしい酒を飲めるようになったのだろう。あやめは酒の影響で血液の数値がよくないので、無茶な飲み方をしなくなったのは嬉しい。

「そろそろさ、僕の家に行って明日の釣りの準備しようか」

「支度するから待ってて」

 あやめはジャージに着替えながら、

「デザート食べたくなっちゃった」

 と食欲をあらわにした。

「太ってもよければいいんじゃない」

 あやめはいやらしい微笑みを浮かべた。

僕たちは歩きなれた道を並んで歩き、しばらくして行きつけのファミレスに入った。入ってすぐ、僕は知っている顔を発見した。

「ボックス席に座ってるの、山崎くんじゃないか?」

 僕はあやめの肩をとんとんと叩いて注目をうながした。

「山崎くんじゃん! こちらは?」

 とあやめは言って、山崎くんの連れに視線を動かした。

「こんばんは。セイさんの同僚のカスミです」

 カスミちゃんが、ややかしこまった態度で言った。

「どうも、セイのつき人のあやめです」

 あやめがややおどけて答えた。カスミちゃんの緊張を解こうとしていたのだろう。

「それにしても、山崎くんとカスミちゃんがつながってるとは思わなかったな」

 セイが心底意外だという顔をして言った。山崎くんはあやめの元同僚だし、カスミちゃんはいまのセイの同僚である。

「カスミちゃん、本当のこと言っていい――?」

 山崎くんの言葉は歯切れが悪かった。

「いいですよ」

 カスミちゃんは気まずさを目一杯かかえたような顔をしていた。

「僕が追いかけてる風俗嬢がいるでしょう? その相談に乗ってもらっているのが彼女なんです」

「ん? 相談に乗ってもらってるの、そのお店の風俗嬢じゃなかったっけ?」

 あやめが首をかしげて腑に落ちない顔をした。

「そうです、つまりそういうことです」

 山崎くんがちからを入れて言い切った。

「どゆこと?」

 あやめは、まったく見当がついていない。

「カスミちゃんが風俗嬢?」

 ありえない話でもないと思った。カスミちゃんは色白で色気がある。

「セイさん、黙っててごめんなさい! 前に副業やってるって言いましたけど、それ風俗なんです」

 僕はその言葉に答えずに、

「よかったら、一旦座って話さない?」

 と言って、僕は山崎くんの目を見た。

「ぜひ。いずれふたりに話さなければと思ってましたから」

 山崎くんとカスミちゃんは奥につめ、僕とあやめはボックス席に腰をおろした。

 僕たちは、現在の進展具合を山崎くんに聞いた。山崎くんは一気にこう話した。

「普通に客として行っているだけでは、間違いなくほかの客に埋もれてしまいますし、回数を重ねるだけではただお金が出るばかりですから、ちょっと変則的なプレゼントをあげることで、印象に残るように頑張っています。まずは、ほかの人もあげてそうなものをあげて、つぎに絶対いらなそうなものをあげて、そのあとに安価だけどかわいい小物をプレゼントらしくラッピングしてあげたり、会話のなかに出てくる彼女の好きなものをチェックして、さりげなくプレゼントしたりしてます。プレゼントだけじゃなくて、話題づくりのために、彼女おすすめの本を買って読んで、つぎに行ったときに感想を言い合ってみたり。同じ場面で同じような感想を抱いているのがわかると、会話が盛り上がるし、近くなれた気がするんです」

「なるほどねえ。でもなんかこう、直球勝負はできないもんかね」

 あやめが面倒くさそうな顔をする。

「俺が直球勝負したところで、軽くあしらわれるのが落ちだよ。策士策におぼれる覚悟で、考えて考えて攻めていくしかないんだよ」

「そんなもんかねえ」

 あやめは納得できない様子で口を歪ませた。

「ちょっと嬉しかったことがあるんです。普通は部屋を出るとき、特に何もなくサッと出ちゃうんですけど、先日行ったときは、部屋を出る前にふと僕のほうを振り返って、ぎゅって言いながら抱きしめてくれたんです。もうその仕草がかわいくて、そのときに抱きしめた細いからだがいとおしくて、頭から離れないんです」

「あーっ、完全にやられてるな。キミは脳をつかまれたのだよ」

 あやめは片手で頭をつかむ仕草をした。

「カスミちゃん的にはさ、どう考えているの?」

 僕は仕事のときと変わらない落ち着いた態度でカスミちゃんに質問した。

「その子、なかなか多くを語らない人で、待機時間に家から持ってきたサツマイモを食べてるんですよ。ちょっと変わった子だから、山崎さんみたいに変わった口説き方をされると心に響くかもしれません」

 とカスミちゃんは言った。

「でもさ、その作戦っていつまで続けるの? ただじゃないんだし」

 あやめがもっともなことを言った。

「そこのところは考えてある――定期預金を解約したり、古い通帳から金を引き出したりして、八十万を集めた。それを全部風俗につぎ込む」

 僕はぎょっとした。

「よし。そこまで腹が決まってんなら、もう突っ走って金使い切るまでいくしかないね。いさぎよすぎて山崎くんのこと尊敬するわ」

 あやめが山崎くんを励ますように声を太くして言った。

「さすがにそれはやめたほうがいいと言ったんですけど――」

 カスミちゃんは山崎くんを止められないことに自責の念を感じてか、申し訳なさそうにしていた。

「大丈夫ですよ。大丈夫。絶対八十万使い切る前に飽きるから」

 あやめは楽観視していた。

「そうか? 僕は飽きない気がするんだが――」

 僕は不安視していた。

 カスミちゃんはこれから風俗の仕事だと言って、先に帰っていった。僕たちもそれからすぐ山崎くんのおごりで店を出た。あやめはしっかりデザートを食べていた。すべてを白状した山崎くんはすっきりとした顔をして家に帰っていった。

「あれ? 花火じゃない?」

 あやめは店を出たところで立ち止まって、荒川の空を見上げながら言った。

「冬花火だな。今年からはじまったんだ」

「ちょっと行ってみようよ」

 あやめがコートの袖を引っ張った。

「よく見えるからとはいえ、今から行くのはちょっと大変だな。予定通りうちに行こう。うちの屋上からなら、遠いけどよく見えるはずだ」

 僕が家のほうに歩き出すと、あやめが手を握ってきた。あまりにも意外な行動だったので、いたずらでもしようとしているのではないかと訝しんだ。手を握って歩くことなど出会ってから一度もなかった。僕の知らないところで、なにか心境の変化があったのか。

 屋上に出ると、ちょうどスターマインが打ちあがったところだった。大小色とりどりの花火が幾重にも重なって輝き、ふたりの頬を染めた。大きな音があたりを包み、振動がからだを揺らした。

「わぁ。きれいだね」

「夏祭りには行ったが、花火大会には行けなかったからな。最後まで楽しむか」

「うん」

 と言ってあやめが見せた笑顔は、千影と比べものにならないくらい素朴だったが、やさしく僕の胸を打った。僕はやっぱりあやめのことが好きだ。心から会いたくて、話したくて、そばにいたいのは、この人しかいない。

僕の部屋に入り、明日の準備にかかった。部屋に入ったあやめは、

「セイの部屋のにおいがするー」

 と言って、嬉しそうにしていた。違う女のにおいをチェックしていたに違いない。

「アイナメ釣りってなに使うのー? とりあえず竿三本でしょー」

「うん。でもちょっと仕掛けやらなきゃいけないから、あとは僕がやるよ」

「えー。なんか手伝いたい」

「じゃ、そこに入ってるタモ網とクーラーボックス出しといて。あと、冷凍庫を整理して、明日すぐに保冷剤が出せるように」

「はあい」

 あやめは無駄にドタドタしていた。それをちょっととがめたら、ラグに女座りしてふてくされていた。

しまいには僕のベッドに転がって、DVDをみはじめていた。今度はDVDを流したまま、ボイルエビのように丸まっていた。この子供みたいな動きや扱いづらさは、あやめの短所であり長所である。

「よし! 準備完了!」

「おっつかれーい!」

 あやめはベッドに横になったままガッツポーズをした。今度はかけ蒲団を巻き込んで、ごろんと一回転した。スマキの死体のようである。

「今日帰る? 泊まる?」

「うーん。めんどくさいけど帰る。朝ここから店に出るには着替えがないし、あしたの朝、家に寄って着替えて身支度して出る気力がない」

「なるほど。それもそうだな。僕も明日仕事だし、なんかいろいろあったし、お互い家でゆっくり寝るか」

「うん、そうしよう」

 むくっとベッドから起き上がり、あやめは簡単に乱れた髪を直した。着ている服がジャージなので女ぶりはたいして上がらない。

「送って行こうか?」

「まだ人通りがあるから余裕だよ」

 と言ってあやめは玄関に立った。そこで僕に瞬間的にキスをして、

「おやすみ」

 と言った。

あっけに取られているうちに、あやめはエレベーターで降りていった。

今日は手をつないだし、キスもしたし、残るはひとつくらいしかない。引き止めてしかるべきだったのではないか、と考えた。

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