十六〈あやめ〉

 今日は木曜日なので雑貨屋アイリスは定休日である。メンバーの都合で木曜会も休みだった。暖かく穏やかな晴天であった。

 最近、駅前のロータリーから一本道を入ったところに、一軒の焼肉屋ができた。ひとり焼肉の専門店である。わたしはそこに焼肉を食べにきた。

 店員に案内されて席に着くと、斜め向かいの入口付近には先客がいた。やたら美人の女子高校生だった。牛ホルモンを無闇に食べている。わたしはバラカルビ&牛タンセットであった。

「これ焼けた? まだだな。あ、これ焼けたわ」

 わたしは独り言が多いほうである。

大きな口を開けてカルビとライスを頬張った。これはうまい。常連になってしまいそうだ。

 そのとき、入口の自動ドアが開き、テレビプロデューサー風の男が入ってきた。入ってくるなり、美人の高校生に絡み始めた。

「やっとつかまえたよ佐々木ちゃーん。君、歌もうまいんだから番組出てよ? 絶対勝ち抜けるし、右頬の傷で人気出るの間違いないよ。卒業まであと何ヶ月もないんだから、高校生ってブランドいかせるのも今のうちだよー?」

 男は独特のねちっこい口調でそう言った。

「わたしはやる気がありませんし、お願いするにしても未成年ですから保護者の許可を取ってください」

 と彼女は手を止めて、いかにも嫌そうな顔をして言った。

「それ取れないから直接こうやってお願いしに来てるんじゃないのー。お母さんとお父さんに話しつけてよ。怒ってる顔もかわいいね」

 わたしは困っているのを見かねて、

「あんたさぁ。彼女嫌がってんじゃん。それに飯の途中だし。ちょっと失礼なんじゃないの?」

 と言ってしまった。男から反撃があるかと身構えていたが、男は舌打ちをして、

「ここに連絡、待ってるから」

 と名刺を彼女の座っているテーブルに置いて店を出て行った。彼女はわたしに目礼して、食事に戻った。

 ずいぶん腹いっぱいになったので、わたしは会計をして店を出た。彼女はまだもぐもぐやっていたので、ずいぶん食う人だなと思っていた。

 特にどこに行こうというあてもなかったので、駅前のショッピングセンターをぶらぶらしようと思っていた。すると、

「すみませーん! ちょっと待ってください!」

 と声が聞こえたので立ち止まって振り返った。さっきの高校生が走ってきた。

「ちょっとどこかお店入りませんか? あ、そこ」

 と言ってわたしの袖を引っ張り、

「ちょ、ちょ、はいはい」

 近くのカフェに押し込んだ。

 ふたりで対面して着席し、人心地がついた。

「さっきはありがとうございました。佐々木と申します」

 黒髪をさらっと揺らして、彼女はお辞儀をした。そのときはじめて、彼女の右頬にある刀傷に気づいた。気になって注目してしまいそうになるが、意識的に抑えた。

「いえいえ、そんなそんな。菖蒲と申します。なんか、めんどくさそうだったね」

 店員を呼んで、ふたりともホットの紅茶を注文した。

「そうなんです。しつこくて困っちゃって。昔ちょっとかかわったテレビ局のプロデューサーなんですよ」

 と言っても困っている風な顔は見せなかった。積極的に表情を作るタイプではないようだった。

「見たまんまだねえ」

 肩にカーディガンをかけていれば完璧だと思った。

「素人がカラオケで勝ち抜いていく番組に出ろってうるさくて。まったく興味ないんですよね」

「あー、見たことあるわその番組」

「そうですそれです」

 かわいいからね、と言おうとしたが、顔のことに関して触れるべきではないと思って言葉を飲んだ。代わりに、

「頭いいんだね。その制服」

 と言ったとき、ふたりのもとに紅茶が届いた。

「遊ばないで勉強ばっかりしてました」

 彼女の言葉にはいやらしさがない。美人だが嫉妬されるタイプではないだろう。

「すごいなあ。尊敬する」

 わたしは勉強しないで遊んでばっかりいました。

「菖蒲さんみたいに他人のために行動できる人をわたしは尊敬します」

 わたしは単純なので単純に喜んだ。

「あやめでいいよ、名前」

「わかりました。あやめさんのお住まいはこの近くですか」

彼女はなにか確信めいたものを感じているようだった。

「近くだよ。駅の反対側だけど。高校生に居酒屋言ってもわかんないよね――あっ、電気屋さんの近く。チェーン店とかじゃなくて、個人店」

「セイには手を出すな――」

「えっ?」

 一瞬で全身の汗が冷えた。

「ワット電気店、欽ちゃんの近く」

「君は誰だ!?」

 わたしはひどく狼狽していた。

「千影です。ワット電気店。わっさんの娘。佐々木千影です」

 にっこりとして千影は軽く頭を下げた。

「うわ! びっくりした! わっさんの面影が全然なかったから気づかなかったよ! はじめまして!」

 驚きのあまり、うしろに無様にひっくり返りそうになった。

「はじめまして。その節は無礼なハガキを書いてしまい申し訳ありませんでした」

「いやいや、そんなこたあもういいんだよ。まさかこんな偶然があるとはねえ」

 出会いの不思議をしみじみと感じて、うなるように言った

「セイさんからは手を引いたんですか?」

 ちょっと千影の顔色が変わった気がした。

「いや、その、なんていうか、手は引いていない」

「つき合ってるんですか?」

 あのハガキの件があるから、やはり気になるのだろうと思った。

「向こうがどう思っているかは知らない」

 自分がどう思っているかは意図的に避けた。

「そうですか」

 しばし沈黙が流れた。千影がなにを考えているのかまったく見当がつかなかった。

「あやめさん、河川敷行きません? 荒川河川敷」

 千影はころころと転がるように言った。

「いいけど、何しに?」

 まったく想定していなかった展開になった。

「ニュートリノを浴びながら、水切り」

 石を投げる動作をしながら言った。ニュートリノはなんだかわからない。

 それからけっこうな距離を歩いて、わたしたちは荒川の河川敷にたどり着いた。もう夕暮れは近かった。

 適当な石を探して、ふたりで水切りをはじめた。水面に向かって石を投げて跳ねさせる遊びである。

「なんかさあ、馬鹿みたいでいいよね」

石を投げながらわたしは言った。

何回か試したが、四回が限界だった。

「すごく大きい石でも二、三回は跳ねるんですよ」

「まじで! やってみたい!」

 ふたりで漬物石ほどの石を土手からほじくり出し、ちからを合わせて川にぶん投げた。すると、どぼんと大きな音を立てながら、二回跳ねて沈んでいった。わたしたちは歓喜の声を上げた。

「馬鹿みたいでいいですね」

 千影は心から楽しんでいるようだった。

 それから何投かして、ふたりで土手に腰掛けて夕暮れ色に染まる川を見ていた。

「いい色だねー」

 わたしはしみじみと言った。

「あやめさん」

 と千影が呼びかけてきたとき、空を鳥が翔けた。

「素粒子が偏在しているだけなのに、なぜそれを誰かと認識したり、好きになったりするんですかね」

 と千影が言った。

「難しいことはわかんない。千影ちゃんだって、本当は難しいこと抜きに、好きになったり、嫌いになったりするんでしょ? そういうものから逃げたり、そういうふうにさめた目で見て、自分が傷つかないようにするのが必要な場面はあると思うけど。――ごめん。全然答えになってない」

 そのとき、強い風が土手の芝生を掃いた。

「あやめさん、セイさん借りていいですか?」

「は?」

 言葉の意味をまったく理解できなかった。同時に嫌な予感がした。

「わたし、セイさんのことが好きです」

 予感はすぐに的中した。

「宣戦布告?」

 自然と言葉に棘が生える。

「奪うつもりはないです。お借りします」

 千影は淡々としている。

「意味がわからない」

 わたしは馬鹿にしたような言いかたをした。

「頼れる人がほしいんです。いまは――」

 原因は母のことだろうと思った。そのことで苦しんでいるなか、都合のよい時期にあらわれた頼りがいがありそうなセイを、恋愛対象として勘違いしたのではと思った。

「期限はいつまで?」

 言ったあとで、無遠慮な質問だったなと悔やんだ。

「それはわかりません。でも、そう遠い未来ではないと思います。おそらく半年以内に」

 状態は思ったより深刻だった。

「延滞したら、セイから手を引けってハガキ出すから」

「はい。ありがとうございます。じつはもう、借り始めてます」

「あーあ。そんなことだろうと思ったよ。なんか最近様子おかしかったんだよね。あのさ、セイはさ、男らしくて頼りがいがありそうに見えるけど、全然そんなことないから。思い込みが激しいし、無駄にセンチメンタルだし。――やっぱ心配になってきたな。いまさら駄目だと言えないし――まあ、あとは本人の問題か。ただ、ひとつだけ言っておきたい」

 ここで千影の目をみつめて、

「セックスしたら殺す」

 と言った。

「はい。大丈夫です」

「モテる彼氏を持つってのも大変だよ!」

「あれ? 彼氏っていいました?」

「あっ! まあどっちだっていいやー!」

 わたしたちは土手をめちゃくちゃに駆け回った。青春の一ページのようだった。

 それから、千影のお母さんであり、わっさんの奥さんのお見舞いに、病院を訪れることにした。病院は大規模な総合病院だった。

 大きな回転扉を抜けて受付を通り、エレベーターに乗り長い連絡通路を渡って病室の前に出た。病室は個室で、まだ新しいにおいがしていた。部屋にはわっさんがいた。

「おお、あやめちゃんじゃないか。来てくれたのか。それにしてもなんで千影と一緒に」

 わっさんは驚いてるんだか喜んでいるんだか判然としない顔をした。流れが複雑なので、つぎに欽ちゃんで会ったときに話そうと思った。

「ちょっといろいろあったんで。奥さん、お加減はいかがですか?」

奥さんは目を閉じていたので、小声で聞いた。すると、眠たそうに目を開けて、わたしのほうを見た。

「すみません、起こしてしまって」

「大丈夫。そろそろ夕食だからね。起きなくちゃいけなかったから。ほら、欽ちゃんでよく一緒に飲んでるあやめちゃんが来てくれたよ」

 わっさんが奥さんにそう声をかけた。

「あら、そうでしたか。いつもお父さんの音痴な歌を聴いてくれてるのね」

 奥さんはやさしく笑った。すこし釣り目のクールな感じが千影に似ている。

「いつも楽しく聴かせていただいています。欽ちゃんの話によると、最近うまくなったそうです」

 わたしはにこやかに、抑えた声で言った。

「ちょっとお茶買ってくるから、座って待ってて」

 わっさんがそう言って、丸椅子を差し出した。

 しばらくするとペットボトルのお茶を二本買ってきて、わたしと千影に手渡した。千影はずっと黙ったままであった。身内というのはこんなものなのかもしれない。

 そのとき、わたしは出窓に白いツバキの花が活けられていることに気がついた。とんでもないものをくれていった奴もあるもんだなと思った。ツバキは花が散る時に花全体が枝から落ちる。それがあたかも人の首が落ちるようだとして、見舞いの花としてはタブーなのだ。非常識の権化のようなわたしだが、高校生の頃に花屋でバイトをしていたので、花についてはそれなりに詳しかった。

「手術は無事に終わって、もう食事もとれるようになったんだ。流動食だけどね」

 わっさんがわたしを見ながら言った。いつもより頼りがいがあるように見えた。

 千影は半年以内と言っていた。しかし、とてもそうは見えなかった。何かの間違いに違いない。しかし、それをいま確認するわけにはとてもいかない。

 そのとき、救急車の音が近づいてきて、窓の下で止んだ。それをきっかけに、

「では、そろそろ失礼いたします」

 と言って、わっさんと千影に頭を下げた。

 その帰り、家に帰りたくもなければ、どこに行きたくもなかった。どうしようかと考えた結果、また河川敷に戻った。

 空気が引き締まったように冷えていた。マフラーに深く首を沈め、ダッフルコートのポケットに両手をしまった。空は雲ひとつなく澄み渡って、月が光っていた。

 セイを借りる。その面倒な響きが、ずっと頭に残っていた。対抗してわたしも貸してやろうか。誰か借りてくれる者はいないだろうか。思いつくかぎりでは誰もいない。わたしはまたいつもの悪い癖で、世界からひとりだけ置いていかれたような、いたたまれない気持ちになった。ただ、夏のように、しゃくりあげて泣くことも、憎らしくなるほど自分が気の毒になることもなかった。

 そのとき、自分の心臓の音がどんどん大きくなっていることに気づいた。顔が熱い。からだがしびれる。耳のなかの血管が大きく脈を打っているようだ。その脈動はどんどん大きくなっていって、激しい動悸が全身を覆いつくした。冷や汗が出る。胸が苦しい。息ができない。からだが震える。全身を折り曲げるように、その場にうずくまった。まわりには誰もいない。気が遠くなる。これは夢? わたし死ぬの? 誰か助けて――――


 ――――顔にざらざらと触れるものがあった。なめられてる? 薄目を開けると、わたしは土手に倒れていた。その土手に、薄茶色い塊があった。その塊は、にゃーと鳴いた。

「トラ! どうしたのこんなところで!? いや、どうしたのはあたしか!」

 ひとりで突っ込んだ。

わたしはパニック発作を起こして倒れたに違いない。症状が友人から聞いたものに似ていた。それにしてもなぜ? ストレス――そんなに千影ちゃんとセイの間のことが心配なのか? やはり見かけによらずわたしは繊細なんだな。と納得してる場合じゃない。とりあえず、明日会おう。セイに会う。会って千影ちゃんのことについて話す。そうすればきっと大丈夫。駄目だったら精神科でもなんでも行ってやる。

「トラ! 行くよ! ちゃんとついてきてね」

 わたしはトラと一緒に歩き出した。トラはちゃんと家までついてきて、ごはんをおいしそうに食べた。真由子さんたちは寝ていたので、明日トラが帰ってきたことを伝えることにした。喜ぶふたりの姿を想像すると、自然と嬉しさがこみ上げてきて、思わず笑みがこぼれた。猫は無事に帰ってきた。セイもきっと無事に帰ってくるさ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る