十五〈セイ〉

 金曜日の欽ちゃんである。今日はひさしぶりに店にきたエリカちゃんとロックンロール氏が手前の同じテーブルに、カウンターには僕と山崎くんとあやめ、スーツを着たどこかの会社の男五人グループが奥のテーブル席に座っていた。

「ホストに狂ってるか、バンドマンに金使ってるかそんな感じだよね。店じゃまじめな顔してても、遊んでるときはパッパラパーな感じだかんね。風俗嬢とまじめにつき合おうなんて無理無理。絶対彼氏いるし。クソみたいな生活を、たまに会う彼氏で癒して仕事してんだよ。まあキャバ嬢もたいして変わんないけどね」

 と現役キャバ嬢のエリカちゃんが、山崎くんお気に入りの風俗嬢について語った。

「なに? さっきから話し聞かせてもらってたけど、このおにーさん風俗嬢に入れあげてんの」

「入れあげてるって言葉が適切かわかんないですけど、二週間に一回のペースで通ってはいますね」

 山崎くんが面倒くさそうに答えた。

「それ完全に入れあげてんじゃん。ご苦労様だね」

 ご苦労様という言葉に山崎くんは少しいらだちを覚えたようだった。

「風俗つったっていろいろあるけどさあ、なに? ソープ?」

「簡単に言うとピンサロです」

「ピンサロかぁー。オレも若い頃行ったなー。ハマりはしなかったけど。女にもう来ないでって言われたことはあるぜ。つまりプライベートで会いたいから、わざわざ店にきて金を使ってくれるなという話よ。どうせやるなら、それくらいにならなきゃな」

「まあ、そうですね」

 と言う山崎くんの言葉を聞かないうちに、その男はほかの四人と別の話をしはじめていた。取り残された形になった山崎くんはむっとしていた。

「ロックンロール氏はさあ、また面白いエピソードないの? 若い頃の」

「あるよー。へっへっへっ」

「あたし十六夜って小説書いたじゃない? それ読んだ人から、またロックンロール氏の面白い話が読みたいって言われてるんだよね。ていうか、ロックンロール氏の話で成り立ってるようなもんだよ十六夜は」

「そんな風に言われっと話しづれえな」

「OKロックンロール」

 あやめがロックンロール氏の真似をして言った。

 ――修学旅行で京都に行った。四階が男子、三階が女子の部屋割りになった。男も女も部屋で宴会をやっていた。三階の女子のところに行って飲もうという話しになった。しかし廊下で先生が見回りをしているので階段では行けない。氏がベランダにぶら下がって、下の階の女子が受けることになった。しかし酒を飲んでいたので、ちからが入らずベランダから落下した。一階の駐車場の屋根のど真ん中をぶちぬいて、さらにその下のクラウンの屋根に落ちて、跳ね返って地面にひっくり返った。管理人のおやじが出てきて、シンナーを吸っているのかと思ったと言った。いやいやシンナーなんかやっていないと言ったら、とりあえず寒いからストーブに当たんなと事務室みたいなところに連れていかれ、世間話をはじめた。そんなことをしていたら先生が飛んで来て、往復ビンタを食らった。救急車も警察も来てしまって大騒ぎになった。行事に参加してはいけないという話になって、教頭先生と一緒に新幹線に乗って東京駅に強制送還。迷惑をかけた先生たちに謝れと言われたが逃げた。そうしたら無期停学。家に帰ったら父親がワンカップ飲んで、ゆでたまごを食べていた。そして即入院」

「あいかわらず素敵なエピソードだな!」

 あやめはすこぶる楽しそうであった。

「OKロックンロール!」

 ロックンロール氏はもちろんロックンロールしている。

「まじやべえ」

 エリカちゃんは若者口調で言った。

「また次回作の? いいネタになるね!」

 欽さんはニコニコとして楽しそうである。そこで欽さんはさっき山崎くんに絡んでいた男に呼ばれ、グループは会計して帰っていった。

「今日はわっさんこないんだねえ」

 店内をぐるっと見てからあやめが言った。しかし言うほど店は広くない。

「最近あんまり見ないね。奥さんのほうがいろいろ大変なんじゃない?」

と欽さんが心配そうに言った。

僕は奥さんの深刻な状態を憂い、わっさんのことがことのほか気の毒になった。

 十時頃、僕たちは欽ちゃんをあとにして、〆のラーメンを食べるために西口へ向かった。西口を出たところで、若者同士が喧嘩していた。

「喧嘩やってるよ。最近どうもきな臭くてよくないね」

 あやめはそう言いながら、先頭に立って駅西口のラーメン屋の暖簾をくぐった。僕と山崎くんもそれに続いた。店に入るなり、さっき欽ちゃんにいた五人グループが飲み食いしていることに気づいた。そのうちのひとりが、

「あーっ! さっきの兄ちゃん! こっちこいよ! こっち来て飲も!」

 と大きすぎる酔っぱらいの声で馴れ馴れしく山崎くんに声をかけた。あやめは店にいたときからその男にいらいらしていたようで、すでに殴りたい気持ちになっているようだった。

「こいつはね、ピンサロ嬢に恋しちゃってんのよ! 本気の恋だって言うんだからたいしたもんだよ!」

 まるで店内の全員にアナウンスでもするかのような大声と勢いで、露骨に馬鹿にした口調で言った。店内に不穏な空気が流れはじめていた。僕は何があってもいいように、呼吸を整え、すみずみの神経まで研ぎ澄ました。

「いや、恋じゃないです。会いたいし話したいし、一緒にどっかいきたいとは思いますが、恋じゃない気がしてます」

 山崎くんにはまだ冷静をよそおう余裕があった。しかし、声は細かく震えていた。僕はあやめが何かやらかさないかと心配になっていた。あやめは石のように固まって動かず、なんの表情も表していなかった。いちばん先に激昂しそうな人が静かなのは不気味だった。

「なんでぇ、それを恋って言うんだろうがよ。それで聞きたいんだけどさあ、もし相手がオッケーしたら彼女にすんの!? つき合うわけ!?」

 僕は山崎くんがこぶしを握り締めていることに気がついていた。手のひらに爪が食い込むほどであった。僕もそろそろ度を失いそうだった。もし自分のことだったら、殴りはしないがつかみ掛かるくらいはやっていたかもしれない。

「そういう話になれば、つき合いたいとは思います」

 山崎くんは冷静に答えたが、その冷静さは完全に作られたものであった。もう男のことは相手にせず、無視を決め込むのがいちばんよいのではと思いはじめていた。

「お前ら聞いたかー!? 何百本だか何千本だかチンポくわえてる女彼女にできんだってよ!」

 いっせいに笑いが起きた。山崎くんは下を向いて、なにかをつぶやいていた。僕は本能的に危険を感じた。山崎くんの顔はみるみる赤くなって、全身が震えていた。それを見ていた僕は、山崎くんに代わって怒りの感情に身を任せそうになった。その刹那、山崎くんはすさまじい勢いで男につかみかかり、一気に床に引きずり倒した。

「おいてめえ、いまなんつった――なんつったかって聞いてんだよ!」

「あ!? チンポくわえてる底辺の女に惚れた馬鹿野郎だっつってんだよ!」

「生かしてはおけぬ! 殺さねばならぬ!」

 山崎くんはいままで見たことのない、見ているものに恐怖を味わわせるほど恐ろしい形相で相手に馬乗りになった。いままでの我慢がすべて怒りの炎に変わったのであろう。その怒りの炎は容易に消すことは不可能だと思われた。

 そのとき、瞬間的に目の前を影が横切った。それは喧嘩を止めようというより、激発した憤怒を解消しようという心に身体を奪われたあやめだった。彼女はカウンターの客が食べ途中だった、まだ熱い味噌ラーメンを素早く手に取った。僕がその意味を理解したときには、すでに取っ組み合いをしているふたりの頭に、容赦なく味噌ラーメンが注がれていたのである。

「アチャ、チャ、チャ、チャ!」

 ふたりは頭にかかったラーメンを首を振って落としたり、手で払い落としたりしながら叫んだ。味噌ラーメンの中太ちぢれ麺は、乱れたドレッドヘアのように髪にまとわりついていた。

「落ち着け! 貴様ら! 終わり終わり! 喧嘩両成敗! ウチらは床の掃除しとくから、オマエらは近くのネカフェでシャワー浴びてきなさい! そしてわたしたちはクリープに行きます!」

 僕とあやめは店内を掃除し、ラーメンまみれでネカフェに行ったふたりを残して、クリープに向かった。その道の途中、クリープの常連にすれ違った。いつもカウンターのいちばん奥に座って酒を飲んでいる中年の男性である。挨拶を交わすほどの仲でもなかったので、そのまま歩き続けた。

クリープはいつも通り上等な大人の雰囲気が漂っていた。

さっきの騒動とは打って変わって、僕とあやめは静かに飲んだ。一時間ほど飲んだところで、

「いつもカウンターのいちばん奥に座って飲んでいる中年の人と道路ですれ違ったんですけど、あの人、どんな人なんですか。ほとんど話したことはないんですけど」

 と僕は質問した。妙に気にかかって仕様がなかった。

「正直、あんまりよい評判は聞きませんね。ご存知かもしれませんが、若い女の子が大好きですから。今日もこれから駅で女の子と会うとおっしゃっていました」

 もやもやとしたものが腹の底からわいてくるのを感じた。女の子と言われると、いまはどうしても千影と直結してしまう。しかし、会おうとしている女の子が誰か確認しようにも方法がない。この界隈に一体何人の女の子がいるのか。直結して考えるだけ馬鹿らしい。でも馬鹿らしいことが真実のこともある。いまがその真実であるなら。

「なにかほかに言ってませんでしたか? 仕事上、言えない部分はあると思いますが、可能な範囲で」

 僕は餌に食いつくような勢いだった。

「とにかくすごい美人だと言ってましたね。会って何をするかまでは言いかねますが――おじさんと呼ばれるのは嫌だな、お兄さんならいいけど、なんて話してましたね。笑いを浮かべながら」

 僕はすばやく長財布をジャケットのポケットから取り出し、仕分けされた札入れから一万円札を選んで抜き、差し出すようにあやめの前に置いた。

「申し訳ない、ちょっと行ってくる、先に帰っていてくれ」

僕はあやめの答えを待たずに、飛ぶような勢いで店を出た。僕は走って、走って、男性を追いかけた。駅に着いても彼は見つからなかった。僕は駅前広場で立ち止まり、ぐるりと見回した。顔、顔、顔、いくら見回しても、知った顔はどこにもなかった。走って駅の反対側に出て、またぐるりと見回した。仕事帰りや学校帰りの人が渦巻いていた。渦巻きに巻き込まれてしまって、ひとりひとりを見分けることが困難だった。息が上がった。そのとき、背中から黒い突起が出ている人間に目が留まった。あれはベースだ。僕は全速力でその人間のもとに駆け寄った。間違いなかった。それはベースを背負った千影だった。しかし、予想していた状況とは違い、その隣に男性の姿はなかった。

「どうしたんですか?」

 千影は美しさが燃えているような顔をしていた。

「いや、僕の勘違いなんだ。勘違い」

 呼吸が乱れて、声が切れ切れになった。

「ちょっと落ち着きましょうか。わたしもう帰るだけなんで」

 千影は僕の肩に手をやって、気持ちを落ち着けてくれているようだった。僕たちは道を外れて、駅前のベンチに腰をかけた。

「美人、女の子、おじさん、このキーワードだけで千影ちゃんだと決め込んでしまった。僕はどうかしている」

 自分の馬鹿らしさに、それ以上言うべき言葉を見出せなかった。

「あってますよ。もう終わりました」

 僕は言葉を失って、木偶のごとく呆然とした。

「終わった――?」

「ええ、終わりました。バイトはほんの一時間です」

 千影はいつか夢で見た透明な少女のように美しかった。横を向くと、対比させるものがあることでより美しさが引き立つ風景のように、右頬の傷が目に入ってきた。この傷を目にするたび、憐憫と惻隠の情を覚えるのである。

「終わったか――僕は止める気もないし、止める権利もない。僕はなんでこんな思いまでして、君のところに走ってきたんだろう」

 下を向いて、荒い息をしながら僕は言った。

「セイさん、わたしの話を聞いてくれますか」

「ああ、聞こう」

「母と、わたしの今までについてです」

 僕は息を飲んだ。左耳に全神経を集中させた。

「わたしは生まれつき、千の影ではなく、千の光を背負わされたんです。小さい頃から、母はわたしに自分には学歴がない、学歴がないと恨み言のように言って聞かせ続けました。だから千影には優秀になってほしいと、まるでなにかに復讐でもするかのように、言って聞かせ続けました。さらに、わたしは馬鹿だからなんの世話もできないけどと言い、子の世話から逃げたんです。わたしに直接的な指示は一度も与えたことはありません。いっそ母の言うとおりに生きるだけの操り人形だったらどんなに楽だろうと思いました。わたしは母が思い描く優秀像を推しはかりながら、勉強し、自分を演出しました。母の喜ぶように生きて行こうと思ったんです。進路もそれに合わせて決めました。進路を選ぶときも、相談も何もなく、重要な決定はわたしに委ねられました。母は子育ての責任を放棄し、精神でわたしを動かしました。彼女はわたしを愛するふりをして、自分の劣等感を解消しようとしていたんです。自分の思い通りにならないこと、理想の娘でなくなるような行為については無視を決め込みました。わたしが初恋をしたときも、気づいていながら、何の反応も示さなかった。男にうつつを抜かして勉学に支障をきたす娘は、母の意にそぐわなかったんです。やがてそんな人生に窮屈さや苦しさを感じ始めた。ハサミで頬を切ったのは母への抵抗でした。母の思い通りにやってきた人生に傷をつけてやろうかと思いました。責任を感じてわたしの人生に直接関与してくるのではという期待もありました。でもそれは裏切られました。わたしの真意は伝わることはありませんでした。母がやったのは、できるかぎり傷が残らないように処置してくれる医者を探すだけでした。そんなことは誰にもできます。治療中、いたわるような言葉はほとんど聞かせてくれませんでした。母がわたしに向けたのは、やさしさではなく、早く治癒して復帰しろという重圧だけでした。そしてわたしはいまここにいます。いま夜毎のようにしていることは、せめてもの抵抗なんです。わたしはずっと耐えてきました。少しくらい悪いことをしてもいいですよね? 母はわたしが誰に抱かれようが、なんとも思わないに違いない。理想の千影でないいまのわたしは、無視されるに違いない。やめさせようという努力をすることもないに違いありません。こんな話をしたのはセイさんがはじめてです。セイさんだけ聞いてほしかった」

「それは喜ぶべきものかもしれない。少なくとも信用されているという点においては。けれど、つらいものだよ。僕は君の友達、だということになっている。河川敷で約束したように。でも実際は宙ぶらりんだ。僕はミュージシャン仲間だと思いたいが、実際はいちばん面倒くさい位置にいる。僕には大切な人がいる。だから、君に実力行使をすることはできない。そんな存在の男が、現在の君の要望に即しているのかも知れないが、僕だって男だ。君にとっては少しくらいの悪いことなのかもしれないが、いずれ君を救いたいと思ってしまうかもしれない。いや、もう思ってるんだ。自分が思っているよりきっと強く。でも苦しくなるだけだ。僕のもとに迎えることもできなければ、他人として突き放すこともできない。正直、僕は早く君のことをなんとも思わなくなりたい。数多くいるなかの、女の子のひとりだって思えるようになりたい。音楽が好きで、ベースを弾いて、ヘドバンして、そんな探せばどこにでもいる女の子だと思えるようになりたい。これ以上いまのような状況が続けば、客観的な判断をすることができなくなってしまう。そうなってしまったら、わっさんに申し訳が立たない。僕はここに来るのに、大切な人をほったらかしにして置いてきた。きっと彼女は怒っているはずだ。君は君が思っているより多くの人間に影響を与えている。――いや、こんなことは言うべきじゃない。多くの人間に影響を与えているなんて、そんなの誰も皆同じだ。僕が勝手にここに来ただけの話だ。僕の話はいつも混沌としている。気にしないで欲しい。君はいま女を売ることで救われている。それをさらに救うというのはどういうことなんだろうか」

 そこで僕はおそろしい考えに思い至った。口にするべきではないとも考えたが、問わずにはいられなかった。

「まさか、君は――お母さんがいなくなれば?」

「はじめて自由になることができます」

「母の死を願うというのか? 自分なりの治療方針を考えて、母を救うすべを探していたんじゃないのか?」

 千影は無言だった。このときの無言に僕は激しくいらだった。

 僕はベンチから勢いよく立ち上がり、

「帰りは気をつけて」

と言って怒りに任せて暴力的な足取りでその場を去ろうとした。

すると僕を呼ぶ声が聞こえて、

「勝手なことだとわかっています! でもその日までそばにいてほしいんです!」

と千影は声に生命をこめて、叫ぶように言った。

周囲の視線が集まるなか、僕は背中でその声を聞いた。勝手にしろと思った。一度も振り返らなかった。

小走りに走ってクリープに戻った。あやめはすでにいなかった。

「あやめは帰りましたか」

 僕の声は沈んでいた。

「ゴールデン街に行くと言ってました」

 甘木さんだなと思った。ところへ、

「こんばんは」

 と言って、わっさんがあらわれた。

「おお、セイくん。ちょうどよかった。話があるんだ」

 わっさんと僕は、カウンターの中ほどに隣り合わせで着席した。わっさんは少しやつれているように見えた。

「嫁の病気のことなんだけど――」

 わっさんは深刻さだけを取っ払ったようなちぐはぐな口調で語り始めた。

その話を聞きながら、父と娘、両方に必要とされていることにあらためて思い至り、人生の不思議を体感し、想定外の感謝の気持ちに包まれた。僕のなにがそうさせるのか。別に人格者でもなんでもない。ただの不器用な男でしかないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る