十四〈あやめ〉

 わたしは管轄の保健所に、衛生管理責任者講習を受けにきていた。雑貨屋アイリス内で、カフェを営業するためである。知らない人も多いが、飲食店を営業するのに調理師免許は不要なのである。

 講習は公衆衛生学一時間、衛生法規二時間、食品衛生学三時間の合計六時間を一日で行う。それはもう退屈で、眠気との勝負になった。午前中の講習が終わると昼休みになり、弁当が支給された。弁当を食べながら、講習室の窓から見える必要以上に青い空を見て、こんなことをしている場合じゃないという気持ちになった。ドライブなどをして遊びに出るべきである。

「姐さん、おひさしぶりです」

 姐さんと呼ばれ、一瞬にして会社勤めをしていたころの思い出が脳内で再生された。

「あれー? なんでこんなところに?」

 わたしは席に座ったまま、顔だけを上げてそう言った。彼女は以前働いていた会社の後輩だった。課長にあからさまに不要な接触をされた被害者である。その被害から彼女を守ったついでに、わたしは会社を辞めることになったのである。

「あたし会社やめて、今度カフェで働くことになったんですよ。いきなり責任者」

「どこー?」

「会社近くの喫茶店ですよ。いつもカレーのにおいがしてる店です」

「ああ。そこ。激辛頼むとβエンドルフィンが出るとこだ」

 当時の思い出とともに、鼻の奥にカレーの香りがよみがえってきた。

「まあ、いろいろあったんですよ。たいして面白い話でもないし、面倒なので話しませんが」

「いいよ別に」

「きわめて退屈な講習ですね」

「うむ」

 その瞬間、これは使える、と思った。

「あっ、喫茶店って言ったよね。あたしもいろいろあって、今度カフェやることになったのよ。あんたのお店さあ、参考に見せてくんない? メニューとか料金とか」

「はあ。いいですよ。講習が終わったあと行ってみますか」

「行ってみる! 助かるわ!」

 わたしたちは講習後、むかしなつかしい職場近くの喫茶店に向かった。道のりもなつかしく、会社が近づくにしたがってこれからまた出勤するような気になって、どんよりした心持ちになった。

 入口のカランコロンというベルを鳴らしながら店に入ると、見知った店員さんがいらっしゃいませと声をかけてきた。すぐにわたしに気づいて、おひさしぶりですと言葉をかけてくれた。

「どうですか。この感じですよ」

「思い出した。いいことも、いやなことも」

 わたしはメニューを広げて、はじめから終わりまでスマートフォンで撮影した。これで価格設定の参考になる。

「このあと仕事?」

 わたしがこのセリフを吐いたら、余程の理由がない限り逃げることは許されない。

「いや、今日は休み扱いです」

「やっちゃうか?」

「やっちゃいましょ!」

「いぇーい」

 流れは早かった。酒飲みはいつもこんな風に時間を酒に運んで行ってしまう。こうなってしまえば、簡単には止まらない。ふたりで三軒目まで行き、最後はカラオケではしゃぎ回って締めた。

 翌日、酒くさいまま朝を迎えた。要は二日酔いである。アセトアルデヒドを抱えながら洗濯をした。ひさしぶりにやってしまった。気持ち悪い。酒を見たくない。もう二度と酒なんて飲んでやるものか。トマトジュースだ。あたしにトマトジュースを恵んでくれ。あの塩加減がいいんだよ。しかし冷蔵庫にはない。コンビニは遠い――

 わたしはその日、アイリスを臨時休業した。甘木さんに申し訳ない。こんなことは二度とやらない。いや、意思は薄弱だ。断言はできない。きっとまたいつか二日酔いに苦しむだろう。いい大人がなにをやっているんだ。

 その夕方、二日酔いから復活して、苦手なパソコンでカフェのメニュー作りをした。わたしは器用な人間ではないので、メニューは少なめにして、手間のかからないものにした。あくまでもアイリスは雑貨屋なのだ。ではなぜ、カフェを併設しようと思ったのか。それはあとに登場するふたりの影響が大きい。

「あやめちゃん、今日ごはん一緒に食べない?」

 縁側のガラス戸を開けて、真由子さんが顔を出した。あいかわらずにこやかである。

 真由子さんにごはんを誘われるのは、うな重を一緒に食べようと誘われた日以来である。楽しい弾みが心のなかにあふれた。

「今日はこれ」

 と言って、真由子さんは手を広げて料理を示した。ハンバーグ、ドリア、パスタなど、わたしの好きなものが並んでいた。

「いろいろ忙しくて、なかなかアイリスの開店お祝いできてなかったから。今日お祝いしようと思って」

 わたしは泣きそうになった。うるんでいる目をごまかそうとして、なぜかくしゃみが出た。相当悪い噂をされているに違いない。

「シャンパンもあるよ」

 安いスパークリングワインではなく、本物のシャンパンだった。酒は見たくないはずだったが、自然とからだがシャキっとした。シャンパンは真由子さんとわけて飲みきった。迎え酒効果で、からだは楽になった。

 お開きにして、片づけをして、寒いのはわかっていたが縁側に出た。沙々ちゃんが縁側で脚をぶらぶらさせていたからだ。

  連れ去られたときの傷がどれほど心に残っているのか。彼女はほどんどしゃべらないので、態度や表情で読み取るしかない。読み取ったところでわたしにできることは多くないが、それでも知りたかった。心配するという心の動きは、本来他人のためではなく、自分のためにあるのかもしれない。

「沙々ちゃん、隣いい?」

「いいよ」

 わたしは夏と同じように、沙々ちゃんの隣に座った。ヒノキでできた縁側が軋んで乾いた音を立てた。

「寒くなったね」

「うん」

「沙々ちゃん、元気だよね?

「元気だよ」

「そっか。わたしのほうが元気じゃないかもね」

「なんで?」

「大人になるとさ、いろいろ考えなくちゃならないことが多くて。いや、大人になりきれてないから、いろいろ考えちゃって元気じゃなくなっちゃうのかな」

「そうなの? ひとりになるといろいろ考えちゃうから、マンガ読んだりアニメみたりしてる。あやめお姉ちゃんはなんかみてるの?」

沙々ちゃんは幼さをそこかしこに残した声で言った。

「あんまりみないかな」 

AVとは答えられないので、そんな答えになった。

「おすすめがあるから、なんかみたくなったら言ってね」

「うん」

 沙々ちゃんの様子をうかがって、場合によっては負担にならない程度に励ますつもりが、自分が励まされているようになってしまった。沙々ちゃんはもう大丈夫な気がした。一生ついてまわる傷はあるにせよ――

 話し終えて、ふたりともそれぞれの部屋に帰った。いつものことだが、沙々ちゃんと話すといつもセンチメンタルな気持ちになる。前回はお父さんの急死、今回は事件の心的外傷というふたつの重大な出来事を受け止めて生きている。彼女のことを思うと、とてもやりきれない気持ちになる。でも、必要以上にやさしくしたり、過度にあわれんだりするというのは、その人の尊厳をおびやかすようでもある。なにも追わず、なにも聞き出さず、何もなかったことのように自然に振舞うのが、わたしにできる最善の策ではないかと考えた。

 店でカフェをやることを母にまだ伝えていなかったので、夜に電話をした。母はいつもどおり、わたしの友人や知人の結婚出産の話を持ち出した。隣のミカちゃんが妊娠したらしい。同級生のアサミちゃんは一人目を出産したそうである。あいかわらず、いくら周囲に結婚、出産の話が出てきたところで、わたしの心は何ひとつ揺らぐことなく、太陽系外の話だとさえ思っている。

「あのさ? うちに使ってない食器とかない? カフェで使えそうなやつ」

「うちにはないけど、おじいちゃんの家にならあるかもね。おじいちゃんの家に蔵があるでしょ? あそこに古いものがいっぱいしまってあった気がするわよ」

「ほんとにっ! それはほしい!」

「テーブルとか椅子はいらないの? それもあったと思うよ」

「最高なんだけど! つぎの休みに行ってくるわ!」

 すっかり興奮してしまって、その日はあまり眠れなかった。数日間、行きたくても行けないというストレスに翻弄され続け、とても息苦しかった。常時交感神経が優位に立ってエピネフリンが分泌され続けていたのであろう。

 数日後、おじいちゃんの家に父と行った。父を力仕事用に動員し、レンタルの軽トラックに乗ってきてもらった。

 蔵のなかは謎の壷や掛け軸などのほか、玉手箱のようなものに入った何かや、日本人形などがあった。そこからさらに奥に入ると、期待していた物がいろいろと目に飛び込んできた。

 古いテーブルと椅子のセットがふたつある。木製の棚には、平べったい箱があって、なかには皿やカップ、ソーサー、カトラリーなどがいくつも入っていた。

「よっしゃ!」

 と感嘆の声を腹から出した。

そのとき、テーブルの下にほこりまみれになった紙が落ちていることに気づいた。取り上げてほこりをはらってみると、それは暗号が書かれた紙だった。

「ああっこれ!? 暗号ッ!」

 と魂を込めたように精いっぱいの勢いで言った。

 おばあちゃんが残した例の暗号文である。こんなところにあるとは。これはセイが喜ぶぞ。彼なら解けるかもしれない。渡すのが楽しみで仕方なかった。

 父とわたしは雑巾で簡単にほこりや汚れをふき取ってから、軽トラに必要なものを積んだ。カフェで使うには充分な量が揃っていた。

「用が足りたかね」

 と言いながら、おじいちゃんが母屋から出てきた。老人といってもけっして痩せさらばえているわけではなく、むしろがっしりとして生気にあふれていた。

「もう充分! 最高だよおじいちゃん!」

「そうかそうか。それはよかった。そういえばな、あやめがテレビに出てから、しばらく経って、妙な手合いが家の前をうろうろしてたんだが、うちの若い衆――いや、うちの若い従業員が蹴散らしておいたから安心せい」

 おじいちゃんは極道を引退したあと、建設会社をはじめたのである。構成員は従業員になっていた。

わたしは荷物を載せた軽トラに父と同乗して、雑貨屋アイリスに向かった。父は無口なので、車内ではほとんどしゃべらなかった。店までの道案内をするくらいで、アイリスに着いてしまった。

 持ってきた物を店内に搬入して、バランスを取るためにテーブルや椅子をあれこれ移動した。遠くから眺めてみたり、近づいて動線を確認したりした。食器類は洗剤で洗い、水切りカゴに重ねていった。

「いいんじゃなーい? この感じ。どうよお父さん」

「俺にはよくわからん。いいんなら、いいんじゃないか」

 父らしいつまらない返答であった。そのつまらない言葉だけを残し、父は軽トラに乗って帰っていった。

 アイリスをオープンし、わたしは奥の式台に座ってお茶を飲んだ。さっき設置したばかりのテーブルと椅子を眺め、ひとりで悦に入っていた。

 しばらくすると、うつらうつらし始めた。普段あまり人のこない時刻だったので、そのまま柱に身を預けて居眠りをしてしまった。

 ところへ、

「こんにちはー」

 と演くんと亜由美ちゃんが入ってきた。

わたしはパッと目を覚まし、挨拶を交わした。そしてすぐに、ふたりをテーブル席に座らせた。

 求めていたのはこの光景だ。カフェを併設しようと思ったのは、この光景を見るためだと言っても相違ない。誰でも受け入れているとはいえ、欽ちゃんは居酒屋である。もっと若い子達が気軽に入れる場所、そういう場所を作りたかったのである。

 ふたりにはとりあえずすぐ出せるホットの紅茶をサービスで出した。ふたりはソーサーから静かにカップを離し、口へと運んだ。紅茶を飲んでいるだけで高貴な感じが出るから不思議である。

「ふたりはなんなの? つき合ってるの」

 わたしはあえて野暮な質問をした。

「そういうわけではないです」

「違います」

 セイとわたしの関係に近いのかなと思った。なかなか関係は進展しない。それが楽しくもあり、もどかしくもある。

「昼間からこんなことを言っていいのかわかりませんが、あやめさんだからあえて言います」

 演くんが妙な決意を見せる。

「亜由美ちゃんとは、最後まで済ましてます」

 わたしは目を白黒させて、その場に倒れこみそうになった。

「うわわぁっ、ああっ、ふたりの進展具合を見ながら、カフェを営業しようと考えたのにいっ――――まあ、もちろんその理由だけではないけど。それはすばらしい! すばらしいぞ! 全力で応援する」

 そんなふたりを見ながら、わたしはセイに電話をかけた。暗号の件についてである。予想通りセイはすこぶる嬉しそうにして、早くその紙を見たいと言っていた。当選した宝くじをなかなか交換所に持って行けず、悶々とした日々をすごすような態度であった。

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