十三〈セイ〉

 美しい月が出ている、十二月にしては寒さの厳しい夜だった。あやめと僕は欽ちゃんを出たあと、そのままお互いの自宅に帰ろうということになっていたのだが、あやめが家の鍵を雑貨屋アイリスに忘れていることに気づき、一緒に電車に乗って取りに来たのである。最初あやめは、勤務先だし慣れた道だからひとりで取りに行くと言っていたのだが、夜も遅いし酔っているしで心配なので、連れ立ってやってきた。家に帰って調べ物をしようとしていた自分の酔い覚ましにも丁度いいとも考えていた。

 あやめが麻のバッグから店舗名の書かれた木札つきの鍵を取り出し、店のガラス戸を開けるのを僕はぼんやりと見ていた。ガラス戸を開けるときの音は近くを通る電車の走行音に覆われて、僕には聴こえなかった。

 充分に厚着をしたうえにダッフルコートを着て、動きがロボコンのようになっているあやめに続いて僕は店に入った。外とは違った種類のつめたさが頬に触れた。

「ストーブつけるからちょっとまってて」

 あやめはロボコンのわりに素早くコートを脱ぎながら、店の奥に入って電灯をつけた。白熱灯のあたたかな光が店内に広がる。

「そんなに長居しないだろ」

「用を思い出した」

 あやめは戻ってきて店の真ん中に設置されたアラジンストーブにマッチで点火した。あたりにマッチの香りがふわりと漂い、独特の青い炎がストーブの丸い窓から覗いた。

 僕はなんとはなしに店内の雑貨を見まわした。ぐるりと一周して元の場所に戻ってくると、正面の古いレジスターの横に置いてある筆箱が目に留まった。矢車菊の絵が書かれた昭和アンティークの筆箱だった。

「いい筆箱だな」

 と僕は言った。

 それからしばらく不自然な間があって、

「それ、子供の頃おばあちゃんにもらったんだ。はじっこに小さい凹みがあるでしょ」

 とあやめは下を向いた状態で、不自然な間を取り戻すように早口でいった。

 紙の擦れる音しか聞こえなかったが、あやめはレジカウンターの下にある書類やファイル、チラシなどの類をひっくり返しているようだった。僕は筆箱を手に取って、ふたの端に凹みがあるのを確認した。

「うん、ある」

「あたしが家の柱に投げつけたときにできた凹みなんだ。反抗期のとき」

「反抗期なんかあったのか」

「今も昔もずっと反抗期だろと思ってた口だな」

 あやめは僕を見てにやりと口元だけで笑った。まさにその通りだったので、僕は何も言わないまま適当に視線を外した。

「おばあちゃんがあたしの誕生日プレゼントにって買ってくれたんだけど、受け取るなり、いらないって言って投げたの」

「そりゃひどいな。おばあちゃん悲しんだだろう」

「どうかな。見たところ悲しそうな顔はしてなかった。でも、おばあちゃん そのことがあってからすぐ体調崩して、入院しちゃったんだ。それまで入退院を繰り返してたから、特別変わったことじゃないと思ってたんだけどね。でもそのときは違ったんだ。そのまま家に帰らなかった。さすがにショックだった」

「亡くなったのか」

「そう」

「心が痛むな」

「おばあちゃんの遺品整理のとき、おばあちゃんの嫁入り道具の引き出しを開けたら、中くらいの玉手箱みたいな箱が入っていて、ふたを開けたら、昔の写真とか小物とか記念切手とかが入ってたの。そこに一通の手紙も入っていて、それを開けたら、おばあちゃんからあたしへの手紙だった」

「なんて?」

「あやめちゃん、誕生日おめでとう。筆箱気に入らなかったね。ごめんね。おばあちゃんにはあやめのほしいものがわからないから、このポチ袋のなかのもので好きなものを買ってねって書いてあった」

「やさしいおばあちゃんだな」

「と思うでしょ?」

「思うよ。お金が入ってたんじゃないの?」

「違うのよ。暗号が書かれた紙が入ってた」

「なんだそれ」

「暗号を解読してお金を見つけて好きなものを買え、と書いてあった」

「え? シーザー暗号? ポリュビオス暗号?」

「わかんない! セイ好きそうだね」

「解けたのか?」

「解けなかった。探偵小説好きの山崎くんと挑んだんだけどね」

「山崎くん? 元同僚の?」

「そう。あれ? セイに話してなかったっけ。山崎くんとは小中同じ学校だったの。高校で別々になって、たまたま就職先で再会したんだよね」

「そりゃあ仲がいいわけだ。なるほどね」

「ふたりで頑張った結果、大日本帝国海軍の暗号だということまではわかったのよ。おじいちゃんが極道になる前に日本海軍にいたから、おばあちゃんに頼まれて暗号を作ったんだと思う」

「なるほど。それにしても解けないのは悔しいな。いま残ってないの?」

「うん、残ってない。暗号解くのに図書館とか公民館とか回ったりしてるうちになくしちゃった」

 あやめは僕の表情をうかがったが、特に何という反応もしなかったので、しばらくすると自分の手元に目を移して作業に戻った。僕は暗号が紛失してしまったことについてずいぶん残念な心持ちになっていたが、意外と顔に出なかったようで、あやめとしては張り合いがなかったに違いない。

「ああ、どこいったんだろ。ない。家じゃなくてここにあるはずなんだけどな」

 あやめは手を止めて、ため息を吐くように言った。やっと店内が暖まってきた頃だった。

「なに探してるんだ。いまさらだけど」

 暗号の話に奪われていた思考がそのとき解き放たれて、単純な疑問に考えが及んだ。

「子供の頃の写真。あしたの木曜会で亜由美ちゃんに見せるって約束してるの思い出したの。実家にある古本を店に送ってもらうついでに母に送ってもらったから、ここにあるはずなんだけど」

 僕は再び下を向いてあれこれひっくり返しているあやめの頭頂部を見つめながら、会ってからずっと彼女は黒髪だが、他の色に染めるなり脱色するなりしたら、一体どんな感じになるだろうとあれこれ考えていた。結果、あやめという名前に引っ張られて、紫色の髪色しか浮かばなくなってしまった。本人には申し訳ないが、気味の悪い印象で想像に決着がついた。

「あった!」

 あやめは小さな写真アルバムを僕に見せつけるように勢いよく掲げた。

「おお。よかったよかった」

「よし、さっさと片付けて帰ろう」

 あやめは写真を麻のバッグに入れて、コートを着て帰り支度をした。電灯とストーブを消して店を出ようとしたところで、

「おいおい。鍵」

と僕は言った。あやめはレジカウンターに店の鍵を置いたままだった。あやめの「はあ」という気の抜けた言葉に「やれやれ」と僕は返した。

 あやめはホヤぼーやのキーホルダーがついた家の鍵を麻のバッグに入れて、ふたりで店を出た。服と服の間に挟まっていた温かい空気はたちまち冷えて、沁みるような外の寒さがふたりの間に戻ってきた。

 僕たちは最寄駅で別れて、それぞれが家路に着いた。家についた僕はパソコンに向かって、胃がんについてあれこれと調べた。そのなかでも緩和ケアとQOLについての知識を蓄えた。

 パソコンでの調べ物が終わったあと、今日の出来事をテキストエディタに箇条書きで記録した。この箇条書きをもとにして、僕はいまこの小説を書いている。

 僕が蒲団に入る頃には雨が降っていた。美しい月を寝る前にもう一度見ようとして、ブラインドの間から外を覗いたときにそれを知った。僕は天気が悪いというだけの理由で憂鬱になる種類の人間ではなかったし、あやめもきっと同じ種類の人間だと考え、すこしだけ愉快な気分になった。

 僕は蒲団に入った。さっき箇条書きにした内容を振り返ったあと、さらに過去に戻って、子供の頃のあやめに考えを巡らせてみた。自分の時系列に彼女を並列させて、まったく別の世界を生きてきたふたりが出逢い、やがて同じ時空を共にすることになった縁を考えると、感慨無量たらざるを得なかった。

 ところへ、スマートフォンの呼び出し音が鳴り響いた。液晶画面を見た僕は、ちょっと意外な感じに打たれた。

「はい、もしもし」

 電話の主は千影だった。

「遅い時間にすみません。セイさんがゆっくりお話できるのはこのくらいの時間かと思って――いいえ、嘘です。わたしのわがままです」

 電話を通していてもわかるほど明瞭な発音だった。なぜ言ったそばから自分の発言を否定したのかは見当がつかなかった。僕は声のなかに潜む緊張感を読み取った。

「かまわないよ。どうした?」

 千影の緊張を解くように、つとめて穏やかに言った。

ところが緊張しているのは自分のほうであった。

「セイさんは母の病状について、詳しく聞いてるんですか?」

 想定していなかった質問だった。欽ちゃんに関係する質問とばかり思っていた。

「ほかの人よりは聞いていると思う」

 クリープでお酒を飲みながら、わっさんが語ってくれたことを思い出していた。

「そうだと思いました。それなら、わたしにも詳しく教えてください。わたしなりに、治療方針を考えてみたいんです。もちろん、結論を医師に提言しようなどとは考えていません。ただ、なにもできないのが悔しくて――」

 治療方針を考えるという言葉の意外さに、胸を突かれる感じがあった。

「お母さんやお父さんからは、なんて聞いてるの?」

「ひどい胃潰瘍だと聞かされています。でも、治療方針が胃潰瘍のものではない。おそらく胃全摘術、再建術を行ったとしか思われないんです。それに腹膜播種や広範囲のリンパ節転移もあって――」

 明瞭だった声が語尾にかけて震え、ついに千影は言葉を詰まらせた。

「それも本で得た知識? すごいな」

「詳しく教えていただけませんか?」

 千影は差し迫った感じで、早口で言った。どこから電話をかけているのかわからなかったが、すこし反響があるように聞こえた。

 僕はいったん呼吸をおいて、

「ごめん。僕の口から伝えることはできない――お父さんに直接聞いてみるといい。いま僕に話したことを、そのまま伝えてみるんだ」

 安堵させるように僕は言った。すこしの間、無言の時が流れた。

「ありがとうございます。おそらく、父も母も本当のことは教えてくれないと思います。病名をいつわっている理由に心当たりがあるから――」

 僕はとても心苦しかった。正直に伝えたほうが不安が軽くて済むのか、このまま黙っていたほうが不安が軽くて済むのか、僕には判断がつかなかった。

「もうひとつわがままを言ってもいいですか」

「内容によるな」

「今から会えませんか」

「酔っていてもかまわなければ」

「大丈夫です」

「もう遅いし雨も降っているから近いところで会おう。駅前のファミレスは?」

「承知しました」

「十分で行く」

「わたしも同じくらい」

 僕はさっき着ていた服を洗濯カゴから取り上げ、すばやく着て、軽く身だしなみを整えて家を出た。

 駅前に着くと、ちょうど向こうから千影が歩いてくるのが見えた。身体が引き締まって胸が苦しくなるのを意識した。僕たちは店に入って、ボックス席に腰をおろした。

「寒いね。冬が深くなってきている」

「背中にカイロを貼って、もうひとつカイロを持って手を温めながらきました」

 と言いながら、千影は手に持ったカイロをもみほぐした。

「はじめから会えばよかったな」

「それもそうですね」

 千影は控えめな笑顔を見せた。

 僕たちはドリンクバーを注文して、千影はデザートを、僕は小さなピザを注文した。ドリンクを取りに行ったとき、千影の美しさに気を取られている人がいたことに気づいた。千影は淡い空色のニットに黒いリボンがついたグレーのツイードスカートを合わせ、欽ちゃんで会ったときと同じ白いコートを着ていた。

「さて、なにを話すか。別段ネタは用意していない。お母さんのことについては、これ以上詳しく話すわけにはいかない」

「ぼーっとしていてもよいですよ。無言が苦痛にならない人なので。なんのために会ったんだかわかりませんが」

 あやめと同じタイプなので安心した。しかし酒がさめてきたのは不安だった。返答に遅延が生じる。ある程度、酔っているほうが反応は早い。酒を頼むか迷った。

「バイトは忙しいの?」

 言ってすぐ、言わなければよかったと思った。忙しいという言葉は聞きたくなかった。しかし、何十人、何百人と絡もうが絡むまいが、本質的にはなにひとつ変わりはしないのだ。より数が少なければ清らかで、数をこなしたから汚れているとは言えないのである。そう考えようとしても、やはり僕は分別をしてしまう。やはり忙しいという言葉は聞きたくなかった。

「それなりに」

 と千影は言った。

一日に一人なのかもしれないし、二人以上なのかもしれない。そんな推定にはなんの意味もないのかもしれないが、考えずにはいられなかった。呼吸をするたびに胸がざわついた。手の先に自分の思いが集中したような感覚になり、僕は千影を抱きしめたくなった。どこの男のところにも行けないように、すり抜けることができないくらいに強く。

「どんな――バイトなのか」

 ずっと腹にちからを入れて我慢していた質問をぶつけた。片恋の相手に愛の告白をするような決然とした思いであった。本人の口から聞かないままなのは苦しかった。

「たぶんセイさんの思っていることと、たいして相違はないと思います。でも、わたしがセイさんにすべてを言ってしまった場合、しかるべき機関に報告しないと、セイさんは罪に問われます。だからわたしは明言を避けているんです」

 彼女の答えは理にかなっていて単純明快だった。僕のいままでの煩悶を思えば、もっと心理的で複雑な答えであるべきだった。ではなぜ、思わせぶりな言いかただったにせよ、重大な秘密を明かすような真似をしたのか。はじめから黙っていれば済むことである。暇つぶしに大人を翻弄して遊んでいただけなのか。自分を止めてほしいというサインなのか。それともほかに意図があるのか。聞きたいことがあとから追いかけるようにわいてきて、かえって聞くことができなくなってしまった。怒りにも似た不愉快なわだかまりを抱えたまま、口をつぐんだ。

「話は変わりますけど、欽さんと音楽ユニットを組むことになったんです。欽さんがボーカルギター、わたしがベースとコーラス。形になったら、レコーディングするって話まで出ています」

 千影は気まずい雰囲気を打ち壊すように、はずんだ声で言った。

「いいね。おそらくマルチトラッカーレコーズからCDを出すつもりだな」

 はずんだ声で言ったつもりだったが、ぎこちなさは拭えなかった。

「なんですかそれは」

 ちょっとおどけて、棒読みで千影が言った。

「欽さんが主催して、欽ちゃんに集まるミュージシャン全員でオムニバスCDを出すって企画」

「それは楽しそうですね。練習しなきゃ」

 と千影が言ったが、その演奏を思い出し、練習は必要ないだろうと考えた。欽さんがついてこられるかのほうがよほど心配である。

「でも千影ちゃん、それどころじゃないんじゃないの? 受験で」

「息抜きで練習するから大丈夫です」

「へえ。頭がいい人って時間の使いかたがうまいよね」

「なら、セイさん頭いいですよね。時間の使いかたがうまい気がする」

 僕は無言で通した。

 それからしばらくして、僕が会計して店を出た。雨はもうやんでいた。

外は思いのほか冷えていて、街の明かりが澄んで見えた。アスファルトは濡れていて、あらゆる光を反射していた。

 タクシーのテールランプを見て、このままタクシーに乗ってどこか知らないところまで行ってしまいたくなった。

「どこかに行こうと考えてるんですか」

 うしろをついてきた千影がささやくように言った。声まで冷たいように感じられた。思考を読まれたことに悔しい思いがした。

「行ってしまいたいとは思った」

「行きましょう」

「どこに?」

と聞くと、

「ホテル」

 と主導権を握られた。

 千影は僕の手を引っ張って、タクシーのほうに歩き出した。

「いけない」

 と言って、僕は千影の手を振りほどいた。すると彼女はそこで立ち止まって、僕に抱きついてきた。僕の手は宙に浮いたままだった。僕は抱きしめるのか、そのままでいるのか、葛藤に苦しんだ。さっきは抱きしめたいと思ったのに。考えるのと行うのとでは、まったく別の話であった。

「抱いてほしい人は抱いてくれない。悪いことばっかりしてるからですかね」

 千影は涙声だった。僕は抱きしめたくて仕方がなかった。抱きしめてしまったあとの言い訳まで考えていた。でもここで抱きしめたら、あと戻りができないような気がした。

腕を引きちぎるような思いで彼女を引き離して、

「帰ろう」

 と言った。

 千影は涙を流しながら、僕のほうをまっすぐに見た。まるで意思を持ったような、美しい涙だった。清らかな涙だった。胸をえぐられる思いがした。

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