十二〈あやめ〉

 ある木曜日の午後、ちょっと栄えたあたりまで出るので、結構ちゃんとした服装をして、古本屋に文庫本を買いに行った。夏のときと同じく、本屋のおっさんが万引きを警戒しているのか何度もわたしに視線を向けていて気持ち悪かった。

 探していたのは太宰治の津軽だった。太宰の作品はいくつか持っていたが、津軽は持っていなかった。太宰が自分のルーツにせまっているという話を文壇バーのお客さんから聞いて、気になって探しにきたのである。個人店なので分類が不完全らしく、探すのにしばらくかかった。

 目的の本を見つけて手に取ったところで、横目にひとりの女が入ってきた。手にはエコバッグのような不織布でできたバッグを提げていた。女は棚から本を取り、いったんコートの袖のなかに隠し、袖をバッグに突っ込んでから、バッグのなかに本を落とした。

 わたしが会計して店を出ようとすると、再び先ほどと同じ仕草で、袖のなかからまた別の本を落としていた。わたしは彼女の横を通り過ぎる際に、しずかに彼女の耳に口を近づけて、

「おやめなさい」

 とひとこと言って店を出た。

 駅に出て家に帰ろうとしていたところで、わっさんに会った。ここらの本屋街一帯でいちばん大きな書店に行ってきたと言った。買った本を見せてもらうと、厚めの本が何冊もあった。胃癌治療ガイドライン、胃癌のすべて、胃を切った人のおいしい回復レシピ、がんを告知されたら読む本、などがあった。わたしは見せてもらったことを後悔した。気の利いた言葉をかけることができなかった。

「希望がないってわかっててもね。あきらめ切れないもんなんだよ。自分なりに、なにができるか考えてみたいんだ。あやしげな民間療法に頼ったり、宗教にすがるなんて馬鹿らしいと思っていたけど、実際こうやって家族の立場になってみると、それもありかなと考えてしまうんだよ。みんな、きっと後悔したくないんだよ。自分ができることをずっと探してるんだよ」

 わっさんとは最寄り駅で別れた。どんよりとした気持ちになりかけたが、気を取り直して、駅近くにあるいつもお世話になっている美容室にずいぶんひさしぶりに行った。カット&セットスタイリングコースで、前回行ってから伸びたぶんを切って揃え、スタイリングしてもらった。右側の髪の毛に変なクセがあるので、アイロンで伸ばしてもらった。左右がきれいに対称になって大満足である。自分でやるといつもうまくいかない。

 いつもはこの状態で家に帰るところだが、その日はもっと女らしいことをやってみようと思っていた。わたしのことをよく知っている人は皆似合わないと言うだろう。なんと、ネイルサロンに行ったのである。自分でもどんな心境の変化なのかわからないが、ふとやってみたいと思ったのだ。

 サンプルをいろいろ見せてもらった結果、パステルカラーの和風デザインにした。ギラギラしたものだとわたしの服装には合わないと思ったので、ストーンやパールはなしにした。

 帰り道、わたしはずっと心が弾んでいた。たまにニヤニヤした。他人から見たら気が触れているように見えたかもしれない。女たるもの、常に意識を高めて外見に気を遣うべしと思った。二十代後半にしてやっと。

 髪と爪が美しくなっただけで、こんなにも嬉しい気持ちになるんだな。早く誰かに見せたいな。やっぱりいちばん見せたいのはセイだな。これだけやって気づかなかったら死刑だな。まあ結果的に気づかなかったんだがね。

 ひとりの休日はどうも時間をもてあましてしまっていけない。どうしようかあれこれ考えた結果、公園を散歩することにした。夏にも一度散歩した公園である。

 冬の公園はひっそりとしていて、人がほとんどいなかった。咲いている花は少なく、桜の木はごつごつとして美しさの欠片もなかった。わたしは歩きながらこう考えた。

 夏には勝利の無職などと言い、自分が女性であることを誇っていた。後輩を救うという行為が、いかにもかっこよく、それが正義だと思っていた。それは今も変わらないが、いまだったらもう少しうまくやるだろう。年を取るというのは、きっとそういうことだ。同僚の山崎くんは今も昔も特別な存在で、なんでも言い合える仲間だ。なにも用がなくても月に二回は一緒に飲んで、お互いのたまった話を言い合って、受け入れて消化する。アパレルの派遣の頃は、まだとがっていて、面倒を起こしたが、その仕事のおかげで、真由子さんと沙々ちゃんに出会うことができた。いまとなっては、ふたりがいない現在など考えられない。猫はいなくなってしまったが、あまり悲しんではいない。なんの根拠もないが、戻ってくる気がしている。あんな人間くさい猫が、だまってそのまま消えてしまうなんて考えられない。かといって、にゃー(さよなら)と鳴かれても、一向に理解できないだろう。欽ちゃんに出会ったことが、どれほど重要だったかは言うまでもない。居酒屋と書かれたちょうちんは、もう何度も見て、脳に完全に焼きついている。それはいつも独特のわびしさを感じさせる。ロックンロール氏はいつも素晴らしいネタを提供してくれるだけではなく、彼が楽しそうにしていると悩みが吹っ飛んでしまう。具体的には言い表せないが、全体的に大きなやさしさで包んでくれるような印象である。そして、わたしにとって最も大きな出来事は、言うまでもないが、セイに出会ったことである。精悍で引き締まった顔立ち、実直な印象、清潔感のある髪型。合格点を与えるつもりが、好感を持ってしまった。要するに敗北である。わっさんもまた重要である。なにかとわたしの人生に関与してくる。今後も間違いなく強く関わってくるに違いない。バンジョー先生はいつもひょうひょうとしていて、いまいちつかみ所がない。つかむ必要もないので、対策は考えていない。彼のバンジョーに合わせて歌を歌うのは心地いい。クリープはなんだか逃げ場所というか、最終地点になっている。マスターの接客技術は凹んだ心を少しだけプラスに変えてくれる。とにかく持ち上げすぎないのがよい。わたしはみんなにとってどんな存在なのか、いつも考えてしまう。ただの酒飲みなのだろうか。もう終わってしまって、発展する未来のないアラサー女だと思われているのだろうか。わたしの居場所はどこにあるのだろうか。普通に考えればセイのところだろう。大きなくくりで言えば欽ちゃんか。その居場所も、いつでもなくなってしまう危うさのもとにある。わたしは確実が欲しいのだろうか。そんなのどこにもないし、確実になりそうになったら飽きてしまうくせに。

 そこまで考えていたら、公園を一周していた。近くのベンチに腰掛けて、これからまたどうしようかと考えた。

「つまらんな。実につまらん」

 と誰にともなく話をするように、ひとりごとを言った。

「ホッピー通りに行く」

 と決意に満ちたひとりごとを言って、わたしはふたたび駅に戻った。電車を乗り継ぎ、地下からのぼって地上に出ると浅草雷門のすぐ近くである。

浅草のホッピー通りに出ると、いつもどおり活気にあふれていた。道路まで人がはみ出している。わたしはひとりで来たことは一度もなかったが、外見が出来上がっていたせいで自分に自信を持ち、無敵になったような気がしていた。どうもわたしはなにかきっかけがあるとすぐ無敵になったような気持ちになるらしい。

一軒目は定番中の定番、正ちゃんである。煮込みを頼まない手はない。酒は無論ホッピーである。推奨されている割り具合で割り、マドラーを回す。酒飲みなら当然知っているべきだが、マドラーはけっしてホッピーの瓶には入れない。

 しばらく一人で飲んでいたら、斜め向かいのおっさんたちが話しかけてきた。

「おねーちゃん誰か待ってるの?」

「いや、待ってないです。一人です」

「なんだよ~彼氏でもくんのかと思ってたよ~一緒に飲もうよ」

「まったく問題ないです。飲みましょう」

わたしは隣の人に席を交換してもらって、おっさんたちのほうに移動した。

「それでは改めて、かんぱーい!」

 わたしは自分から音頭をとって乾杯した。欽ちゃんでよくやっているので手なれたものである。

 彼らは面倒なことに、なんの仕事をやっているか聞いてきた。正直に答える義理もないので風俗嬢だと答えておいた。

「どおりで! なんかエロい顔してると思ったんだよ! いつも男をあしらってるから度胸あんだな」

 エロい顔ってどんなだよと思ったと同時に、まあエロいけどねと思った。なお、わたしのなかでエロい顔とはフェラ顔が可愛い顔のことである。貴様らには見せん。

「いまいくつー?」

 ともうひとりのおっさんが聞いてきた。時代劇役者のような顔をしていた。

「二十代後半とだけ言っておきます」

 別に隠す必要もないのだがね。影がある女を演出してみた。

「もーいい歳だ! 俺は高校生が好きなんだよなあ。もっとこう、キュッと締まってて、小さい感じの子が。あっちもキュッと締まってれば最高なんだよ。おねーちゃんはそうは見えないな!」

 こいつ、喧嘩を売っているのか?

「ロリコン! ロリコンでしょ!」

 わたしはトゲのあるもので刺すように反撃した。

「いや違うでしょ。ロリコンてどっから? 高校生はまだセーフでしょ」

 おっさんは防御した。

「高校生か。まだセーフっちゃセーフだな」

 十八からAVに出れると考えればである。

「でしょ~」

「でも実際絡むことないでしょうよ!」

「ほらさあ、売ってる人もいるから」

 おっさんの言葉を聞いてわたしはあからさまに嫌な顔をした。

「買ったことあんの?」

「そりゃあるさ」

「具体的になにすんの?」

「食いついてくるねえ。そりゃ値段しだいだよ。しゃぶる、やる、どっちかだ」

「ふーん。汚れてんなあ」

 わたしは頬杖をついて、ため息をついた。亜由美がやっていたら嫌だなあと思った。わたしは説教のひとつでもしてやめさせるだろうか。なにをやろうとその人の自由だと考えて、なにも言わないだろうか。わたしはたぶん後者だと思う。

「汚れっちまった悲しみによ」

 とおっちゃんが歌うように節をつけて言った。

「中原中也」

 わたしはすかさずそう答えた。

「しってるね、ねーちゃん」

 なにひとつ嬉しくはなかった。わたしは会計をして帰ろうとした。するとおっさんの一人が連絡先を教えろと言ってきたので、スマートフォンで風俗の電話番号を調べ、それを親切に教えてやった。携帯電話の番号で営業している店なので、まんまと騙されていた。

 またひとりになってしまった。こんなときに行くのはもうひとつしかない。欽ちゃんである。再び電車を乗り継ぎ、いつもの場所への道のりをほろよい気分で楽しんだ。欽ちゃんに行くと決まると、それだけで心が救われたようになるのだ。

「いらっしゃい!」

 この声の響きにはなにかがある。人を虜にするなにかが。

「どっかいってきたの?」

「古本屋行って万引きを発見して、駅でわっさんに会って、美容室に行って、ネイルサロン行って、公園散歩して、浅草のホッピー通り行ってきた」

 わたしは指を折って数えながら列挙した。

「すごいな。よく一日でそれだけ行ってきたな」

 自分もそう思った。充実した休日であるとも言える。

「なんかみんなちゃっちゃか終わっちゃってね」

「気になるのはネイルサロンだな。そんなの行かない人でしょ?」

「うぇーい」

 わたしは手の甲を欽ちゃんのほうに向けて、指を広げて見せつけた。

「おおっ。素晴らしい。女ぶりが上がるねえ。ほんと似合うと思う。やっぱ女なんだな」

「最後のひとことめっちゃ余計なんだけど」

「いや、悪い意味じゃなくて」

「どうやったらいい意味に取れるのか」

「ほら、みんなあやめちゃんのこと聖母みたいに見てるから。神聖すぎて女を感じないんだよ」

「なるほど。やっぱわたしくらいになっちゃうとね。そう思っちゃうよね」

 と乗ったにもかかわらず、欽ちゃんは無反応であった。せつねぇ。

「あのさあ、女子高校生好きなおっさんってロリコンになんの?」

 カウンター席についてわたしは言った。客はわたしひとりであった。

「なにをいきなり。定義的にはロリコンではないけど、あまりにも自分の歳から離れている人に性的な興味を抱いたらロリコン感はあるよね」

 わたしは梅酒ソーダ割りを注文した。奥さんがすぐオーダーに取りかかった。

「わかるわかる。欽ちゃんの知ってる人でさあ、援助交際やってる人いる?」

「いたよ。何年か前の話だけど、近くのホテルの前をうろうろしてる子いたなあ。あんなあからさまにやってて大丈夫なんかなと思ってたけど。あれか、もう学校卒業しちゃったか」

「あれはさあ、どういう思いがあってするんだろうね。欽ちゃん的に、そこに踏み込むきっかけみたいなさあ、そういうの感じたことある?」

 奥さんから梅酒ソーダ割りを受け取った。控えめに一口飲んだ。

「まずは単純に金がほしいというのはあるよね。それはそれとして。あとは、父親がずっとしつけや勉強に厳しくて、甘えることができなくて、その反動で男に甘えたくなってしまうとか。実際、そういう子って、異常に接近してきてスキンシップをはかろうとしてきたりするんだよね。変な風に思われたら困るからこっちもなんとか避けるんだけど。逆に、父親が優秀で、存分に愛を受けた結果、男に対して父親のような優秀さを求めて男との接触を好むというパターンもあるよね。あとは放任主義の父親をもつ女の子に多いんだけど、父親に注目して欲しいから、勉強に励む傾向がある。優等生像を作り上げて演じたりするって傾向もある。自己肯定感は高くなくて、常に不安を抱えている。それで自分に注目してくれる男を求めてしまう。なのに男性に近づくのを苦手にしたり、必要以上に気を遣ったりする。複雑だね」

「はあ。難しいねえ。わたしはどのパターンでもないからしあわせに育っているんだろうね。特別なのはおじいちゃんからヤクザの血を受け継いだくらいだね」

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