十一〈セイ〉

「いやあ、いいねえ。めでたいねえ」

 日曜日の晴れた昼前、きれいに陳列された商品ときれいに清掃された店構えを見て欽さんがかみしめるように言った。風はおだやかで、入口の一間のれんがかすかに揺れていた。角にあるお店なので、もう一辺にも入口があり、そこにも同じのれんがかかっていた。欽さんはお祝いを置いて、早々と帰っていった。

 本日、ついにあやめが店長をつとめる「雑貨屋アイリス」が開店したのであった。アイリスの名は当然、菖蒲から取られた。命名はあやめだ。

 レジが置かれているテーブルの上には、あやめの部屋に置いてあったスケルトンの電話が置かれていた。スケルトンの電話は僕があやめに会った頃からずっと欲しがっていたものである。あやめお気に入りの麻のトートバッグは、テーブルに取り付けられたフックに掛かっていた。

 きれいに磨かれたガラスの引き戸には、演くんが作ってくれたフライヤーが何枚か等間隔できれいに貼ってあった。この丁寧な仕事は僕のものである。

 あやめは店内でまだなにかやっていた。ジャラジャラという音がしている。おそらくレジの両替金を準備しているのだ。

 ひときわ目立っているのは大きな花輪で、差出人には夏目漱石と書いてあった。こんなイタズラをするのはひとりしかいない。山崎くんである。そのくだらない所業にあやめへの深い友情が感じられてほほえましい。

 僕は店先に置かれた縁台に腰をかけた。その状態でアイリスを見て、この光景は現実のものなのだろうかという根拠のない不安にとらえられた。

「おわったぁーっ。開店準備OKです!」

 ちょこちょこと駆けてきて、あやめが僕の隣に座った。

「いやもう開店時間過ぎてるから。十二時でしょ。もう十二時半だよ」

 僕は腕時計の文字盤を見て言った。

「こまけえこたあいいんだよ。お客さんくるかなあ」

 と言って、あやめは持っていたペットボトルのお茶を飲んだ。

「そんなにフライヤー刷ってないから、初日はきびしいかもな」

 午後の日差しに暖められてうとうとしていると、ふと駅のほうからふたりの人影が近づいてくることに気づいた。

「あやめ、誰か来るぞ」

「そうみたい」

 だんだん見覚えのある姿形があらわれてきた。ひとりは演くんであった。もうひとりはわからないが、高校のブレザーを着ている女性だった。だんだんはっきりとしてきて、ついにふたりの姿が目の前にあらわれた。

「ふたりってつながってたっけ?」

 あやめが素直な疑問をふたりにぶつけた。

「縁起がつながって仲良くなりました」

 亜由美が悟ったような口をきく。

「弾き語りを見に来てもらっているうちに」

 気恥ずかしそうに演くんが言った。

「よかったら店内見てみて」

 亜由美ちゃんと演くんはふたりで店内へと入っていった。僕とあやめは彼らについて話した。

「初々しいねえ。あのね、亜由美ちゃんて演くんのこと好きなんだよ」

「演くんもまんざらでもなさそうだな」

「いずれくっつくでしょう。へへへ」

 あやめは抑え込んだ、いやらしい笑い声を出した。

「なんかあやめ、おばさん化してない?」

 僕は肩を強くぶたれた。これはあざになりそうだ。彼女はいつも本気でぶつ。

「お茶出してくる」

 と言って、あやめは店の奥へと入っていった。しばらく戻ってこなかったので、おそらく奥の式台で三人でお茶を飲んでいたのだろう。僕はなんとなく空を見上げて、いろいろなことが変化しつつも、安定に近づいている気がして、おだやかな気持ちになった。

 あやめたち三人は戻ってきて、皆あれこれと冗談を言い合って、亜由美ちゃんと演くんは挨拶をして帰っていった。

「みんなつながってきたな。欽ちゃんの店は人を集めるちからがすごいな」

 僕は心の揺らぐ先を見据えたように言った。

「人柄のなせるわざだね。あんな店主になれたらなあ自分も」

 あこがれを込めた口調であやめが言った。

「それぞれの色があっていい。あやめはあやめらしく。人と人が全力でぶつかり合うような、そんなところが魅力になるだろう」

「全力でぶつかり合う雑貨屋なんか行きたくないな」

 あやめは静かに笑った。

「それもそうだな」

 僕も笑った。そのとき僕の電話が鳴った。千影からであった。正直出るか出ないかで迷った。僕はなぜ、うしろめたさを感じているのだろう。簡単だ。千影に女を感じてしまっているからだ。ただ、あやめを差し置いて千影に乗り換えようとか、そういう気持ちではまったくない。僕は電話に出た。縁台から立ち上がり、数歩ぐるぐると歩き回りながら。

「はい、どうした?」

 幾分情けない声を出してしまった。

「いま大丈夫ですか?」

 電話というのは、大丈夫ではないときにかかってくるものである。

「大丈夫だけど、短めに」

 僕は焦りの色を隠せなかった。

「いまから、御茶ノ水につき合ってもらえませんか。ベースを買いに行きたいんです」

 約束をして一緒に行くという行為が、ずいぶん特別なことのように思えた。

「いいよ、わかった。一時間後に、御茶ノ水駅」

 多少タイトな時間設定だったが、千影に詳しく告げるほどの余裕はなかったので、それで済ました。

「はい」

 僕はあやめに用事ができたと話して、店をあとにした。あやめは必要以上にプライベートに関与してこないタイプなので、それを利用した形でもある。心に痛みを感じなかったと言えば嘘になる。

 僕は予定通り、一時間後に御茶ノ水に到着していた。知り合ったばかりの女性と待ち合わせて出かけるなど、何年ぶりだろうか。思わぬ展開に胸が破れるように高鳴って、居心地が悪くひどくそわそわした。

「ごめんなさい! 電車が遅延してしまって!」

 千影は会うなり、そういって申し訳なさそうにした。前回、河川敷であったときとは雰囲気が違った。なぜ雰囲気が違うのか考えて、それは私服だったからだということに気づいた。考えなければ服装に意識が及ばないほどに緊張していた。

「いいや、全然問題ない。急ぐ用でもない」

 駅を出て通りに入ると、道路の両側に楽器店が続いていた。僕たちは、一軒一軒つぶすように、店内をくまなく見て回った。

「かわいーっ! このベースかわいくないですか!」

 黄色いレスポールスペシャル型のベースだった。レディース専門のアパレルで働いているので、女性のかわいいの基準はそれなりに理解しているつもりだった。

「試奏してみたらどう?」

「なんかはずかしいですね」

「大丈夫。店員さん呼んでくる」

 僕は奥のほうに入っていって、デニムのエプロンをかけている店員さんに声をかけた。店員さんはすぐに来てくれて、ベースアンプに接続し、なれた手つきでチューニングを合わせた。聴きなれたベースの音が、周囲の空気を振動させていた。

「はい、どうぞ。けっこう重いですよ」

 千影は店員さんからベースを受け取って、適当なフレーズを弾き始めた。両手が別々の意思を持ったように動き回る。

「彼女さんめっちゃうまいじゃないですか」

 いや彼女じゃ――と否定しようとしたが、たいして意味がないと思いそのままにした。ベースはブンブンとうなっている。

「なるほど! ありがとうございます! ほかにも見てみたいので、お店を回ってきます。気になったら戻ってきます」

 と千影は言って、ベースを店員さんに返した。千影は乱れたスカートのプリーツを軽く直した。

 別のお店に行き、

「それなんかどう?」

 とすすめたり、千影が気になったりして、数本のベースを試奏した。だんだんとお互いの気持ちに余裕が生まれ、やっと楽器屋めぐりが楽しくなってきた頃だった。

「オーダーメイドで作ってみたいな。卒業祝いに」

 と千影が言った。僕は、

「いいと思うけど、高いんじゃない? もちろん自分は頼んだことないけど。とりあえず、見積もり出してもらってみる?」

 オーダーを扱っているお店に相談すると、専門の店員さんがついてくれて、専用の階に移動した。はじめて行った寿司屋で時価と設定されているものを注文するときのような緊張感を覚えた。

「形はレスポールが基本ですか? ピックアップはふたつ? コントロールは?」

 などという、初心者にはわからない会話が繰り広げられた。ほかにも音質の特徴などについて質疑応答が続いた。そして一応の完成形ができ上がった。見積もりは六十万円だった。

「六十万かあ――どうしようかな」

 と千影は躊躇した。僕としては躊躇すること自体ありえない金額であった。

「千影ちゃん、そんなお金あるの」

 僕は頼りないほど素直に思ったことを述べた。

「いまはないですけど、貯められます」

 よほど給料のいいバイトなのだ。やはり女を売るバイトに違いないと思った。全身を冷や汗が走って視界がぼやけ、息が詰まって顔がこわばった。

「じゃあ、今日のところは、という感じかい?」

 店員が千影に見積書を渡した。

「そうですね。今度くるときは、買うときです」

「そのときもつき合わせてもらうよ」

 なんの他意もなくそう言ったつもりだったが、なれなれしい気もした。

 僕たちは駅前でロースカツカレーを食べた。千影はスレンダーなからだつきの割に、ぺろっと平らげた。カレーの行方はちょっと見当がつかない。

「おつかれさま。けっこう歩いたね」

「歩きましたね。ほんとセイさんに一緒に来てもらってよかったです。ひとりだったら試奏も見積もりもできないで帰ってるところでした」

 役に立ったのならなによりである。うしろ暗い思いをしてまで千影のもとに駆けつけた意味はあった。そう考えることで、あやめへの罪悪感を軽くした。

「バンドやってるって言ってたけど、どんなのなの?」

「けっこうはげしいやつです。ヘッドバンギングとかしちゃうやつ」

「意外だな。欽ちゃんに来る人ではいないタイプだ」

「そういうの好きだけど、言ってないだけかもしれませんよ」

「謎の人の集まりだからね、あそこは。ほじくればいくらでも何か出てくる」

「わたしもほじくれば何か出てくると思いますよ。面倒な事実も」

 なぜいつもそんな思わせぶりな言いかたをするのだろう。すでにその面倒な事実に近づいているのだ。なんらかの形で女を売っている。こんなにも美しい、純粋そうな女の子がなぜ、という疑問は、自分を納得させられるだけの共感力と想像力に欠け、偏見に満ちた人間のたわごとである。僕はそのたわごとを言う側の人間であった。

 僕たちは歩きながら会話をして、御茶ノ水から電車に乗り、地元に帰った。千影とは駅で別れて、僕は家に帰るはずだった。しかし、どうにも片付かない気持ちだった。僕は足の方向を変え、荒川に沿った道へ出ることにした。

 荒川には夕焼けが写って美しかった。いつもと同じ色なのに、今日はいつもより悲しく見えた。風がすこし吹いていて、河川敷の芝をときどき掃くようだった。僕は斜面をおりていって、芝生の上に座り込んだ。適当に芝をもぎ取って、風に流した。なにひとつ残っていない自分の指先を見て、自分がとても役立たずに思えた。

 胸の奥がもやもやして、息苦しくなっていた。歩いてきたせいではない。いてもたってもいられない感じだった。千影のことが気になって仕方がない。僕のいまの気持ちをロマンチストの欽さんに話したら、恋だろうと言われるかもしれない。僕はそうは思わない。ただ、事実があるだけである。別れてすぐなのに、彼女に会いたい。会っている間は、余計な妄想をせず、目の前の彼女を見ていればとりあえずの安心が得られる。彼女の笑顔を見ていると、妄想などはどうでもいいように思えてしまう。いなくなると、急に気になるところだけが浮かび上がってくる。彼女は僕に秘密を明かそうとしている。かといってすべてを語ろうとはしない。彼女の意図はどこにあるのか。僕は白痴のように、一切わからない振りをしていればいいのか。それともとことん追求して、彼女から真実を聞き出すべきなのか。何のために? 彼女が僕に求めているものはなんだ。求められていると思っていることがそもそも思い上がりなのか。たった二回会っただけの分際で。そうだ、そうに違いない。自意識過剰だ。ああ、握手をしたのが馬鹿みたいだ。友達で、なんてくだらない。向こうはなんとも思っていないはずなんだ。わたしの美しさにやられたのね、と心のなかで笑っているのかもしれない。なんて滑稽な。僕はこれからも白痴でいる。彼女の思い通りになんかならない。距離を保つんだ、彼女を女としてみるなんてくだらない。踏み込むな。彼女も僕を男だとは思っていない。そこは間違うな。わっさんの娘じゃないか。ひとりの人として、僕は彼女を大事にしよう。欽ちゃんのところに集う、ミュージシャン仲間だというのが適切な関係の表現だ。

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