八〈あやめ〉
「セイくん、今日ガールズバーに行ってるってよ」
欽ちゃんがいつもの調子で言った。わたしは今日も欽ちゃんで飲んでいる。
「はあ? なんで?」
いつもの調子で言ったつもりだったが、攻撃的な口調になってしまった。そりゃ知らない女ばっかりいるところに飲みに行ってたら腹も立ちますよ。
「わからない。さっき飲みにきて、これから行くって言ってたよ。理由を聞く前にさらっと一杯飲んで出ていった」
「なにそれー。それってさあ、気つけで飲んでいったんでしょ。セイがそんなことするってことは誰か狙ってる女がいるんだな。くそー」
「なんとも言えないけど――あいかわらず不思議な関係だねえ。ふたりは」
わたしはその言葉に反応せず、
「まあいいや。あたしもあとでどっか行ってくるわ」
と言った。
「それ飲みすぎるパターンでしょ」
欽ちゃんがすかさず言い切った。
「ばれたか。ガールズバーって前にひなちゃんが働いてたところ?」
「たぶんそう」
「ひなちゃんビッチ卒業したと思ったら、一気に結婚だもんなー。人生はわからんねえ。ひなちゃん、ほんとよかった。心から祝福する。なんも変わんないのあたしくらいなんじゃないの」
「諸行無常。変わらないものなんてないよ」
「出た、釈迦。そりゃわかってるけどさあ。あーもー大幅に変えたいなら自分が動くしかないんだよね」
わたしは飲み途中だったグレープフルーツハイを一気に飲み干した。
「欽ちゃん、会計!」
「よっ、行くかい。えーと、一三八〇円」
わたしは駅に向かい、電車を乗り継ぎ、以前友達に紹介されて行っていい感じだった中野のバーに行くことにした。電車に乗ると、電車はそれなりに混んでいて、窮屈だ、ストレスだ、あのまま欽ちゃんで飲んでたほうがよかったかな、などど考えた。
ほどなく電車は迷いを断ち切るように容赦なく走り出し、酒でむくんだ脳を揺さぶった。数分走ったところで、突然女性の鋭い声が上がった。
「なにするのよ痴漢!」
声の主は意思の強そうなしっかりとした眉を引いた二十歳くらいの女性だった。
「あたしは見てたよ! 嘘つくな!」
わたしはそう声を上げた。
「そうよそうよ! この人ずっとわたしのお尻触ってました!」
声の主はそう叫んだ。しかしわたしはさらに大きな声で叫んだ。
「違う! おまえ! なにも触られてないじゃん! この人の右手はずっと吊革握ってたし、左手はカバンを引っかけて右手に添えてた! あたしこの人のカバンについてるホヤぼーやが気になってちょいちょい見てたから間違いない!」
「なんなのあんた!?」
女も負けじと叫んだ。
「は? なんなのじゃねーよ! つぎで降りるか? 警察呼んではっきりさせてやろうじゃん!?」
「めんどくせえ女だな。もういいよ」
仲間らしい男が言った。
「おっ、なんだ? 冤罪詐欺か? 突き出してやるから降りろ!」
男たちは満員電車から降りて逃げるように人ごみに消えていった。
「いいの? ほら行っちゃうよ!」
わたしは痴漢呼ばわりされた男性に叫ぶように問いかけた。
「いいですいいです、大丈夫です! ありがとうございました。ちょっと降りましょう」
人のよさそうな男が、わたしをなだめるように言った。わたしたちは新宿の駅で降りて、ホームのなかほどに移動した。
「すみません、ありがとうございました。助かりました。またの機会にお礼をさせてください」
男は連絡先を交換する素振りを見せたが、すかさずわたしは、
「今日の機会じゃだめ? 忙しい?」
と言って男の表情をうかがった。
「いや、これからコンビニ寄ってごはん買って帰るだけです」
「なんだ。それなら問題ないじゃん。お礼は酒でどう? 新宿あんまり詳しくないからお店は任せるよ。いこいこ」
「えーそんな急に! 僕も全然詳しくないですよ! ゴールデン街くらいしか行かないです」
男は大げさに手を振って否定した。
「すごいじゃん! ゴールデン街なんて大人の街って感じがして素人は行けないイメージあるよ。でもあれか、ゴールデン街は飯屋ないか? ごはん食べたいって言ってたもんね」
ホームの雑音に消されないように大きな声でわたしは言った。
「大丈夫です。僕がたまに行くお店なら出前が取れます」
「そこに決定!」
わたしたちは駅を出てゴールデン街の方向に歩きはじめた。その間、
「お勧めのメニューなに?」
「麻婆豆腐です」
「四川風?」
「それはちょっとわからないですけど、結構からいですよ」
「いーねー。からいの大好きだからあたしも頼も」
「ちなみにそこは文壇バーです」
「分断――なにそれ?」
「小説書いたり読んだりする人が集まるお店です」
「気難しい奴集まってそうだなあ。実はさ、あたしも小説書くんだよね。ただの趣味だし、いや、趣味というか暇だったから一作書いただけなんだけど」
「それは意外です! 読んでみたいです」
などという会話をした。
そのうちに、ゴールデン街の門が見えてきた。わたしたちは門を入ってすぐの場所にあるそのバーに入った。せまいカウンターの端に座り、彼の入れてあったキンミヤのボトルのウーロン茶割をふたりで飲んだ。同じようにふたりで麻婆丼を頼み、ほどなく平らげた。花椒のしびれがたまらない本格四川の味だった。
「めちゃめちゃうまい。最高なんだけど。あたしも麻婆豆腐好きで作るけどこの味は出せないわ。酒がすすむな。つまみにして飲めばよかったな」
「それはよかったです。たしかに残しとけばよかったですね。まあ、お酒のほうでしたらボトルはまだまだありますから、どんどん飲んじゃってください。お酒に強そうだし」
彼の物腰からは女を酔わせてどうこうしようという考えは感じ取れなかったので、それなりに飲んでしまおうかなという気になっていた。
わたしは全然気にしていなかったのだが、彼が
「そろそろ終電の時間じゃないですか」
と指摘してくれた。
こういう気遣いは嬉しいが、場合によってはもう帰りたいという意思表示に聞こえるので判断に困ることがある。わたしはもう少し飲んでいたかったので、一回会計して、自分だけが残るという提案をした。
「それなら、一回会計だけしましょう。僕もまだ飲みたい気分なんで、ここから別会計にしましょう。ごちそうさまでした」
それから二時間、わたしは呂律があやしいレベルまで酔っぱらってしまい、もう家に帰りたい気分になっていた。しかしもう電車はない。かといってタクシーに金を使う気もない。ネカフェか。と考えていたタイミングで、彼がそろそろ帰ると言った。帰りはどうするのかと聞いたら、歩いて帰るという。ひとまずわたしたちは会計を済ませ、店を出た。
「あやめさんはどうするんですか?」
「ネカフェかなと」
正直なところ泊めてくれと言いたかったが、あまりにも図々しいのと、相手が自分を女性と認めてくれればの話だが、身の危険と、セイに悪いかなという考えが頭のなかをぐるぐるして言えなかった。そんなことを考えながら彼のほうをちらりと見ると、彼もなにか言いよどんでいる感じで、ふたりとも店を出たところで立ち止まってしまっていた。じゃあわたしから去ろうと決めたところで、彼が多少どもりながら、家でよければ泊まらないかと言ってきた。
「いや――それは嬉しいんだけど――いいの?」
「逆にいいんですか、あやめさん?」
「いい! セックスしたいとか言わないから! すみません、お世話になります!」
余計なことを言ったなと思いつつ、わたしは向かう方向もわからないのに適当に歩き出した。
「あやめさん、逆です」
そうしてわたしは彼の家へと向かった。道中ふたりとも飲み疲れてしまっていて、たいした会話はしなかった。わたしはもともと二人っきりのときの無言が気まずいと思わない性質だったので、特に気にもとめなかった。彼の背中からは何も読み取ることはできなかった。
十五分ほど歩いて、四階建てのこぢんまりとした黄色いアパートに着いた。そこの二階が彼の部屋だという。
「ちょっと片付けますから、待っててください」
そう言って彼が鍵を回してドアを開けたとき、甘い香水のような匂いが部屋のなかから漂ってきた。女が住んでる? という思いが頭をよぎったのと同時に、面倒な展開になるのは困るなと嫌な思いがした。彼は一度ドアを閉め、わたしはしばらくドアの前で待った。多少酔いがさめてきているようだった。
「すみません、どうぞ。変な部屋なんで、ビックリしないでください」
ちょっとやそっとのことじゃあたしはびっくりしないぜ、と思いながらわたしは彼の家に入っていった。わたしはびっくりした。部屋の壁すべてに、ハンガーにかけられた女子高校生の制服があったからだ。
「なにこれ!?」
わたしは一瞬で、真由子さんの仕事を思いだした。女子高校生の制服を扱うネットショップでも運営しているのではと考えた。
「全部、本物の高校の制服です。リボンやネクタイもこの通り」
彼はタッパーウェアーに大事そうにしまわれたそれらをわたしの前に差し出した。そのあと、箱にしまわれた茶と黒のローファーも見せてきた。
「コスプレマニアショップ?」
「違います。全部自分用です」
「どういうこと?」
彼はテーブル前に腰掛けるようにうながし、お茶を出してくれた。四方を制服に囲まれて飲むお茶の味は不思議だった。まったく落ち着かない。彼はゆっくりと制服たちの用途について語り始めた。
「全部、僕のオナニー用です。僕、女子高校生以外に興味ないんです。かといって、高校生に手を出すのは犯罪です。そういった本物の動画を見るのも犯罪です。じゃあ、女子高校生モノのAVではどうかというと、プロの女優では興奮できません。じゃあどうするかと考えた結果、女子高校生をイメージできるアイテムを揃えて、日替わりでそれらを組み合わせて、これを着ている高校生はどんなだろう、と妄想しながらオナニーをするという結論に至ったんです。もう匂いには気づいていると思いますけど、香水もそれぞれのキャラに合わせて嗅ぎながらやるんです。たとえば、フィアンセという香水はシャンプーのいわゆる女の子の甘い匂い、プチサンボンは甘酸っぱさの効いたアクティブな女の子のイメージ、マリアリゲルはちょっと背伸びしたい女の子にぴったりな大人のイメージ、といった具合です。どうでしょう。気持ち悪いですよね。今日ここにきたことを後悔してますよね?」
わたしは後悔していなかった。ちょっとこれをネタに小説を書いてみたいと思った。
「そういうことですから、絶対にあやめさんに手を出すことはありません。そういった意味では、後悔することはないと断言します」
その言葉を聞いて、試しに全裸になって股でも広げてやろうかと思ったが、無反応だった場合のみじめさが尋常でないと予想されたため、無謀な行為は慎むことにした。
「いいっていいって、まったく問題なし。人みんなそれぞれあるからさ。罪を犯さないように考えた結果ってのは偉いと思うよ。実は自分はAVみるのが趣味なんだよね。好きな男優いるし。それはそうとさ、さっき駅前にサブウェイあったじゃん? 朝飯サブウェイ食おうぜ」
もう寝るだけなので、頭はすでに明日のサブウェイになっていた。
「はい。おすすめがありますから明日食べましょう。ひとまずあやめさんが引かなくて安心しました。この秘密を打ち明けたのはあやめさんがはじめてなんです。男友達にも言ってない。そもそも部屋に連れてきてません。あやめさんならなんだかわかってくれるなって思ったんですよね」
えらい買いかぶりだと思いつつ、
「まあ、心は広いほうだからね。あっはっは」
と言って処理した。
それから風呂に入らずシャワーも浴びず、わたしたちは一緒の蒲団で寝た。彼の家には蒲団が一組しかなく、他に蒲団に代わるものがなかったからだ。わたしの提案で、お互いが上下さかさまになるように寝た。目を開けると、そこにはお互いの足があるのだ。魔が差してもキスはできない。きょう一日中ブーツを履いていたので足がニオっていたら嫌だなと思っているうちに、眠りについてしまった。
翌日、目を覚ますと彼はもう身支度を整えていた。しかし仕事は休みだというので、わたしは一度近くのコンビニに歯ブラシを買いにいって、彼の家に戻ってシャワーを浴びさせてもらった。
自分の仕事の話はまだしていなかったので、彼はわたしが半無職だということは知らなかった。義務感というのとは違うが、今度会ったときには自分の状況を話そうと思った。わたしたちは駅前のサブウェイでおすすめのサンドイッチを食べて、駅で静かに別れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます