九〈セイ〉

よく晴れた日の昼頃、ある作業を手伝うために欽ちゃんに行った。

「なんだい、文学少年かい」

会うなり、欽さんが僕の持っている内田百閒の随筆を見てそう冷やかした。

「最近、内田百閒にハマっているんですよ。まとめて五冊くらい買っちゃいました」

「聞いたことない作家だなあ。ちょっとさ、商品の補充とかしちゃうから適当に座って待ってて」

「了解しました。百閒は夏目漱石の門下生なんですよ。独特の文体が面白いんです。頓知がきいていて。ああ、こんな言い回しができたらなぁと思うところが多々あります」

 僕は持参のペットボトルのお茶で喉をうるおした。

「めっちゃ大きな液晶ですね。これがタダですか。マトリックスに出てきそうな感じですね」

 テーブル席には友人からもらったという40インチの国内メーカー製の液晶テレビが置かれていた。僕は表から裏までぐるりと見回した。特に裏側の金具の位置を確認しておいた。

「チューナーが壊れちゃて、ビデオしかみれないんだって。でもパソコンがあるから、動画を流したりはできるなと思ってもらったんだ」

 欽さんは瓶ビールの補充をしながら話した。キンキンとガラス同士がぶつかり合う音がしていた。

「たしかにその用途なら問題なく使えますね」

 僕はまたお茶をひとくち飲んで、気合いを入れるために指と肩を鳴らした。

「さて、やろうか。このL字の金具を使って取りつけようと思ってるんだよね」

90度に折り曲げられた長いアングルを使って、40インチの液晶を壁に取り付けようというわけである。専用の金具は高価なので、安価なアングルで済ませたいのだ。

ふたりでしばらくいじくり回し、あれこれ検討した結果、予想以上にうまい感じで金具の取りつけかたが決まった。

「いいねーっ。こうやってバッチリ決まると嬉しいよね」

「まったくです」

欽さんがボルトとナットを液晶側に取り付けていった。こういう作業はなぜか見入ってしまう。ふたりとも無言であった。そして最後の一締めが終わって、

「さて! 壁に取り付けようか!」

「やりますかぁ!」

 ふたりとも無駄に気合いの入った大きな声を上げた。

「セイくん悪いんだけど、液晶持ち上げててくれる? その間にボルト入れちゃうから」

「は、はい!」 

重い。腕が張って痛い。ぶるぶると震えてしまう。

「よし、そこ、もうちょっと下、あと5ミリ、おっしゃー! 入った!」

「入りましたね! これが決まっちゃえばあとはもう簡単ですね」

 そして欽さんがすべての穴にビスを差して締めていった。

「きたーっ! 最高!」

 僕たちはハイタッチした。無事に欽ちゃんがサイバーになった。男のロマンなのか、なんだか異常にワクワクしてしまう。

「あとはケーブルをつなげて映像テストですね」

「それがさあ、ケーブルまだ買ってないんだよね」

「そんなときのワット電気店じゃないですか!」

「あ。すっかり忘れてた」

「僕行ってきます!」

 わっさんのお母さんが店番をしていた。いままでは奥さんが店番をしていたが、奥さんは先日入院してしまったのだ。

「すみません、HDMIケーブルが欲しいんですけど」

「エイチエムデー? あたしじゃわかんないねぇ。お客さんそこらへん探してみてもらえる?」

「わかりました! えーっ――えーと――あ! これだ! 10mケーブル! これでお会計をお願いします」

「はい、ありがとうございました」

 僕は欽ちゃんまで走りながら、液晶のさまざまな用途を考えていた。わっさんやロックンロール氏が歌うために歌詞を表示させたり、ライブ映像を流したり、映画を流したりもできるだろう。カラオケ動画に関しては著作権関係がうるさいので、やめておいたほうが無難だろう。まさかAVを流すことはないだろう、そんなことを考えているうちに欽ちゃんに戻った。

「欽さん、ありましたよ!」

「きたね! 早速つないでみよう!」

 パソコンから壁際にケーブルを取り回して液晶に接続した。

「結構きれいに映りますね!」

「バッチリだね!」

 とりあえず欽さんはYouTubeで昭和歌謡を流しはじめた。気分がサイバーになっていたところに、それは妙にアンバランスに聴こえた。

そのとき、黒髪ショートの、切れ長の目が印象的でクールな、高校の制服を着た、細身の美少女が、なんの前触れもなく欽ちゃんに入ってきた。

「こんにちは、千影ですが覚えていらっしゃいますか。わっさんの娘です」

 わっさんからこんな美しい少女が生まれるとはとても思えない。実の子なのか? 実の子だとすれば完全な遺伝子エラーである。

「もちろん覚えてるよ」

 欽さんはいつもより明るい調子だった。液晶の件がうまく済んだからだろう。

「今月ライブがあるんですけど、ベースのヘッドが折れてしまって。もし欽さんの奥さんが使っていないベースをお持ちでしたら、お借りしたいなと思いまして」

僕は千影を前にして、目のやりどころに困った。美しい人というのは自然に見たくなってしまう。しかし見ていることを相手に気づかれると窮屈になる。だから視線を落として手の辺りを見るようにした。そのとき千影の手に太宰治の小説があることに気づいた。

「いま電話して嫁に聞いてみるよ。ちょっと待ってて」

 小説について話を持ち出そうかと一瞬考えたが、その作品について自分以上の知識があると話が続かず参ってしまうので、やめることにした。

「店に置いてあるピンクのベースだったら持って帰っていいって。二万もしないベースだから、気軽に使ってと言ってたよ」

 欽さんはベースを千影に手渡した。少し重そうに受け取った。

「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」

 千影は頭をひょこっと動かしてお辞儀をした。どんぐりが転がったようであった。

「せっかくひさしぶりに来たんだから、なんか一曲聴かせてよ」

 千影はちょっと寄り目のようにして空間を見て、考える素振りをみせてから、

「緊張しますね」

 と言った。

「YouTubeで音源流すから」

 欽さんはすでにキーボードに指を置いて待機している。

「じゃあ曲名入れてもらっていいですか? 曲名は――」

 曲名を言いながら、ベースのストラップを肩にかけた。頭を通すときに髪がストラップに引っ掛かって、前髪が少し乱れた。乱れた前髪をなれた手つきで素早く直した。

「再生するよー」

 このあとの彼女の演奏に、完全に心を奪われた。僕の浅い音楽知識ではうまく表現することができないが、輝いている、という言葉が適切ではないかと思った。曲が終わると同時に、素晴らしい! と賛辞を送った。

「ちょっと間違っちゃった」

 と言ってはじめて見せた笑顔は、人の心を奪うには充分だった。再びストラップに頭をくぐらせ、ベースを手に持った。

「すごいなぁ。なんか根本的な何かが違うよね。俺とは」

 欽さんは腕を組んで、しみじみと言葉を発した。

「さっきさ、太宰治の小説持ってたけど、文学好きなの?」

 僕は深入りしない形で、そう聞いてみた。

「文学というか、子供の頃から本が好きなので、自然と読むようになりました。純文学の代表的な作品はほとんど読んでいると思います。なんとなく読み返したくなって、いまは太宰を持ち歩いているんです」

 思慮深い利口そうな話しかたであった。自分が彼女の歳の頃は比べ物にならないくらい馬鹿でいい加減だったように思った。

「かっこいいなあ。僕は文系の大学を卒業してるんだけど、なにもかも中途半端でどうしようもないよ」

「機会があったら文学談義したいですね」

「いやいや無理無理。絶対ついていけない」

 ちょっと否定が過ぎたかなと悔やんだ。談義したい気持ちは充分にあった。

「この絵? 誰の絵ですか?」

千影が奥のテーブル席にあったフォトフレームに入った絵に気づいて言った。

「最近なんとなく暇な時間に書いてるんだよね」

 と欽さんは言って、スケッチブックを取り出してほかの絵も見せてくれた。白黒二色で描かれた絵である。絵のことはよくわからないが、色がないのがすごく素敵に思えた。

「欽さんが書いたんですか」

 思わず改めて確認してしまった。まさか欽さんにこんな才能があったとは。

「すごい」

 千影はフォトフレームを手にとって固まっている。

「ヴォイニッチ手稿みたいですね」

 僕と千影はまったく同じことを言った。架空の植物と思われるような部分が、手稿に似ているように感じた。

「ボイン、ボインニッチ? 売ってくれってお客さんがいるんだけどさあ、さすがに売るわけにはいかないから、百均の額に入れてあげちゃおうと思って」

「いやこれは売れますよ。素晴らしい。こっちの絵はなかなか刺激的ですね。永山則夫に似た狂気を感じる」

 と言ってしまって、たとえが悪かったかなと思い、欽さんの返答を不安に思った。

「死刑囚? でもたしかに僕の心のなかには、そういった攻撃的な部分があるのは否めないなあ」

意外と好意的に受け止められたので安心した。

「これからもぜひ書き続けてほしいですね」

 千影の答えには嘘がないように思えた。僕の、

「たのしみにしてます」

 のほうがよほど社交じみていた。

「さて、ぼくはニュートリノ浴びてきます。天気がよくて気持ちよさそうなので」

「素粒子のうちの中性レプトンの名称。電荷を持たない。質量は非常に小さいが、ゼロではない。透過性が非常に高い。そのため観測が難しく、高感度のセンサーや大質量の反応材料を用意する必要がある。たとえばスーパーカミオカンデ」

 千影の答えに心底びっくりした。僕よりよほど詳しい。とてもにわかには太刀打ちできない。

「すごいな。よく出てくるもんだ」

 欽さんが素直に感心する。

「わたしもニュートリノを浴びに行きたいです」

 どこに行くとは決めていなかったので、

「どこに」と聞くと、

「荒川河川敷」

 と主導権を握られた。

「僕といるところを誰かに見られたらまずくない?」

「もっと見られたらまずいことがあるので大丈夫です」

という千影の言葉を聞いて、こんなにも美しい女子高校生が考える、見られたらまずいこととはなんだろうと詮索したい気持ちになった。しかし初対面のいま詮索するというのはずいぶん無遠慮だし、お互いの距離を縮めすぎることになる。ここはあいまいのままにして、また別の機会に持ち越すべきだと考えた。そう努めて冷静に考えるようにしていたつもりだったが、見られたらまずいという言葉のなかに潜む性的な想像を除外するのは困難で、自分がとてもいやらしいものに感じられた。同時に千影に強く惹きつけられている自分を発見した。

「じゃ、行こうっか」

 千影はコートを着て、ベースをソフトケースにしまって背負った。

「真っ白なコートか。美人以外は着ちゃ駄目なやつだな」

 と僕はなんの気なしに言った。僕たちは暖簾をくぐって外に出た。するとすぐに、

「スカーフェイスにも似合うと思います」

 と特にこれといった考えもなさそうに千影が答えた。

 その答えが意外だったので、僕はちょっと考えの方向をずらす必要があった。そうして出た答えに戸惑ったが、その通りに発言した。

「アル・カポネか」

 彼女がベースを演奏しているときから、右頬に上から下へ長い刀傷のようなものが走っているのには気づいていた。僕たちは河川敷に向かって歩き出した。

「アメリカのギャング。密造酒製造・販売、売春、賭博。刀傷がある人間は昔からまともな仕事はできないって相場が決まってます。ラッキー・ルチアーノも。こちらは強制売春」

 言いなれているのか、流れるように話した。

「いや、まともな仕事ができないなんてことはない。はじめっからそう諦めてしまってはいけない」

 千影は無言だった。僕はコートの話を持ち出したことを悔やんだ。

僕たちは半時間ほど歩いた。普段あまり歩かないので、なかなか大儀であった。僕はスカーフェイスのことがあったので、会話を切り出す気が起きなかった。千影もなにも話そうとはしなかった。道路をたどるために視線を落としたまま、目を盗むようにして隣を見ると、グレーのチェックのスカートが揺れていた。それはいつか見た光景のようでもあったし、いつか見たいと思っていた光景のようでもあった。

河川敷は最高の天気だった。風もなく、あたたかかった。緩やかに傾斜する芝生の上に寝転んだら、さぞかし気持ちいいだろうと、その光景を目の前にして考えた。

「寝転がったらコートが汚れてしまうな。かといって脱いだらまだ寒いだろうな」

 千影は無言でいる。千影は都合のよい言葉が浮かばないときは無駄に発言して会話を汚すより、無言でいるほうを選ぶらしかった。

「そうだ。僕のコートを君が着て横になり、僕が横になって君のコートを上にかけよう」

 たいした提案でもなかったが、そのときは妙案のように思えた。

ふたりでその通りの格好になり、僕たちは空を見上げながら、ニュートリノを浴びながら話しはじめた。いまさらだが、ニュートリノはどこでも浴びられるのである。たとえば家のなかでも。蒲団のなかでも。

「いま何年生?」

「高三です。だけど早生まれで十七歳です」

「受験かあ」

「そうですね」

「高校は?」

 千影は、きわめて優秀な進学校の名前を答えた。

「すごいな。よほど勉強したんだろう」

「勉強は好きですね」

「僕もそう思って勉強してたら東大に入れた気がするんだけどなあ」

「千影ってどう書くの?」

「センのカゲです」

「光が強いだけに千の影が生まれる。そういうつもりで名づけられたのかな」

 千影は無言でいる。

「ベースはいつごろはじめたの?」

「去年ですね」

「去年! そりゃすごい。去年はじめてあれだけ弾けるなんてすごいよ」

 僕は素直に驚いた。音楽に詳しくない人が聴いても、技術の巧みさ、奏でる音の正確さは理解できるであろう。

「子供の頃から音楽そのものはやってましたからね。勘みたいなものは身についてるのかもしれません。作曲したりもしてましたよ」

「――失礼かもしれないけど、わっさんの娘だとはとても思えない」

「ちゃんと実の娘ですよ」

 僕はそんな千影の日常に興味を持った。どうやったらこんな優秀な人間に育つのか。

「普段、休みはなにしてるの?」

「本読んでるか寝てるかですね」

「どんな本?」

 文庫本か、読んでいても新書あたりかと考えていた。

「いろいろです。小説や実用書、哲学から医学、マンガももちろんあります」

「レベルが違いすぎる――今後、僕は趣味を聞かれても読書とは答えないと決めた」

「ちょっとしゃべり過ぎましたね。しばらくニュートリノに専念しましょうか」

 横顔を覗くと、千影は目を閉じていた。透明感があって、かつ真実を強く訴えていた。呼吸のたびに浮き沈みする胸が、なにか神聖なもののように目に映った。聞こえるはずのない、すやすやという音が、目を閉じると聞こえてくるような気がした。そんなことを考えているうちに、いつの間にか僕は心地よい眠りに落ちていた。

 目覚めると、こちらを向いている千影と目が合った。僕はそこに性的なものを見出して、分別がない自分を強く意識した。あやめへの後ろめたさも感じて、かえって性的な興味を強くした。

「さて、そろそろ帰ろうか。だいぶここでニュートリノを浴びた気がする」

 僕は思いっきり伸びをした。ついでに腕のストレッチも行った。

「そうですね。わりと聞かれる質問があるんですけど、セイさんはそれについては聞かなかったですね」

「なに?」

「バイトとかやってんの? という」

「ああ。僕の大切な人がバイトやってるか無職か微妙なところでね。あんまり仕事に関しての質問はしないようにしてるんだ。人によっては、されて困るだろうから」

「彼女いるんですね。いないほうがおかしいか。わたしは、おじさん相手にバイトしてます。簡単なバイトです」

もっと見られたらまずいことという先ほどの会話を踏まえたうえで、おじさん相手のバイトと聞いて考えられるのは、もはや女を売ることだけだった。だが、女を売るといってもその売り方には程度がある。最後まで済ますのか、途中までなのか。千影が行為に及んでいるところを不意に想像して、みぞおちのあたりが締めつけられるように苦しくなった。全身を冷や汗が貫き、そのまま深い穴に落ち込むような感覚にとらえられた。それは容易に平静には戻れない感情の発現だった。それを過去の感情にあてはめると、もっとも近いのは恋愛感情であった。そのなかでも片恋のさなかに抱く感情にひどく似ていた。

「まあ、簡単なバイトなんてないと思ってるけど。ちなみに、僕はおじさん?」

「お兄さんです」

「じゃあ、これからは友達で」

 と言って、僕たちは寝転がったまま握手をした。千影の手は異常なほど冷たかった。

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