七〈セイ〉
僕は少し前からベースに興味を持って、どうせやるならしっかりやりたいと思い、毎週日曜日に欽ちゃんでベース教室を開いている、欽さんの奥さんに教えを請うことにした。今日はその第一回目の教室だった。僕はさっき出された基礎練習をひたすらブンブンと鳴らしていた。一本一本の弦の音を切るのがきわめて難しい。
「そこはね、こうやって指を浮かせて――」
奥さんがひとつひとつおろそかにせず丁寧に指導してくれる。
そのとき、外から激しい自転車のブレーキ音がした。どうも欽ちゃんの前で停止したしたようであった。
「誰かしら」
と奥さんが言って、僕はベースを弾くのをやめた。
ふたりでちょっと外の気配をうかがっていると、ガラりと店の引き戸が開いて、あやめがあらわれた。あやめのうしろには、真由子さんから借りた赤いアシスト自転車が止まっていた。
突然だったので沙々ちゃんの件を思い出し、また何かあったのかと不安になった。
「こんにちは! 練習どんな感じなのかと思って覗きにきちゃいました。えへへ」
あやめは妙に嬉しそうにニヤニヤしていた。
「そうだったの! お茶入れるから、ちょっとゆっくりしてって」
奥さんがふたり分のお茶をいれてきてくれた。
「いただきます! あーっ、うまい! 温まります、といったところで、わたしはそろそろ」
あやめはほとんど一気するような勢いでお茶を飲み干し、すぐに帰ろうとした。
「ええっ! もう行っちゃうの? ゆっくりしていけばいいのに」
奥さんはありのままに言って眼鏡越しの目を丸くした。
「ありがたきお言葉。でも邪魔になっちゃうし、セイとはこのあと三時からうちで会うことになっているんで」
あやめは照れ隠しに、ちょっとおどけた感じで語尾に色をつけた。
「そうなの。じゃあ、また今度ね」
奥さんは残念そうだった。
「はい、お邪魔しました!」
あやめが軽く頭を下げたので、
「あとでなー」
と僕は軽くあやめに手を振った。
それから一時間ばかり練習をして、激安受講料を払って帰り支度をした。奥さんから帰り際にリンゴを三個いただいたので、あやめとおやつに食べようと考えた。
帰り道、歩くたびにリンゴを入れたレジ袋がシャカシャカと鳴って、なんとはなしにリズムを取っている自分を発見した。ベース練習の影響だろう。
あやめは縁側でぼーっとしていた。猫がいないので張り合いがないのだろう。でも僕を見た瞬間にサッと飛んできて、レジ袋の中身を改めた。
「食べよ。食べよ」
と言って手もとに引き取った。説明する前から自分の物である。
その日は、あやめが日曜大工で本棚を作ることになっていた。以前僕が作ったものと同じ仕様のものをである。材料は前もって揃えてあったので、おやつのあとにすぐ製作に取りかかった。
あやめはノコギリを持って、
「ぐぬぬ。切れぬ。刃が入っていかぬ」
などと言いながら、完全なへっぴり腰であった。仕方がないのでとっかかりのワンストロークを入れてあげると、なんとか切りすすむことができた。要領をつかんだようで、一時間ほどかかってすべての板を切り終えた。
「よーし。つぎはビス打ち」
「ちょっと休もうよー」
「日が暮れてしまうぞ」
などというやりとりをしながら、塗装やアンティーク加工を終え、無事に本棚が完成した。自分のことのようにほっとした。
「やたーっ! ねえ、うまくない? うまくない?」
あやめは本棚の角度をいろいろ変えて、僕に見せつけた。
「うん、上出来だ。はじめて作って、ここまでできればたいしたもんだ」
端材やおがくずの片づけを済ませて、ふたりで縁側で休んだ。ホットのルイボスティーを飲みながら、会わない間にあったことを話した。かなりの頻度で会っているので、あまり新しい話題はなく、楽しかった思い出などを語った。
真由子さんが買ってきた庭に置かれたポインセチアの鉢植えがとてもあざやかで美しかった。花を美しいと思える人とは友達になれそうだが、花畑を踏み荒らすような人とは友達になれない。殺意をおぼえてしまうかもしれない。そんなことを考えた。
「さて、設置してみるか」
立ちあがって、あやめの部屋に向かった。本棚は大事そうにあやめが抱えていた。
「ちょっとトイレ」
と言って、あやめは本棚を僕に渡して用を足しに行った。
テレビの横に、前回作った本棚があった。しかし、本ではないものが入っているように見えた。しかも、背表紙がない。前後を反対に入れて、背表紙を見えなくしているようだ。数はかなりある。ぼくは不思議に思って、その謎の物体をひとつ取り出してみた。表を改めると、妙に肌色の多いパッケージが目に飛び込んできた。それは間違いなくアダルトビデオであった。
「ちょ、ちょっと、だめ! やめて!」
トイレから出てきたあやめがすごい勢いで飛んできた。そのままの勢いで止まることができず、畳の上をすべって、アダルトビデオの入った本棚に突っ込んだ。その勢いでアダルトビデオが飛び出し、あたり一面に散乱した。
「ぎゃーっ!」
あやめは髪を振り乱して叫んだ。
僕はほかのアダルトビデオも拾い集めて確認した。あやめは抵抗する気力を失って、うなだれていた。
「これ全部アダルトビデオか」
「そう」
「好きなの?」
「趣味なの」
「いいんじゃない。なにも悪いことはない。僕はこういうのみないけど。今回作った本棚は、実はこれを入れるためだったんだな」
「理解があって助かるわ」
「さて、片付けて夕食にしますか。今日あやめは疲れているだろうから、僕が作らせてもらうよ」
アダルトビデオは、ふたりの共同作業によって再び本棚にしまわれた。
僕は冷蔵庫とそのまわりの常温保存品などを確認して、ここにある物で作ることができる料理をレパートリーから脳内検索、決定した。
「今日の夕食はパスタ風クリームラーメンです」
「うまいの、それ」
「失礼な」
僕は料理に取りかかった。ベースはコーンクリームである。ソースが完成すると手早く麺を絡めて、トングで麺が立ちあがるように皿に盛る。最後にドライパセリを散らして、二人前のできあがりである。
「わぁ、うまそう!」
とあやめが気持ちをあらわしたところで、中庭の縁側をぐるっとまわって、沙々ちゃんがこちらを覗きにきた。あやめがガラス戸を開けて、
「匂いに誘われて来ちゃった?」
と言って、沙々ちゃんを部屋に招き入れた。あやめはあの事件のあとも、それまでと変わらず何もなかったように彼女に接している。気を遣えば遣うほど、彼女は窮屈になる。やさしい彼女はきっと、隙を見せてしまった自分を責め、苦しむことになるだろう。
「ごめんね、二人前で麺が終わっちゃったの。わたしたちはふたりで一人前を分けて食べるから、こっちの一人前を持っていっていいよ。お母さんと分けて食べてね」
「いいの?」
あやめを見上げるようにして、申し訳なさそうな顔をした。
クリームラーメンを大事そうに持って、中庭の縁側をぐるっとまわって真由子さんのほうに戻っていった。
僕たちは残りのラーメンを食べながら、わっさんの話になった。
「わっさん、休み明けに奥さんの血液検査するって言ってただろう」
「うん」
「良くなかったらしいんだ。あやめには言っていいと言ってたから、伝えるよ」
「むずかしい話はわからないから、要点だけ聞いとくよ」
「検査の結果、胃がんだった。浸潤潰瘍型で、進行胃がんのなかでは最も予後が悪いものだそうだ」
「つまり、余命的な――?」
「まだそこまでは聞いてない。でも正直――みんなには絶対秘密だぞ」
僕は最後に語気を強めた。
「大丈夫。あたしを信用しなさい」
あやめは冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、小気味よい音を出して缶を開けた。
「あのさあ、しあわせって何なのかね」
あやめは自分なりに考えてみたものの、答えが出なかったのだろう。
「それがわかれば一冊の本が書けるよ」
「セイ的に、なんかまとめてみてよ」
あやめがほしい回答は、本に書いてあるようないわゆる名言ではないのである。
「もやっとした、まとまらない、自分でもよくわからない話になりそうだから、適当に聞き流してくれ」
「大丈夫。大丈夫。わからなかったら途中で寝る」
僕はしあわせについて語り始めた。無理な要求だったが、なんとか搾り出した。
「しあわせとは――まずはそれを考えられる環境があること。経済的にでも、精神的にでも。思考できる余裕があることが前提かな。そして、他人を尊重した上で、自分に自信が持てること。後悔がないこと、もしくは後悔を克服していること。妬み嫉む対象がいないこと。腹立たしく思う人もいないこと。会えなくても、話せなくても、近くにいられなくても、好きな人や愛する人との時間を心で共有できること。本当に信頼できるひとが、自分を信頼してくれること、かな――んーっ。イマイチうまく定義できなかったね」
「深い! のかさえわからない」
「要はしあわせに定義なんてねーんだよ! と言いたいね」
「セイにしてはずいぶん投げやりだね」
「定義できないことを追求するのは面倒だ。こういうのはPh.Dに任せておけばよい!」
僕は深呼吸してから、
「さぁーて。夜も更けて参りましたねえ」
僕は自分の気恥ずかしい回答を上書きするように言った。
「帰りますか」
あやめはなぜか元気そうにしている。
「おいとまいたしましょう」
「こんなときに欽ちゃんがやってないのはさみしいですね」
僕とあやめは上着を着て玄関に出た。
「まったくその通りです。じゃあアシスト自転車借りて一緒にセイの家まで帰るよ。帰りは自転車乗って帰ってくるから」
「心配だけどあやめなら大丈夫だよな。なにかあったらすぐ電話か一一〇番だからな」
「ならってのが気になるけど。わかってる。じゃあ、行こ」
僕はあやめと一緒に外に出た。
あやめは僕のすぐ横を寄り添うように自転車を引いて歩いた。あやめはしゃべらなかった。疲れが出ているのだろう。ときどきうとうとしているようにも見えた。そう思っていたら突然、
「ベース覚えたらさ、ライブとかやんの?」
と言われたのでびっくりした。
「いまはまったく考えてないけど、いずれやってみたいと思うかもしれない」
「そのうちさあ、ベース弾きの女の子が欽ちゃんにあらわれて、セイと仲良くなったりしたらやだなあ」
「それは妄想というものだよ。僕は人の出会いまではコントロールできません。あらわれるかもしれないし、あらわれないかもしれない」
「かーっ、予防線だな」
日曜日なので、皆早い時間に家に帰ってしまったらしく、通行人はまばらだった。そうこうしているうちに、僕の家の前まで着いた。
「今日はありがとう。トラブルはあったけど、いいきっかけだったように思うよ」
とあやめは言った。間違いなくアダルトビデオの件である。
「今度アダルトビデオ貸してくれ。僕も勉強する」
「いや、あれ参考にしちゃ駄目だから。あくまでもエンターテイメントだから」
あやめは即答した。
「そんなもんなのか」
「そう」
「じゃあ、おやすみ。気をつけて帰るんだぞ」
軽く左手をあげて、僕は念を押すように言った。
「うん、おやすみ」
僕はエントランスに鍵を差し、自動ドアを通り抜け、エレベーターのボタンを押した。エレベーターに乗って自動ドア越しに外を見ると、すでにあやめはいなかった。お互い帰り際はさっぱりしている。
エレベーターの扉が閉まったとき、不意に深い悲しみが走り抜けた。病は非情である。それがどれほど絶望的な状態なのか、僕にはわかっていた。病におかされていないこと、という項目を、しあわせの定義に加えなければならないと考えた。
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