六〈あやめ〉

 立てこもり事件から一週間ほど経った冬晴れの日、ひとりの若い女性が菖蒲家を尋ねてきた。菖蒲家といっても一戸建てに住んでいるわけではない。鏡合わせの二軒の平屋が廊下で繋がっているめずらしい物件に間借りしていた。

 わたしたちは四畳半の畳敷きの部屋で、部屋には似つかわしくない高そうな紫檀の机を挟んで向かい合わせに腰を下ろしていた。座布団は焦茶の銘仙判だった。わたしは客にあたたかいルイボスティーを出していた。

「お忙しいところ突然お邪魔してしまってすみません」

 わたしは三時のティータイムを終えて縁側でごろごろしていたところだったので、別段忙しくはなかった。

 若い女性は亜由美といった。少しふっくらした、黒縁の眼鏡をかけた女子高校生だった。話しかたは落ち着いていて、歳のわりにどこか真理を見極めているようなところがあった。

「いえいえ、別に暇人ですからかまいません」

「わたしはあやめさんより年下ですから、敬語は使わないでお話しください」

「ええ、わかりま、わかった」

 亜由美は腰を据えて、いくらかりきむような調子で経緯を話し始めた。

「立てこもり事件の、あやめさんの活躍を見て、感動というか、衝撃というか、心に強く訴えかけるものがあって、それに連れられてここに来ました。住所は千景のお父さんに聞きました。あやめさんにはわっさんと言ったほうがわかりやすいですよね」

 千影という名前を聞いて、まがまがしい脅迫状のイメージが一瞬で頭に浮かんだ。夏に一度わっさんの差し金で脅迫状を出されているのである。わっさんとの会話やハガキ事件を通して千影とわたしはお互いの存在を充分に認識し合っていたが、まだ一度も会ったことはなかった。

「娘さんていくつだっけ? 娘さんと同級?」

「そうです同級です。三年になります。高校は違うんですけど。千景は頭いいから」

「高校三年かあ。あたしのときと比べるとずいぶんしっかりしてんなあ」

 居酒屋のカウンターにいる酔っぱらいのおっさんが酒を注文するときのような勢いで言った。すると亜由美は黒縁の眼鏡の奥からまっすぐわたしの瞳に光を返すような表情で、

「あやめさんの強さはどこから生まれてくるんですか」

と言った。わたしは多少うろたえた。

「別に強くはないよ。ただ、許せないことは許せないんだよね。許せないことがあると全部ぶち壊したくなる」

 課長殴打事件を思い出さざるを得なかった。後悔とは違うが、いまだに思い出すと胸が痛くなる。課長はいま何の仕事をしているのだろうか。

「ぶち壊す勇気はどこから生まれてくるんですか」

 ちょっと見当違いな質問だなと思ったが、彼女の表情は真剣だった。

「うーん。難しいな。そもそも勇気なのかね。単純にさ、理不尽な扱いを受けたり、なめられたりして腹が立つとメラメラ燃えてこない?」

 今度は派遣時代を思い出さずにはいられなかった。

「自分をまもるために強いふりをする、ってことはないんですか」

 亜由美の本質を突いたような質問にちょっと驚いた。亜由美は机の上のルイボスティーをひとくち飲んでから、眼鏡を指先で上げた。

「それは正直あると思う」

 わたしはそう答えながら、強いふりをしていないと自分を保てない弱い自分が、情けなくもあり、悔しくもあった。それがすべての原因ではないが、様々な問題を起こすきっかけにはなっているだろうと思った。

「立てこもり事件のあと、誰かあやめさんのところにいらっしゃいましたか。住所が特定されてましたけど」

 きっといるだろうという確信めいた表情で、亜由美は少し前のめりになって言った。

「それが晒された住所はおじいちゃんの家だったんだけど、誰か来たとは聞いてないよ。インターネットってそういう場所なんだねえ。場所を特定して晒されただけで誰も来やしない」

 わたしはインターネットに対して一種の軽蔑を持った調子で言った。

「わたしの友達に、あやめさんのところに来てみたいって人がいるんですけど、連れてきてもかまいませんか?」

 亜由美が遠慮がちに言った。

「かまわないよ。まったく問題ない。あたしがなんの役に立つかわからないけども」

 わたしは着ていた黒繻子のどてらを引き締めた。

「じゃあ、今度連れてきます」

 亜由美は腰を浮かして座りなおした。

「うむ。ちなみに何曜日に来るかね?」

 ちょっと先生といった体裁になる。

「それは、あやめさんにお任せします。何曜日でも、都合つけて来ます」

 亜由美が目を輝かせて言った。

「じゃあ、木曜日はどう?」

「大丈夫です」

「夏目漱石が木曜会というのを開いていてね」

 漱石につられて尊大になりそうな自分を抑えた。

「あやめさんは夏目漱石が好きなんですか?」

 特に不思議がる様子もなく、いままでと変わらず真剣なまなざしで言った。

「他人の影響でね。アイラブユーなんてネタは使い古されているけど好きですよ」

 わたしの頭には、数ヶ月前、セイと過ごした一夜の記憶がよみがえっていた。

「あやめさんはアイラブユーと言ったことがありますか」

 亜由美の言葉に、あからさまにセイの顔が浮かんだ。

「言ったことはないが、言われたことはある。きわめて幻想的な状況で」

 わたしの言葉に亜由美は目をきらきらさせた。

「あやめちゃーん」

 わたしは真由子さんに呼ばれた。

「はーい」

 ひとまず亜由美を置いたまま真由子さんのほうに行った。

「今日うなぎ取ろうと思うんだけど、あやめちゃん食べない? ご馳走するから」

「食べます食べます! 全力で食べます! なにかいいことあったんですか?」

「今日ね、沙々がマラソン大会で優勝したのよ。うなぎ取ってお祝いしようって」

 その真由子さんの言葉を聞いて安心した。大会で優勝できるくらいの心の余裕が沙々ちゃんにはあるのだ。

「なるほど! それはおめでたいですね!」

 と言ったものの、亜由美にこれからうなぎを食うから帰れとは言いにくい。かといって真由子さんに混ぜてくれと言うわけにもいかない。わたしは真由子さんに自分の分を取って残しておいてほしいと言って、亜由美のいる部屋に戻った。

「あやめさん彼氏いないんですか?」

 なんともいいようのない質問に戸惑った。

「彼氏といえば彼氏だし、そうでないとも言える。名前はセイ」

ごまかして逃げる方法もあったが、正直に話した。この木曜会が続けば、いずれ明らかになってしまうことだ。

「セックスはしてるんですか? そこがいちばん重要だと思うんですけど」

 そこが重要なのは重々承知していた。でもわたしは亜由美が思っているより何十倍も繊細な人間なのである。そう簡単にからだを許すわけにはいかない。

「してない」

「なぜ」

 亜由美が心底不思議だという気持ちを込めて攻めにかかってきた。

「唾液が嫌なんだよね。自分のきったない唾液を相手につけるのがやだ」

 わたしはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。

「キスも嫌なんですか」

「キスは平気」

「なぜ」

「そもそも唾液があるところに唾液がつくだけだから」

「じゃあキスはしてるんですね」

「してない」

「なぜ」

「する理由も、しない理由もない」

「いつか愛想をつかされますよ。セックスしちゃいましょうよ。わたし手伝いますよ」

「それどんな手伝いかた」

「彼をその気にさせるんですよ。誰かに恋敵役をさせて。たぶん目の前であやめさん取られそうになったら燃えますよ」

 わたしはセイの夏の作戦を完全に思い出していた。

「なんだか聞いたことのある作戦だな。まあ、無理だね。なぜかって、あっちも唾液つけたくない病だから。そもそもあっちのマンションに行って何もしないのがあたりまえになって今更そうい気にならないし。正直、そういう関係になるのがなんか嫌だ。どうも変な感じ」

「末期ですね。大末期です」

「めんどくせーなー。好きな人同士はセックスしなきゃいけないんですか」

 わたしは身体を畳の上に放り出し、両手をぐったりとひろげて降参するような格好になった。

「自分ではするんですか」

 亜由美が突然きりっとした口調であやめに詰め寄った。

「――」

「するんですね?」

 勝負に勝利した人間が語るときの快活さで亜由美が言った。

「――」

「わかりました。これ以上問うのはやめます。そのかわりセイさんに聞いてみようかな。会ったことないですけど。どう処理していると思ってるんだろう」

 亜由美は微笑み混じりに言った。

「やめてください。会わないでください」

 わたしは懇願するようだった。

「それこそセイさんはどう処理してるんですかね」

「あーっ! もういい! やめなさい!」

 亜由美の言葉におっ被せるようにして、わたしは声を上げた。

「あやめさん純粋ですよね。怖いほど。十八歳の小娘になにがわかるのと思っているでしょうけど」

「わかってくれりゃあいいんだよ」

 あっはっはと乾いた笑い声を発した。

「亜由美ちゃん部活やってんの? 学生に取っちゃあ、飲み屋で仕事なにしてる? って聞くのと同じくらい野暮な質問かね」

「何もやってないです」

 学生だった自分も帰宅部だったのだが、特に悪いこともないし、特に良いこともなかったので、質問したままで放りっぱなしにした。

「あやめさん、お酒飲んでやらかしたあ、みたいなのあるんですか」

 亜由美はルイボスティーをひと口飲んだ。

「このあいださあ、居酒屋で飲みすぎて泣いちゃって」

 わたしは先日の出来事を振り返って、もう二度とあんな酔っ払いかたはしないと心に誓った。その誓いが無駄になることは痛いほど承知していた。

「あやめさん泣くんですか?」

 亜由美は心底意外だという顔をした。

「泣く泣く。ストレスが限界に達すると泣いちゃう。すぐ泣いちゃう。だからその限界に達する前にいろいろと暴動を起こして解消するわけだ」

 わたしは座布団に座ったまま身振り手振りで人を殴ったり物を投げたりする様子を表現した。

「実はわたしも最近泣きそうなんです」

「――ふむふむ」

 暴動の余韻が残っていて、すぐに亜由美の話に焦点が合わなかった。

「気になる人ができちゃって。考えると苦しいんです。学校内にいるとか友達とかじゃないのでいつ会えるかわからないんです。それがとても苦しくて」

「どういう状況?」

「駅前で弾き語りをやっている人なんです」

「それたぶん演くんだ! あっ、名前言っちゃってよかったかな。名前知ってた?」

「知らなかったです。大収穫です。今日来てよかったです」

「それならそうと言ってくれたらよかったのに!」

「いや、けっして恋の相談のついでにあやめさんの話を聞きに来たのではないです」

「いいんだよいいんだよ。こまけえこたあいいんだよ」

 亜由美はその言葉にまったく反応せずに、

「その演さんという名前を知ったわたしが、彼のことをネット上でいろいろ検索したり、画像探して見たりするのって気持ち悪いですか? ストーカー予備軍ですか?」

 と言って興奮し始めた。

「逆に考えてみたら? 見知らぬ男が亜由美ちゃんの画像やら情報やらをネット上で検索してたらどう思うか」

「気持ち悪いです」

 亜由美は額に深いしわを寄せて顔をゆがめた。

「気持ち悪いよなあ。あたしたちどうすりゃいいんだろ。はあ。気が滅入るね」

 わたしは他人事のような口ぶりで言った。

「あたしたち? どういうことですか? だれか気になる人がいるんですか?」

 思案顔で首を傾げて亜由美はしばらく考えていた。

「まさか! こっそりセイさんの画像を探したりしてるんですか!」

 亜由美は空気を裂くように言った。

「あああああ」

「堂々と見るか本人から直接見せてもらえばいいじゃないですか!」

「頼んで見せてもらうって負けた気がしてやだ」

「なんでそんなくだらない戦いに精神を蝕まれてるんですか!」

「木曜会解散しない?」

「しません!」

「それにしても油断してるとセイさん誰かに取られちゃうかもしれないですよ。ネトラレーっ!」

 と言って亜由美は笑いながら自分の尻に敷かれていた座蒲団を取り上げ、胸に抱えて床に転がった。そのとき放り出した足が紫檀の机にぶつかって、ルイボスティーがこぼれそうになった。

「あー! もー! なにやってんのー! ぷんすか!」

 そのとき玄関の引き戸が開く音がして、こんにちは入るぞーと言ってから部屋を覗きこむようにセイが顔を出した。

「もしかしてセイさん? あーセイさんだーえへへ」

 亜由美は勝手に納得して、

「おじゃましましたー」

と言って急ぎ足で帰っていった。わたしとセイは無言で見つめあった。

「同じ匂いがする」

 セイが亜由美の背中を追っかけるように向こうを向いたまま言った。

「シャンプーが?」

「いや、存在が」

 初回の木曜会はこんな調子で、亜由美ちゃんは欲しかった情報とわたしの弱みを握って帰っていった。こんな会が続くと、いつかわたしのありとあらゆる秘密が明らかにされてしまうのではと憂慮しつつ、亜由美ちゃんの恋の行く末が楽しみだなという思いを強くした。

 わたしは亜由美ちゃんが座っていた座蒲団を見て、いま座面を嗅いだら女子高校生の匂いがするんだろうなと考えた。ただ田山花袋の小説から連想しただけで、もちろん行動には移さなかった。

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