第5話

 雨が降る。雨具を持っていなかった。灰白は途中の雑貨屋で買おうと小銭を握る。薄い戸を開くと傘を差した縹が立っている。

「大丈夫かい?」

「ご、ごめんなさい」

 貸主の好意で置かれたままだった時計が示す時刻はまだ待ち合わせの時間ではないはずだが、間違っていたのか。まさか縹から来たとも思わなかった。余裕を持つはずが遅れていたのか。雨の中縹を待たせてしまっていたということに灰白は動揺する。素直に謝ると縹はわずかにばつの悪い顔をした。

「別にボクが勝手に来ただけなのだけれどね。それにまだ時間ではないよ」

 酒の匂いはしなかった。穏やかな表情がどうにも胡散臭い。縹はぼうっとしている灰白の肩を抱き寄せる。

「え、」

「暴れないでくれるかい。濡れたまま城に行くつもりかな」

 酔っている時よりも口調や声音は柔らかいが、酔っている時と同じように言葉の端々に棘がある。

「君はボクの兄の娘…つまり姪ということになっているから、適当に辻褄を合わせるのだよ、いいね。詳しい設定は行きながら話そう。君が持つものは仇への憎悪と偽りの過去だけでいい。君の歴史は直隠ひたかくしなさい」

 口にはしないだろうが、情を捨てなさいとも暗黙の中に含まれている。

「分かりました…叔父上…」

 縹は乾いた笑い声を小さく上げた。時折自嘲的で軽蔑を帯びた冷たい笑い方をするのだと関わった短時間で灰白は知った。

 不言通りに入ると晴れの日よりも少ないが思っていたよりも混雑していた。長屋の周辺はほとんど人がいなかった。縹は有名人なのか様々な女性から声を掛けられた。同年代と思われる男性からも気軽い挨拶をされている。やっと覚悟が決まったのかい。商売中の中年男性が縹に声をかける。酒屋の店主だ。縹はにこりとしたまま、肯定も否定もせず濁していた。不言通りを北上していく。繁華街を抜けると縹に話しかける者はいなくなり静かになった。城へ通じる山道。石畳によって舗装されている。滑りやすいから気を付けて。縹の声がした気がしたが、耳を流れていってしまう。傘を叩く雨音に緊張する。もうすぐで城に着くのだ。長細い袋に入れた、朽葉から渡された短剣を握り締める。

「それは…」

 縹が足を止める。

「朽葉さんからいただいたものです」

「そう…きっと君を守ってくれる」

 一瞬だけ縹が初めて会った時に見せたものよりももっと優しい声だった。

 城まで坂が続く。雨水が浅く広い川となり坂を下っていく。城門が見えはじめ、3人門番がいる。縹が灰白に傘を持たせ、雨の中門番へ進んで行った。門が開き、縹が手招きして進んでいく。また長い石畳。周りには木々や草花、玉砂利と細石さざれいし。雨天によく似合っていた。縹は慣れた足取りだったが灰白の歩幅に合わせている。また、肩が大きく濡れている。灰白は言いかけてやめた。建物が見えてくると、また待つように言われ、縹は警備している兵へと進んで話している。不思議な者だ。厭世的な部分が目立つが市井では有名人で風月王との関わりを見せ、そのくせ仇討ちに協力する。罠だろうか。罠の可能性を疑っていなかった。だが情を捨てろと言った。刃物を持つことを良しとした。罠でもいい。城に入れるのなら。縹の姿を視界に入れていられなくなった。ここまで来て、突然疑念が沸いてしまう。目の前にある堂のような建物の脇に造られた池に鯉が泳いでいる。

「貴方が縹殿の姪御さんでしょうか」

 間近で声がして振り向く。青紫の衣類が印象的な若い男が立っている。灰白と年の頃は近い。

「はい」

 凜とした美しい風貌だが目元には隈が浮かび、肌が少し荒れている。艶を失った細い毛は漆黒というほどではない焦げ茶を帯びた黒髪。

「大変お待たせいたしました。どうぞ中へ案内いたします」

 丁寧な仕草で一礼し灰白を城内へ誘導する。光沢のある木目が美しい床と枯草色の壁。床が暖かく、漂う空気も温かい。堂と思われた広い部屋に縹はいた。赤みが強すぎる桃色と黒が基調のローブを羽織っている。あまり似合っていなかった。

「どうぞ、お座りくださいませ」

 青紫の美青年が灰白に椅子を出す。

「申し訳ありません。今、手の空いている者がわたくししかおりません」

「構わないよ。長たらしい前置きも要らないね」

 縹は、青紫の美青年の長くなりそうな挨拶を制して灰白を見た。ご挨拶して、と促され灰白は椅子から下りて膝を着くと深く頭を下げる。「灰白」という名は使えないことを朽葉は遠回しに言っていた。与えられた名が使えないことに多少の負い目はあったが、これもまた与えられた名であるならと風月国に来た時から使っていた。

「極彩と申します」

「人見知りですまないね。先月病没した兄の娘だよ」

「さようでございますか。しかしよろしいのですか、復職するとはいえ…何も…」

 縹はここで働いていたらしかった。二度と変な気を起こさないよう、だとか姪を献上だとか、そういった言葉が聞こえた。青紫の美青年はさようでございますか、を繰り返している。

「縹殿の姪御となれば奥ではなく離れ家をそのままお使いになれるようにいたします」

「三公子は今どうなさっておられる?」

「相変わらずでいらっしゃいます」

 今にも倒れそうな血色の悪い顔が一度だけ灰白を同情の目で見たが、愛想笑いを貼り付けて青紫の美青年は他の者を呼ぶ。

「お、叔父上…」

「極彩、すぐに慣れるよ。三公子も良くしてくださるから」

 青紫の美青年が呼んだ雑用係りと思しき者が灰白を案内する。縹と青紫の美青年は、堂と呼ぶには目的のはっきりしない部屋に残るらしかった。青紫の美青年は笑みを貼り付けていたが目が疲れ果てている。大きな引き戸は浮いているかのように軽やかに開き、広い廊下を歩く。足の裏から温かい。

 天井のある外通路を歩く。中庭の脇を通っている。草が生い茂り、中心に木が植えられている。造りの良い離れ家があった。玄関扉の鍵が開けられると雑用係りの者はお付きの者を呼んで参ります、と行って中へ促された。使われている形跡がない。

「だぁれ」

 灰白は振り向いた。

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