第6話

 誰もいない。舌ったらずな喋り方だが、声変わりの済んだ男の声だ。幻聴だろうか。聞き覚えがあった。だが思い出せない。

「だぁれ」

 また同じ声がした。やはり聞き覚えがある。だが辺りを見回しても人はいない。灰白は艶やかな木材が美しい内装を眺めた。

「やまぶき、だぁれ」

 灰白はもう一度外通路を見る。開きっ放しの扉。雨の幕を垂らした外通路に白い衣服を着た少年とも青年ともいえない微妙な年頃の男が立っていた。その男は灰白を見つめたまま近付いてきた。春に野で咲き乱れる菜に近い明るさを持っていそうだが雨に濡れ濁っている髪。段々と明確になる目鼻立ち。泥で汚れた肌理きめ細かい目元や頬。灰白よりも年下らしかった。泥と草で染まった白い布。既視感。晴れた緑の中で白い裾を汚した青年の姿。自死したという青年の、いつの間にか脳裏に焼き付いていたらしい光景。

「こんにち…は…」

 あの日青年が灰白にかけた言葉と声を思い出す。

「こんにちわ、やまぶき、だぁれ」

 10代前半というには背丈は伸び、体格もある程度発達しているが、後半というにはまだ発育途上な気配もある。ただ雰囲気は10代にも入っていないようだ。

「今日からこちらでお世話になります。極彩と申します」

 灰白は深く頭を下げる。若者はゆらゆらと頭を揺らす。

「おせわ、おせわ!」

「はい、お世話になります。極彩と申します」

「おせわ、ごくさい?」

「はい、極彩です」

 若者はにこっと笑って自身を指で差し、頻りに「やまぶき、やまぶき」と繰り返した。それが彼の名らしい。

「山吹さん」

 若者は満面の笑みを浮かべて膝を曲げ、頭を床にまで下げた灰白にのしかかる。雨に濡れた冷たい肌。容赦なく体重をかけ灰白は押し潰される。水分が灰白の衣類にも浸み込みはじめた。

「あったかい」

 若者は灰白の背に頭を当てているらしかった。そしてすぐに重みは消え去る。山吹は床にを泥と雨水と草の葉で汚し、離れ家を飛び出して行く。灰白は考える間もなく咄嗟に山吹を追ってしまった。外通路を外れ、雨の中を裸足で駆ける。中庭とは反対にある竹林へ向かって行った。

「山吹さん!」

 雨水に照る落ち葉を踏みしめ、竹林の中へ消えた山吹を探す。足音は聞こえている。雨音の奥で確かに落ち葉や枝を踏む音がする。狭い竹と竹の間に身体を割り入らせて山吹を追う。竹に攫われそうだった。儚さは感じさせない、健やかな体躯で爛漫な様ではあったが、雨の中踊るように消えていく光景が非日常的だった。足音が消える。雨音だけになり、灰白は立ち止まる。静寂。誰もいない。孤独。山吹は存在していなかった?灰白は振り返る。無数の竹。戻ればいつしか外には出られる。森ではない。白の敷地だ。これ以上行かなければ戻るのは容易い。城の者が待っているはずだ。縹の顔に泥を塗ってしまう。


 ポゥーポゥーロロロー


 横笛の音がした。竹笛か。誘われている。灰白は山吹が消えたほうへ進む。竹に阻まれた奥に白い姿が見えた。笛の奏でる哀愁漂う曲を聴いていた。竹に隠れていた。短い曲だった。山吹は力無く笛を下ろす。地面を見ていた。背の低い瓦付きの塀が見え、この竹林の果てだった。また塀の奥には竹林が続いているらしい。わずかな空間にだけ竹が生えずに枯れ葉や落ち葉、枝や小石が散らかり空いていた。山吹の視線の先には漬物石ほどの大きさの角張った石が置いてある。雨水が泥を落としながら山吹の横顔を滴り落ちる。衣類が腕に張り付いている。笛も雨水を浴びてしまっていた。

「山吹さん、戻りましょう」

 灰白はやっと声をかけることが出来た。山吹は顔を上げて灰白に緩んだ笑顔を向ける。朽葉に似ていた。

「ごくさい」

 不自然に置かれた角張った石。その下は落ち葉も枯れ葉もなく、土が剥き出しになっている。不自然だった。

「おーあにうえ」

 山吹は石を叩く。その指が土で汚れている。何かが埋まっている。だが何が。

「おーあにうえ、ねた」

「…あにうえ?」

「おーあにうえ、ねた。ぐるぐる」

 山吹は灰白に説明しているらしかった。優しく石を撫でながら。

「ぐるぐる。ほし。ぐるぐる。ひと。ぐるぐる、ぐるぐる…」

「ぐるぐる…?」

「ひみつ。おーあにうえ。ひみつ。ないしょ。」

 これは墓だ。だが誰の。自身の知っている人か。秘密と言った。だからこのような竹林の中にあるのか。山吹は見知った影を乗せて、目を伏せる。傾いた。灰白の口を開くよりはやかった。泥が跳ねる。白い衣服に泥水が広がる。雨水が汚れてすぐの泥を洗い流す。朽葉に似ていた。朽葉の亡骸を見ていないが、山吹の姿が生々しく、見ることはなかった朽葉のものと重なった。逃れ切れない死の前に、望まない死を遂げた男の過去の目を思い出す。山吹の力の無い腕を取って、肩に回そうとするが灰白の力では気を失った男を運ぶことは出来そうになかった。どうしたらいい。動きを止めて、雨に打たれる。灰白の体温も奪われていく。濡れた服が肌に張り付いている。頭が冷えていく。一度戻って、誰かに知らせねば。だが秘密と言われた。情は捨てろ。縹の言葉が蘇る。誰の墓なのかは知らない。誰の墓でもないのかも知れない。「おーあにうえ」が誰を指すのかも分からない。だが自死を迫られた男を薄っすらと残すこの若者に抗えない。迷っている余裕はない。灰白は汚れることも厭わず膝を着いて、頭を乗せた。山吹の頬を軽く叩く。小さく呻く。

「何をしているのかな」

 縹の声に顔を上げた。穏やかな声音と柔らかい笑み。だが機嫌が悪いどころではないことが、短すぎるほどの付き合いにもかかわらず伝わってしまった。傘を差せるような場所でもないため、縹も濡れている。似合わないローブは脱いでいたが着替えたらしい服もまた色を変えている。

「どうしてここが…」

「まぁ、少しね。君にはもう関係のないことだ」

 呆れた様子を隠さず、柔和な態度は消えた。縹は灰白の膝で倒れている山吹を確認すると、灰白を怪訝な眼差しで見た。山吹の両脇から抱え起こし、灰白に持ち上げているよう頼むと、縹は腰を落として背に乗せるように促す。縹の薄い身体に細い腰を見て、灰白は唇を噛む。

「あの、縹さ…」

「はやく行こうか。風邪をひいてしまうよ」

「っ、そうですよね」

 縹や山吹が風邪をひいたら、申し訳ない。灰白は縹を追う。

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