第3話

「いいね、素敵だ」

 色素の薄い髪をさらさら揺らして青年は灰白の肩を抱き寄せる。灰白は青年の器に酒を注いだ。

 朽葉と別れた後、まずやるべきことは住む場所の確保と職探しだった。長屋の一室を借りるときに貸主が知り合いの茶屋を紹介した。茶屋の主人は青年灰白を給仕、紅を護衛として快く雇ったのだった。その茶屋は夜になると酒屋になり、時折酔っ払いが女性給仕に絡むことがある。灰白は初めてだったが、適当にあしらうよう言われていた。

「ありがとうございます」

 肩に乗る繊細な指からすり抜ける。

「うん…でも素敵だけれど…君は注ぐよりも注がれる側の人間だね?」

 灰白の手に青年の冷たく白い手が重ねられた。空になった瓶をまとめていたが、その手を放した。

「それはどういう意味でしょうか」

 戸惑いながら誤魔化すように笑みを浮かべると、青年の目が質の悪い酔っ払いの顔から怜悧なものへ変わる。

「言葉で表現出来るものではないけれど…勘、だね」

 灰白が浮かべるものよりも余裕のある笑みは挑発なのだろう。

「詳しいことは寝床で…っていうのは、どうだろうか」

 なんてね、と青年はテーブルと呼ばれる灰白の国では長机に置かれた、紙ナフキンという薄い紙に、筆記具を走らせる。それもまた透明な細い筒で黒い芯が通っている。先端の鋭利な金属を紙面に走らせると黒く軌道を描く。風月国には不思議な文化と文明と技術がある。簡単に火や照明が点く。ボールペンと呼ばれた小物ひとつ、灰白には珍しく映った。

「ここではなんだ。いつでも来るといい。この後でも構わない」

 青年は紙ナフキンを灰白に握らせた。涼しそうな姿で青年は代金をテーブルの上に置く。きちんと算出したわけではないが多いような気がした。大量に酒を飲んだとは思えない軽やかさで、出て行った。出入り口の扉の連なった鈴が鳴った。衣類や佇まい、雰囲気や言葉遣い、態度や身嗜み。軟派ではあったが良家の出を思わせた。灰白は握らされた紙ナフキンを開く。『洗朱あらいしゅ通り5丁目3番地レグホーン205』と神経質さを覚える丁寧な字で記してある。ここに来てすぐに長屋の貸主から聞いた、この茶屋のある不言いわぬ通りという最も大きい通りからひとつ外れた地。

 紅には言わなかった。仕事終わりにそのまま青年の元を訪ねる。この国は闇に包まれない。深い紫が空を覆っている。月明かりが眩しい。洗朱通りはすぐに見つかったが、そこは空家や廃墟や崩れかけた建物が並び、そこには浮浪者と思しき者たちが物珍しげに灰白を眺める。酒の匂いと饐えた匂いがした。不言いわぬ通りは月光だけでない人工的な明るさがあったが洗朱あらいしゅ通りは不穏な紫の空と禍々しい月明かりで深い陰を落とす。一定間隔に立てられた石の柱に貼られた錆びた看板を頼りに5丁目3番地を目指す。だが崩れかけた建物や蔦の這った民家、そしてその軒の下にいる薄汚れた人々ばかりが目に入る。やっと辿り着いた『レグホーン』は灰白の借りている長屋を重ねたような構造をしていた。だが半壊して内装が見えている。おそらく3階建てなのだろう。入り口は崩れた瓦礫で埋もれていた。205を指し示す場所を探す。半壊しているが足元に注意しながら中へ入っていった。すぐに目に入った階段を上がる。階段もまた崩れてしまいそうだった。205号室が指し示すのはどこだろう。階段を上がってから次の階段はすでに登れる状態ではなかったため、2階の廊下を歩く。窓ガラスごと壁が崩れ、月光の広がる紫の空が見えた。崩れた壁の対面は扉が埋め込まれ、進むにつれ、201、202と増えていくため灰白はそのまま進む。205を見つけ、躊躇いもなく灰白は扉を叩く。

「どうぞ」

 扉が開く。倒れ込むように青年が出てきて、乱暴に壁に手をつく。開いた瞬間、鼻を殴る酒の強い匂いに灰白は眉を顰めた。

「君か。本当に来たんだ」

 青年は灰白を部屋に通す。照明を点けない真っ暗の室内。だが散らかっているのが分かる。

「もしかして寝ていましたか?」

 青年の様子からは寝起きだとは思わなかったが普通に過ごせる明るさではない。

「寝てない。…それで?護衛もつけずにこんな時間にのこのこオトコの部屋に来ちゃって」

 青年は茶屋で見せた穏やかな笑みを浮かべながら挑発的な眼差しをしているのが暗い中でも分かった。

「え…?」

 視界がほとんど頼りにならないせいか、酒の匂いはきつく、耳に入る声は冷たい。

「いや、ひとつ訂正」

 青年は灰白の顔を掬い上げようとして、触れる前に止まる。距離が近くなった青年の端整な顔立ち。切れ長の瞳が脇に流れる。

「ほら」

 青年の首に刃が寸前まで添えられている。

「…話は朽葉様から聞いているよ」

 青年はつまらなそうに薄い金属を摘んで払う。無言。青年は灰白と見つめ合う。無言。何も言わない青年に灰白はきょとんとした。青年の目が紅を差す。

「紅、刀、しまって」

 青年は首に触れながら照明を点けた。視覚はどうにかなったが、酒の匂いはそのままだった。

「心配なら来させなければいいだろうに。治安、悪かっただろう」

「私の勤めはあくまでお嬢様を守ることですので」

「なるほど、お嬢様を事前から守る能はないと」

 青年は分からないね、と言って肩を竦める。様々な布や衣類が掛けられた、もとはソファという弾力性のある長椅子に倒れ込む。それが寝床になっているのかと思われたがその奥に、この国ではベッドという寝台らしきものが見えた。テーブルには缶が隙間なく置かれ、床に転がっている。青年は手にした缶をあおる。酒の匂いがまた強くなる。

「傷だらけの帯刀した少年ってすごく目立つわけ。まずそれがひとつ。朽葉様の仰せられた身体的特徴とも合致するしね」

 立ったままの2人に座ったら?と促すが空き缶や空き瓶が転がり座れる空間はない。青年は茶屋では出していないような強い酒を何本も飲んでいるようだ。

「…朽葉さん…」

「まぁボクが勘といったのはかまをかけたわけではないよ。傷だらけの帯刀した目立つ子どもが店の前に立っていたって一緒にいるとは限らないし、あの中で君を特定したのは、やっぱり勘だよ」

 その辺にお茶あるからテキトーに飲んで、と青年は言うが"その辺"には空き缶しか転がっていなかった。他には山積みの分厚い本。衣服や小物はきちんと片付けてあり、家具もあまりなかったが缶や瓶が部屋を占めている。

「朽葉様に君たちの世話を頼まれてね」

 青年は手にした缶の表面を眺める。

「朽葉さんって、何者なんですか」

 酔っ払いの冷ややかな目が灰白を一瞥する。

「公子。公子だよ。風月国の公子」

 青年は突然目元を押さえた。頭痛だろうか。

「公子…」

 紅は黙って眉間に皺を寄せている。灰白は朽葉の姿と渡された短剣を思い出す。

「わたし、まだ朽葉さんにちゃんとお礼言えてない…」

「そう…残念だけど、それは君の胸に秘めておいて」

 青年は缶を呷って、そのまま亀裂の入った天井を見つめた。掌から缶が滑り落ち、床に転がる音がした。

「じゃ、じゃあ、あなたから朽葉さんに伝えてくれませんか」

 灰白の頼みを拒むのか、青年は大きくヒビが入った壁に嵌った窓を向き、灰白たちに背を向けた。窓ガラスは割れている。

「朽葉様は、亡くなったよ」

 静かに響いた青年の声。息を飲む。亡くなった。心此処に在らずといった風な様子ではあった。朽葉の姿。病か。事故か。

「亡くなった…?」

「死を賜った、っていえば分かるかな」

 賜死しし。自死を命じられた。史書で読んだことはあるが、実際それが下されたところは見たことも聞いたこともない。

「なんで…ですか…」

「四季国の襲撃に異を唱え、しかも参加しなかったから」

 刀の音が小さく聞こえた。淡々と話す青年の後ろ姿。四季王はおそらく無事ではない。全く事情が飲み込めないでいた。朽葉が自死を命じられ、すでに生きていないということは青年の姿から本当のことのように感じられた。

「朽葉様はこんなこと頼まなかったけれど…もし君が自分の国の無念を晴らしたいのなら、ボクは協力するよ」

 青年は冷静だった。店にいた時の軟派さや穏やかな態度は表向きのものなのかも知れない。それともやっと慣れてきた匂いの元のせいか。

「お嬢様」

 紅が小さく呼んだ。制止の色を含んでいる。

「別に君でもいいんだけれど、男の身では無理だよ。残念だね」

「どういうこと?」

 女でなければならない、の意味。青年の心にも無さそうな態度に紅の表情が大きく歪む。

「城に入りなさい。架け橋にはなれる…つらいかも知れないが」

 灰白の意識は片付いていない部屋に四散した。青年の声がここに来て初めてわずかに感情も乗せていたが、灰白の耳には届かない。青年は紅を一度見遣った。

「ボクははなだ。君を三公子のめかけとして推挙する」

 はなだと名乗る青年は2人に向き直って座った。

「城に入るって…大丈夫なの…?」

「三公子の妾なら、おそらく」

「危険です」

 縹は意外げに片眉を上げて紅を見る。

「確かにそうなれば、君は彼女に付きっきりというわけにはいかないからね」

 灰白は拳を握る。城の中にはいり、仇と姻戚になる。四季王に対する裏切りではないか。

「正直君の命の保証は出来ない。だが仇討ちとはそういうものだ。だから覚悟が要る」

 第一印象だった穏やかさは消えていた。緊張した空気を纏わせ、灰白は固唾を飲む。

「そういうわけだからすぐに返事は聞かないよ。気が向いたらまた来るといい。ゆっくり話し合うことだ」

 紅は力無く首を横に振る。話し合うまでもなく紅の中ではもう意見が出ているらしい。縹はこの話はここで終わりだと言わんばかりに立ち上がった。

「最後にひとつ。縹さんは何者なの」

「何者かと訊かれると困るね。何者にもなれなかった馬鹿な落伍者とでも言っておこうかな」

「朽葉さんとは、どういう関係なんですか…」

「質問が2つになっているよ。それは君が知らなくていいことだ、今はまだ」

 縹の声音がわずかに低くなり、陰険さを帯びた表情がさらに険しくなった。もう帰りなさいと灰白に言って玄関まで見送られると照明が消え、縹は暗い中に消えた。



「紅はどう思う?」

 紅に訊ねる。安く肌寒い、薄い木と藁で出来た長屋。洗朱通りの建物とは素材も材質も違い、嵐がくれば壊れそうだが、雨露は凌げる。それでも洗朱通りよりは簡素な造りでありながらも手入れや修理はされており、人には活気や生気がある。不言いわぬ通りを越えただけでまるで光景が違う。紅は灰白たちが借りた一室の薄い引戸の側に立っていた。すでに意見は聞いたも同然だったが問わずにいられなかった。

「私は反対でございます」

「そうだよね。…紅はいつから護衛をしているの」

「18年ほど前だったかと」

 紅は引戸に嵌ったすぐに割れそうな薄い曇りガラスを見ていた。

「こっちに来て」

 紅を呼ぶ。紅はすぐに灰白の元に寄る。向かい合って座らせた。

「四季王の仇はわたしが討つから、紅、あなたはもう護衛としでてはなく、1人の民として生きて。自由になって」

 紅は無言のまま表情のない目で灰白の目を見た。

「紅が一緒にいてくれて良かった」

 灰白は自身の首の後ろに手を回す。華奢な首飾り。様々な色味に反射する白い石。繊細な金属の台に嵌められている。四季王から贈られた物だ。

「少しは貯えになるはずだから」

「…おやめください…」

 表情のない童顔が歪む。

「紅、短い間だったけど…ありがとう。もうあなたの主人はいないから。あなたはこの国で生きて」

 紅の見た目とは裏腹に固い手を取り、金細工を握らせる。

「お嬢様…」

 紅は首を振る。30代とは思えないほど若い見た目。だが大人びた対応や態度だったが、ふとした幼い仕草に迷いが生じてしまいそうになる。

「わたしを拾い実子のように育ててくださった先王、実妹のように接してくださった四季王、姉妹のようだった女官たち、優しく見守ってくれた文官や武官、近衛兵…国を支えてくれていた民たち…彼等の命や安寧を奪った奴等を許すことが出来るものか…」

 自分の中に大きな亀裂が生まれ、そこから知らない何かが芽吹きそうになる。このような怒りを知らない。妙な感覚がした。紅の肉刺まめだらけの手を握り締める。いつの間にか潰しそうなほど強く。だが紅は何も言わない。同じ物を見てきたはずだ。感じたものが同じでないにせよ。過ぎた日を思い出し、ぼろぼろと涙が落ちた。四季王から贈られた物は持って行けそうにない。それなら託せる相手は紅だけだ。あとは紅が売って、生活の足しになればそれで良い。

「わたしのとる道は間違っているかも知れないけど…」

 紅は灰白の手から目を離さない。灰白は強く握り締めてしまってから固い掌を揉み解しはじめる。

「お願い紅。売っていいから。それであなたは幸せになって」

「……私が幸せを望まなくても、そう仰せになりますか」

 灰白は頷いた。紅は分かりました、と言って低く頭を下げ額を床につけ、長屋を出て行った。

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