第2話
森の中を川沿いに歩いていると人の姿が見え、紅が灰白の前に跳び出た。ゆっくり近付いていくと、その者は若い男だった。仔犬のような毛色の、少し癖のある髪が特徴的だ。小川の近くの大石に腰掛け、木々に覆われた空を見上げていた。
「あの」
灰白は声を掛けた。青年が灰白に気付く。紅は灰白の前を歩き姿勢を低くし青年を警戒している。
「やぁ、こんにちは」
青年は虚ろな双眸をしていたが2人の姿を認めると、人好きのする大きな目をぱちぱちとさせ、生気が宿る。白地に金の刺繍が施された衣類に身を包んでいるが、土埃や葉の汁によって汚れている。
「こ…んにちは…」
青年の無邪気な態度に灰白は
「いい天気だね」
青年は笑っているがどこか投げやりだった。紅は黙って灰白の後ろへ回る。青年は両腕を広げて木漏れ日を浴びる。
「あの、道を訊きたいのですが」
青年の広げたままの腕が力無く落ちる。虚空を見つめた大きな瞳。紅がまた警戒の色を帯びはじめ、灰白も緊張感を持った。
「ああ、道?どこ行くの?」
青年は笑っているが灰白から目を逸らすと突然表情が消える。
「風月国へ…」
青年は会話をしていたことを思い出したかのように灰白へ向き直る。
「風月国?ってことは何、君たちは風月国の人じゃないの?」
乾いた笑い声を上げて青年は問う。紅の手が刀の柄に掛けられる寸前で灰白は、迷ってしまって、と繕う。なるほどね。青年は乾いた笑い声をまた小さく上げて、葉に覆われた空をぼうっと見つめている。奇妙だ。情緒の不安定さを感じる。変わった人なのかも知れない。
「ビックリしちゃったよ。四季国が大変だったみたいだから四季国の人かと思った」
灰白は今、四季国がどうなっているのか知らない。そして何故こうならなければならなかったのか。突然夜に起こされ、引かれるまま走った。
「多分生き残りもいるだろうし、そうしたら風月国が一番近いから…」
青年は
「…名前は訊かないでおくよ。どうせ忘れるから。俺は
丸い蜂蜜色の目が虚ろに灰白を見た。
「あまりいいところじゃぁ、ないよね。あそこじゃそんなこと、言えないけれど」
青年は自嘲的に笑った。森の中とはいえ誰が聞いているか分からない。紅の視線はじっと青年に定まり敵意に満ちている。
「どの国よりもすごいんだろうが、どの国よりもひどいよ」
青年は付いて来いと言わんばかりに歩きはじめた。小枝を踏む音がする。丈の長い草を踏みしめる。
「昨日の今日で、外から帰って来たならもしかしたら四季国のこととか根掘り葉掘り訊かれるかも知れないけどシラを切り通したほうがいいよ」
朽葉の足が止まる。森の出口が見えてきた。灰白も足を止めてまた空を見上げはじめた朽葉を窺う。朽葉は灰白の顔を正面から見つめる。
「やはりきちんと話しておこう。四季国を襲ったのは、灰白というあなたくらいの年の娘を狙った風月国の王だ」
紅の視線が朽葉を刺す。朽葉は哀れなものを見るかのように紅を一瞥した。
「君たちと合流出来てよかった。この先にきっと兵がいる。暫く待ってから出るといい。風月国はこの森を出たらずっと北だ。遠くはないが近くもない」
朽葉の声音は落ち着いている。不安だった様子も消えた。灰白は足元を見つめる。出された己の名に身体がカッと熱くなる。小石が転がって一部舗装されている。風月国の王のことなど何も知らない。国ごと狙われた理由も思い当たらない。耳の奥から妙な音が断続的に聞こえた。目の前が白く霞む。
「…じゃあ、風月国は四季王様の仇…ッ」
朽葉は静かに森を吹き抜ける風に撫でられていた。木々が騒めく。鳥が囀り、草花が靡く音がする。長閑な風景。若草色と日に透かされた淡い緑。涼やかな弱い風が頬を掠めても熱くなった身体の芯は冷めなかった。胸に穴が空いたかのように息が吹き抜け、耳障りなほどの風の音が呼吸と共に起こる。
「お嬢様、落ち着かれよ」
紅の声で我に返った。いつの間にか朽葉から守るように灰白の前に腕を伸ばして警戒している。肩が上下して、上手く息を吸った心地にならない。
「これを使ったらいいよ。要らないなら質に入れて。高値が付く」
穏やかな口調で朽葉は真っ白い鞘が美しい短剣を差し出した。
「…っ」
礼も言えず灰白は黙って受け取る。
「ここにいても埒が明かないね。未来を望むなら落ち着いて」
朽葉は灰白の肩に手を置き、優しく笑うとすぐに鋭い面持ちで森の出口を向いた。
「朽葉…さん…」
灰白が呼ぶ。それを合図のように朽葉は振り向かず森の出口へ1人歩いていく。何故兵がいるのか。自分たちを追っているのかも知れない。朽葉の言うことが本当なら今頃、"灰白"を探しているはずだ。
「紅」
「はい」
「ごめんね」
朽葉の背が小さくなっていく。灰白はその後ろ姿を見つめていた。
「いいえ」
紅の小さな声が森に吸い込まれていった。
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