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 第十一章


 俺の勝ちだ。マクラーレンでマツダやレクサスを抜き去りながらクロカワは思った。どうだ、見てみろ。リアビュー・ミラーにさえ映っていないじゃないか。予め定められたコースを走り終えゴール地点の書店の駐車場に戻った時には完全に《ワイルドスピードX2》の冒頭のレースをスカイラインで勝利したポール・ウォーカー気分に酔いしれていた。カマロから降りたタケザキがこちらへ歩いて来る。大方さっきの薄笑いで俺の勝利を祝福してでもくれるのだろう。そうクロカワは予測したが、近付くタケザキの表情は薄笑いには程遠く、困惑と憔悴にまみれていたと形容するのが最適だった。

「おい、大丈夫かお前」

「それが……」

「何だ。言ってみろ」

「言いにくいんですが……」

「だから言わなきゃわかんねえだろ」

「すいません……カネ取られました」

「誰に取られたんだよ」

「ユリカです」

「で、どういう状況だったんだ。説明しろ」

「はい。レースがスタートしてから私は自分のクルマに戻ってひっそりと待ってたんです。そこへあの女がやって来ました。まあ、何度か一緒にビリーの別荘で飲んだりして当然仲も良かったんでドアを開けて普通に話し掛けました。一体どうしたんだ、こんなとこで、ってな具合です。そしたらいきなり銃を突きつけてきてこう言ったんです。カネ出せ、コラ。カネだよ、そこにあんだろ、あ? 早くしないと頭を吹っ飛ばすよ、だったかな。あるいは、テメェの頭に風穴が開くよ、だったかもしれません」

「そこは大体でいいよ。で?」

「頭に風穴を開けられたくなかったんで……」

「カネやっちまったのか?」

「はい」

「馬鹿野郎!」

 会長が子分に芸術的な左フックをお見舞いするとタケザキは腰が砕けたようにダウンを喫する。彼はパンチを受けた顎を押さえながら謝罪する。

「会長、すいません」

「それにな、テメェが奴らとグルじゃねえって証拠はあんのか、コラ」

「そ、そんな、会長、信じて下さい、俺はシロっすよ!」

「……」

「俺と会長の仲じゃないですか。思い出して下さい、これまでの忠誠と献身を」

「まあ、それもそうだな。長い付き合いだ」

 会長は子分の手を取り引き起こしてやった。

「すまんな。つい手が出ちまって、たかがはした金だってのに」

「いえ。それにしてもさっきの左フックは相変わらずのキレでした」

「そんなことはないだろ」

「全く見えませんでしたよ。気が付いた時にはもう倒れてましたね」

「そうか?」

「さすがですね、会長」

「もういいよ。じゃ、メシでも行くか?」

「はい」

「若い衆にも来るように連絡しろよ」

「分かりました。で、どこ行きましょうか?」

「そうだな、中華にするか。どこかいいとこあるか?」

「ここら辺だと〈クマハッチン〉がいいと思いますけど」

「そうか。じゃ、そこでいいや」


「お疲れ様でした」

 午前八時に勤務が終了したシンガーは制服をハンガーに掛けると一目散にセリカに向かった。エンジンを始動させるとバッテリーの充電の為にしばらくはオーディオを切ってアイドリングしている間に最近買ったスマートフォーンで音楽鑑賞して時間を潰そうと思った。メーカー各社が競合する中漠然とした音質が良さそうだというイメージだけで適当にパッと見で選んだソニー製のスマホを鞄から採掘し電源を入れたところタケザキからメールが入っていることに気付いた。大意としては大問題が発生したから至急連絡求むという内容だったので、たった今勤務が終了し過酷な重労働から解放され自由を満喫していたところですという大意の返信をした。するとアイドリングしてバッテリーを充電しながらエミネムか50セントかなんかを聞いていた最中またメールが着信した。今すぐ会ってミーティングしたいという内容だったので最終的な結論としてスターバックスで待ち合わせしようという事でやり取りは終了した。

 ソニーのスマホを買ってからは勤務先や近所のコンビニの駐車場で無料wi-fiを時間無制限で使い放題になってしまいわざわざコーヒーを買って一時間制限の無料wi-fiを使用する必要性も消滅しすっかり寄り付かなくなっていたスターバックスに到着するとこれからすぐ寝るだろうから何かコーヒー以外の飲み物は無いかどうか物色した結果、結局コーヒーを注文しテーブル席でそれを飲みながら《白痴》を読んでタケザキを待った。ここに来なくなってからはすっかりこれも読まなくなってしまったなと思いつつ純真な公爵が汚染された世俗と下賤な悪党に翻弄されつつ冒険と恋愛を繰り広げる物語を満喫しているところへタケザキが到着した。タケザキが手にするトレーには一杯のコーヒーと二つのニューヨーク・チーズケーキが載っていた。一つくれるのかな。あるいは二つ食うのかもしれん。どっちなのかちょっとドキドキしていると、やっぱりシンガーにくれるつもりだった。何ていい人なんだ。ニューヨーク・チーズケーキはいつも目で見るだけで一度も注文した事の無いシンガーはいつか食べてみたいと思っていた。やっぱ組織でやっていける人ってこんな感じなんだろうな。頼んでもいないのにスイーツを奢る。単独行動主義者的には存在しない発想であった。いやいや、どうもすいません。ありがとうございます。と深々と感謝してからチーズケーキを頂いた。ところで大事な話ってなんですか? ああ、それなんだが、実はマジックの事なんだ。マジック。そう言えば昨日はレースだったっけ。どうなったんですか、レースの結果は?

「それがレースどころの話では無くなってしまったんだよ」

「具体的に言ってくれないか?」

「マジックはクロカワに消された」

 チーズケーキが載ったスプーンを持つシンガーの手が止まった。やっぱり。思った通りだ。悪党連中に関わると結局最後は消される運命に追い込まれる。《グッド・フェローズ》と同じじゃないか。もうこれからは危ない橋を渡る事無く実直にひっそりとコンビニの夜勤として陽の当たらない人生をこっそり営むに限る。

「どういう状況だったか説明してくれないか」

「分かった。だがその前にそっちは昨日のレースに関してどの程度の説明を受けていたか知りたい」

 もっともな話だ。こちらがどの程度の知識を既に持っているかどうかで説明する範囲も異なってくるであろう。分かりきった余計な説明で時間を無駄にする手間を省かない手はない。

「えーっと、そうだな……、マジックは確かそのレースは絶対勝てるレースでそのレースに報酬を賭けるのは絶対儲かる話だとして私に説明していた」

「絶対勝てて、絶対儲かる。なるほど。つまりそれはマジックのクルマならクロカワのBMW M4に対して性能的に圧倒的に有利であるという前提からの予想と捉えて問題は無いかな?」

 シンガーはタケザキの言った文言を吟味し意味内容的に論理矛盾点は無いと判断するまで時間を取った。

「問題無い」

「分かった。では説明に入ろう。そちらの予備知識としてのマジックの予想についてはその正当性が限定的であったと断じざるを得ない」

 正当性が限定的だって事だな、短くすると。簡単に言うと、ぶっちゃけあんま正しくはねえって事だ。意味内容的には否定文に言い換え可能だが否定語を一切使用しない巧妙な表現だな。表現としては肯定的なのでその否定的内容を若干和らげて穏やかに納めようという意図が見てとれる。シンガーはそう分析しながら続きを聞いた。

「俺たちは書店の雑誌売り場で待ち合わせしていた。俺が着いた時にはマジックは既にそこに居て確か《F1速報》を熟読していた」

 あれか。大方、レッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペンの特集でも読んでいたことであろう。

「俺は奴にカネを渡すから俺のクルマまで来るように言った。俺はカマロの運転席に乗り奴は助手席に座った。それから奴に奴の分とお前の分を合わせた一千万。五百万入りの封筒を二つ渡した。すると奴は奴がレースに勝利した場合の分のカネも用意してあるのか訊いて来た。俺は用意してあると答えると奴はクルマを降りて自分のFR―Sに戻り、俺はそのままクロカワが来るのを待った。それからクロカワがM4に乗って現れると俺らは集まってレースの段取りを組んだ。書店の駐車場前からスタートし決められたコースを走り先に元の書店の駐車場に到着した方の勝ちというルールを確認してからレースはスタートした。俺はレースの間は駐車場で待機するよう指示されたのでそこでただひっそりと待っていた。スマホをいじりながらな。するとやがて先にM4が駐車場に戻って来た。意外だったね。あのFR―SにM4が勝てるとはね。なんてったって、あのFR―SならアウディR8とも互角で張り合える仕上がりだったからな。いくらM4が勝ったとは言え、そう遅れを取るはずはない。直ぐにマジックのクルマも戻って来ると思ったが一向に現れん。不思議に思ったんでクロカワに訊いてみたんだよ。ひょっとして何かあったんですか? ってな。すると奴は言ったんだ。まあ、ちょっとな。事故ですか? 俺がまた訊くとクロカワは奴の汚い計画を披露してくれたよ」

「汚い計画、罠か?」

「ああ、あいつは手下のキクシマにカネを掴ませて待ち伏せさせてたのさ。マジックはライフルで狙撃されてあの世行きだよ。キクシマはFR―Sの中からカネを盗んで逃げたって話だ」

 俺のカネを盗んだだと? あのカネが無かったらマスタングが買えないじゃないか、と昨晩までは現行スープラが欲しかったのに黄色い現行マスタング前期型の中古が三百五十八万円で売ってるのをネットで見つけた途端すっかりそっちに心変わりしたシンガーは激しく憤慨した。一千万円級の車格とデザイン性でタイヤを四本積めてシビックタイプRの新車より百万円も安いなんて雪国ドライバーにとってお買い得以外の何物でも無い。

「クソッ、許せねえな、あいつら」

「だろ」

「なあ、タケザキ。お前、クロカワの部下だったら野郎の住所知ってるだろ」

「まあ。けど、知ってどうする気だ?」

「殴り込みだよ」

「あいつはもう会長だぞ。奴の家の警備は主要国首脳クラスだぜ」

 耳にイヤホンを着けサングラスにダークスーツのエージェント・スミス風SPが周辺をウロウロしている情景を思い浮かべつつシンガーは質問した。

「じゃあ、どうしたらいいんだよ」

「そうだなあ……、今夜、クロカワは〈アルテミス〉のVIPルームで昨晩の成功を祝うパーティーをやる予定なんだ」

「パーティー? 面白そうだな。もっと面白くしてやるよ」

「もちろん、キクシマも来るぞ」

「飛んで火に入るパーリーピーポーか」

「それにシンガー。見せたい物があるんだ俺のクルマまで来いよ」

「ああ。ただ最後に一つだけいいか? 俺はまだこのチーズケーキを食い終えてない。あんたの分はそっちの自由だがこれを片付けるまでは待って貰いたい」

「もちろんだ、シンガー。存分に味わってくれ」

 シンガーはスプーンを持った手を再び動かした。


 今思えばあの時のニューヨーク・チーズケーキが目眩ましだった。あれを食ってから帰宅し一眠りしてから起床し、お茶とコーヒーを飲みながら《アベンジャーズ インフィニティ・ウォー》を鑑賞し入浴しセリカでこの駐車ビルの屋上に到着したシンガーはシェイカーからタダで貰ったバトルプロテクション・スーツの装着に取り掛かった。当初はマスク無しでサングラスだけ掛けようかと思っていたが、やはりそれだけだとほぼ素顔なので人に見られて恥ずかしい事に気付いて無理やりマスクも被ることにした。《インフィニティー・ウォー》のアイアンマンのスーツはナノテクノロジーを採用しワンタッチで無数のナノマシーンが全身を液体状に覆いスーツを構成するシステムに進化していたがこっちはまだ試作品段階だったので単に手作業で装着するアイスホッケー選手方式を採用していた。唯一違うのは装備する武器がスティックではなくベレッタだった点だ。シンガーはタケザキのカマロのトランクに入っていたエリートⅡを腰のホルスターに納めたところで思った。そう言えばタケザキの奴随分用意が良かったなあ。まあゴロツキだからチャカくらいは持ち歩くものかもしれんがよりによって俺が一番好きなエリートⅡをトランクに入れておくとは。エリートⅡが予めシンガーの為に用意されていたすればそれを必要とする行動を将来シンガーがするであろう事を想定していたことになる。その行動とはクロカワとキクシマの襲撃作戦ではあったが、彼らがシンガーのカネを強奪した犯人であったとして彼らを襲撃することで一体如何なる利益があるのか。シンガーはバトルプロテクション・スーツを装着しこれからジェット・エンジンを始動させ敵地に突撃する直前という土壇場においてそのことをまだ考慮していなかったことに気付いた。ただ単に彼にとっての悪を征伐したいという目的のみの行為であれば彼にとってそれは必要十分な目的であったとは思えなくなってきた。彼がスーパーヒーローや正義の味方であったとすればその目的だけで十分だったはずである。ヒーローは悪を征伐するのを目的として存在する物語における一種の仕掛け、装置に過ぎないからである。それに反しシンガーは物語に隷属する仕掛けでも装置でもない一介のコンビニ店員としての生活を営む人間であった。人間であるならその行為の善悪ではなくその行為によって得られる恩恵によってそれを行なうか行なわないかを判断すべきである。もし何も恩恵が得られないのであれば彼はこの襲撃作戦を中止せざるを得ないという結論に至った。

 シンガーはセリカの運転席に戻るとマスクを脱ぎ後部座席に放り投げた。じゃ、帰って《インフィニティー・ウォー》の続きでも見るか。まあ、一応その前に前述の恩恵についての問題を確定しておこうかと思った彼は携帯電話を鞄のガラクタの中から発掘しタケザキに電話を掛けた。

「タケザキか? シンガーだ」

「どうした?」

「問題が発生した」

「どんな問題だ」

「行為の恩恵についての問題だ」

「何だ、それは? 論文でも書く気か?」

「論文を書いて学会に発表してる暇なんかある訳ないだろ」

「まあな。じゃあ、説明してくれ、その恩恵についての問題を」

「タケザキ、俺はヒーローでも正義の味方でもない」

「そうだったのか、それで?」

「ヒーローでも正義の味方でもないとすれば俺は何なんだ?」

「俺に聞いてるのか? であれば答えはこうだ。俺には関係ねえ」

「正解だ。人は誰しも自分に関係の無いことを考える必要はない」

「……で?」

「つまりな、タケザキ。俺はヒーローではないが故に恩恵を必要としてるって意味だ。意味分かるか?」

「かなり飛躍したが、言いたいことはなんとなく分かるぞ、シンガー。お前は無償の奉仕に身を捧げる高潔な騎士ではなく、正当な対価を要求する労働者階級の代表だってことだろ」

「まあ、大意としては大体そんな感じだ。その社会主義的なレトリックを別とすれば」

「要するにお前はお前が得るべき恩恵について知りたいってことだな」

「さすがだな。問題の核心に易々と到達したじゃないか」

「安心しろ、シンガー。恩恵については心配無用だ。俺に任せろ」

「任せろ。どういう意味だ? その〈任せろ〉は」

「俺はお前が必要としている恩恵を用意しているって意味だ」

「具体的な数字は?」

「最低でも当初の報酬額であった五百万は確約しよう。それに事がうまく運べば俺自身も多大な恩恵を得られるだろう。その暁にはそれに見合った多大なボーナスを加えるつもりでもいる。どうだ? お前の問題はこれで解決したか?」

「ああ」

 シンガーは電話を切ると、後部座席のマスクへ手を伸ばした。

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