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第十章
バッテリーが上る前は大音量でリズミカルなダンスチューンを流しながらドライブしつつ時折シンガロングしながら要所を回り用事を済ませるだけでもかなりのストレス発散になっていた。いや、《キルゾーン》で銃を撃ちまくるよりもそっちの方がストレス発散方法としては遙かに比重が大きかったことを新たに認識させられた。バッテリーが上ってからは電気を溜めないといけないのでオーディオを切らざるを得ない。どんなにスピードが出ようとも、例えF1レベルで加速しようとも音楽が無ければ重度の音楽中毒だったシンガーにとってはかなりのストレスとならざるを得なかった。クルマのバッテリーに依存しない方式で音楽を聴く為の端末を何か用意するか、バッテリーを交換するか。二つに一つだとすれば当然バッテリーを交換した方がいいのだが……今回の報酬を手にすれば新たに何らかのクルマを購入することが出来る。それを前にしてバッテリーを交換するのはカネの無駄だという結論に至った。だが、そもそもその報酬が確実に手に入るのかどうかというのも疑わしい話だ。犯罪組織のナンバー2がそのトップの暗殺を外部に委託する。報酬はその成功後という契約で。であるならその外部委託先を抹殺してしまった方が秘密保持及びカネの節約から考えてベストな選択肢なはずだ。その程度の事は大学でシェークスピアを専攻しなくとも、古今東西のヤクザ映画、マフィア映画、犯罪映画なんかを敬愛する映画オタクであったシンガーにとってほぼ常識と言っても何ら差し支え無かった。であるとすれば、なぜそんな仕事を引き受けたのであろうか。成功したとしてもクライアントには命を狙われると予想していながら。簡単に要約してしまえばカネに目が眩んだからだった。それと、ディーラーからの執拗な「新しいクルマを買え」プレッシャーも加わったからだ。人は常にカネとプレッシャーから愚かな行いに走る。かつてゲーテはそう言った。でなければオスカー・ワイルドが。あるいはきっと誰もそんな事は言っていないだろうが恐らくそれが真実である事はいずれ証明されるに違いない。
そんな物思いに耽りながらシンガーは《バウンシー》のカウンターで一杯目のジン・トニックを飲み干した。彼の隣ではマジックがハイボールを飲みながらユリカが歌うブリトニー・スピアーズを聴いていた。バーテンのユミコが次は何を飲むか訊いてきたのでシンガーは生ビールを注文する。彼女は彼に生ビールのグラスを持って来た時に話し掛けた。シンガーさんはダンスは出来るんですか? ダンス? 酔っぱらった時に見よう見まねの適当なダンスだったら出来たが、こう答えた。
「出来ません」
「前来た時に一緒に飲んでた男性のお客さん覚えてますか?」
「ええ、何となく」
「その方がシンガーさんが帰った後、すごい踊ってましたよ」
「本格的なダンスですか?」
「はい」
「見てみたかったなあ」
「また来て踊ってくれると思いますよ」
「だといいですね。ダンスを見るのは大好きなので」
ユミコが別の客に呼ばれてそっちに行くとシンガーはビールを少し飲んでじっくり味わってからマジックに話し掛けた。
「なあ、例のカネはどうなってんだ?」
「心配すんなよ。明日の夜、予定通り受け取る手筈になってる」
「そっちこそ、もう少し心配した方がいいんじゃないか? 口封じで消される恐れだって無きにしもあらずだぞ」
「全く、これだから映画オタクは困る。《グッド・フェローズ》の見過ぎだぞ、シンガー。クロカワはジミー・コンウェーとは違って手当たり次第に仲間を殺すような腐れ外道じゃなく、きちんと世間体って物をわきまえたビジネスマンだからな」
「そうか。それなら安心だな。後、《イヤー・オブ・ザ・ドラゴン》も見た方がいいぞ。DVD買ったから貸そうか?」
「それにな、旨い話があるんだ」
「旨い話がある? 絶対儲かる話なんだろ。それで儲かるのはその話をする奴だけで聞いた奴は騙されて損するだけだって、まさか知らない訳じゃないだろうな?」
「もちろん知ってるよ。だけどこれは本当に絶対儲かる話なんだって」
「そうか、だったら安心だな。で、どのバージョンの〈絶対儲かる話〉なんだ?」
「絶対に勝てる賭けレースだ」
「レース?」
「クロカワのクルマと俺のFR―Sで今回の報酬を賭けてレースしようって話なんだ。こっちが勝てば報酬は倍。相手がストックのM4程度ならこっちの楽勝だ」
「もし負けたら?」
「報酬はゼロだ」
「……そいつはかなりリスクだが、あのFR―Sなら確かにM4程度に負ける筈はないな」
「だろ? 勝てば一人当たり一千万だぜ。どうだ、本当に絶対儲かる話だろ」
「ああ、頼んだぞマジック」
「任しておけって。後、さっき言ってたDVDも頼む」
「ああ。ついでに《ブラック・レイン》と《アンタッチャブル》も持って来よう。同ジャンルで先行する《イヤー・オブ・ザ・ドラゴン》からの影響が如実に見てとれるのが楽しいぞ。もちろんコッポラの《コットンクラブ》も捨て難い。エイティーズのギャング映画は名作揃いだ。何もスピルバーグとルーカスとスタローンとシュワルツェネッガーだけって訳でもないんだ。興業成績上はそいつらの天下だったとは言え作品の恒久的価値としては互角以上に張り合ってたんだぜ」
「なら《コットンクラブ》も持って来てくれ」
「お安い御用だ」
一千万か。だとするとスープラもいいが、レクサスRC―Fも買えるな。やはり後部座席があった方が何かと使い勝手もいいし、ひどかったヘッドライトもマイチェンですっかり容姿端麗になったし、こいつは夢が膨らむ一方だな。シンガーは生ビール飲みながら取らぬ狸の何とやらですっかりご機嫌になった。いや、待てよ。早まるな。ここはとりあえず五百万でスープラを買って、残った五百万で飲み屋に行きまくって豪遊するというのも一興だな。すっかり景気がいい気分になったシンガーは何か景気がいい歌を歌いたくなった。なるべく景気のいい空想を膨らませ景気のいい歌を歌いカーゲームで高級スーパースポーツを乗り回しタダで金持ち気分を味わう事などによって主に内蔵と血管に分布する自律神経系が快い状態になり自身の潜在能力を無意識に解放し成功に導くという感じの話をファイヤーマートの夜勤時に読んだ本に書いてあったのをシンガーは記憶していたので、彼はリモコンを手にすると自身の知る中で最も景気のいい歌であったブルーノ・マーズ《That's What I Like》を原曲キー転送した。
Gold jewelry shining so bright
Strawberry champagne on ice
Lucky for you, that's what I like
That's what I like
口では絶対に勝てると言ったマジックだったが、もちろん本当にそう思っていた訳ではなかった。あれだけ勝ちまくってたルイス・ハミルトンでさえ、キミ・ライコネンに勝利を奪われる事もあれば、ニコ・ロズベルグに世界チャンピオンの座を明け渡した事もあったのだ。性能では多少劣るとは言えBMW M4だって相当な高性能マシンだ。レースでは何が起こるか分からない。絶対儲かる話で儲かるのはその話をする奴だけで聞いた奴ではない、か。全くお前の言う通りだな。マジックは隣でご機嫌にブルーノ・マーズを歌うシンガーを見ながらそんな風に思っていた。
そろそろ帰る頃になった三人はタクシーに相乗りすることにした。まだ午前二時前で朝までにはまだまだ時間があったが明日は大事なレースが控えている。二日酔いで二人分の賞金総額二千万のレースに挑む訳にはいくまい。マジックはそう思いつつ勘定を済ませるとユミコに呼んで貰ったタクシーに連れの二人と共に乗り込んだ。先にシンガーの家に寄ることにした。到着すると、助手席から降りたシンガーは一度家に行ってからマジックが頼んだエイティーズのギャング映画セレクション四本を持って来て彼に渡した。マジックが礼を言うとシンガーは家に帰りタクシーは走り出した。後部座席のマジックはビニル袋から《イヤー・オブ・ザ・ドラゴン》のDVDを出しジャケットを見てみた。主演はミッキー・ロークとジョン・ローン。監督は《ディアハンター》で一世を風靡し《天国の門》で干されたマイケル・チミノの一大バイオレンスか。ふうん。今、ジョン・ローンってどうしてんのかな? ここんとこ音沙汰が無いな。まあ、とにかく脚本にオリバー・ストーンも関わっているだけに中々面白そうじゃない。
ユリカのマンションに到着すると二人は寝室に向かった。翌朝、マジックが目を覚ますとユリカは既に起床しワイドショーを鑑賞しながらコメンテーターがしゃがれ声で言う日々の出来事に関する当たり障りのない感想に耳を傾けていた。マジックはその感想を無視しコーヒーを飲んでから歯磨きをしシャワーを浴び、石鹸で体を洗ってシャンプーで髪を洗った。ドライヤーを使い終わった後は既に午後一時を過ぎていた。道理ですっかり腹ペコな訳だ。彼はマクドナルドに行く為に身支度を整えるとユリカに注文を訊いた。
最寄のマクドナルドのドライブスルー経由で帰宅したマジックは持ち帰った紙袋をテレビの前のテーブルに置いた。さてと、これを食いながら夜の用事に先立って《イヤー・オブ・ザ・ドラゴン》を見ようと思った彼だったが突然気が変わり、世界中がマイケル・ジャクソンで熱狂していた1984年当時に五十八万ドルも掛けて製作されその半分も回収できなかった白人ジャズミュージシャンが主人公で黒人タップダンサーが登場する禁酒法時代のニューヨークを舞台にしたギャング映画の方を見てみることにした。商業的には製作が遅過ぎたか早過ぎたかのどちらか、あるいは両方だったが所詮同時代における商業的評価などはその作品の本質的な価値とは一切無関係であることをイングランドの歴史を題材に描いた歴史劇で一躍人気作家となったシェークスピアがイングランド人の観客相手にデンマーク人やスコットランド人やムーア人を主人公にして書いた四大悲劇と同質なレベルで実証する
物語はタイトルと同名の1920年代のナイトクラブでのご機嫌なパーティーで幕を開ける。セブンティーズのディスコブームで打撃を受けその後絶滅してしまった《レイジング・ブル》に登場する〈コパカバーナ〉や《フレンチコネクション》でポパイが飲みに行くような感じの生バンドを揃えたオールドスクールなナイトクラブに憧憬を抱いていたマジックはすっかりその世界に引き込まれた。PCで作曲し演奏し再生する現代とは違い昔の音楽は作曲家が紙に書いた楽譜を見て演奏家が楽器で演奏する物だった事を思い出させてくれる。元カリスマホスト(的職業)でトランペット奏者の主人公、ディキシーは演奏のスキルでギャングのボス、ダッチの興味を惹く。ダッチのテーブルに招き入れられたディキシーは偶然にも突然の敵対組織による襲撃からダッチを救い、彼の手下として雇われる事となるが、ダッチの愛人であるベラに惚れ危険なロマンスに誘われるというデパルマの《スカーフェイス》のミュージシャン版ないしはカリスマホスト版と言ったようなストーリー展開である。マジックは冒頭の襲撃シーンが気に入った。自宅や移動中の道路とかではなく営業中のナイトクラブで襲われる方が絵的に華があっていい。コバヤシ会長の襲撃もこんな感じにどこかのクラブで飲んでる時に襲撃した方が面白かったかもな。よし、次に誰か襲撃する時はクラブで襲撃しよう。彼はそう決めた。待てよ。そんな事したらこの映画みたいに一緒に飲んでるヒーロー気取りが偶然会長の命を救ったお陰で襲撃が失敗に終わるリスクもあるな。何でも面白ければいいって訳でもないか。マジックはそんな事を考えながら紙袋から取り出したチーズバーガーにパクつきペーパーカップに入ったゼロカロリー・コークをストローで吸った。
マジックはユリカと一緒にチーズバーガーとフライドポテトを食べながら《コットンクラブ》を見終わった後、まだ時間があったので《イヤー・オブ・ザ・ドラゴン》を再生し、ミッキー・ロークがコルト45口径とデザートイーグルでチャイニーズ・マフィアを殺しまくるのを途中まで見てから軽い筋トレを済ませると近所迷惑なレンジ色のFR―Sを運転しクロカワとの待ち合わせ場所へと向かった。そこは丘の上の新興住宅地に位置するDVDとCDのレンタル及びDVD、CD、ゲーム、雑貨等も販売する大型書店で広い駐車場があった。マジックはサイオンを降り店内に入ると指定された自動車関連雑誌コーナーに向かい立ち読みを始めた。
「よお」
「おお。クロカワは」
「もうちょっとで来るよ」
「そうか」
「例のカネ持って来たぞ。先に渡すから俺のクルマまで来いよ」
「ああ」
マジックは《F1速報》を棚に戻しタケザキに付いて行った。
「クルマに乗ってくれ」
タケザキはそう言ってカマロの運転席に乗り込む。マジックもさりげなく周囲の様子を窺ってから助手席に乗り込んだ。タケザキは鞄を太腿の上に載せチャックを開き中から分厚い封筒を二つ取りマジックに渡した。
「五百万ずつ入ってる。お前と相棒の分だ」
「俺がレースに勝った時の分も用意してあるのか?」
「ああ」
タケザキは鞄のチャックをきっちり閉めそれを大事そうにドアと左足の間に置く。マジックはそれを全く見てない素振りで視界の隅に捉える。
「じゃあ、自分のクルマで待ってるよ」
「うん」
マジックはカマロを降りるとFR―Sに向かい運転席に乗り込んだ。タケザキはその様子を何気なく観察しながら煙草を手に取る。煙草にライターで火を点けてからまたマジックの方を見ると彼も煙草を吸い始めていた。タケザキはカマロの前後左右を確認してからバッグを掴み助手席に置いた。
随分いいクルマを買ったんだな。シルバーのマクラーレン600LTが書店の駐車場に入って来るとマジックは思った。英国車だから伝統的に直進安定性はM4などのドイツ車には劣るかもしれんが、そんな些細な問題を吹っ飛ばす程度のハイパワーと軽さとコーナリング性能を備えるとんでもない強敵だ。しかしながら一千万程度のカネを賭けるレースの為に最低でも三千万もするクルマを買うはずはあるまい。単にそれだけのカネを非合法ビジネスで稼ぎ、その汚れたカネで買ったクルマの性能をひけらかす目的でマジックにこの賭けレースの話を持ち込んだ程度の特権階級的道楽に過ぎないのであろう。ただこれは閉鎖されたサーキット内ではなく一般車両がごった返す危険なトラフィックを縫うストリート・レースだ。いくらマクラーレンだからと言ってその性能だけで勝てる程甘くはない。さあ、ショー・タイムだ。お手並み拝見と行こうか。
薄笑いを浮かべたマジックとタケザキは自分たちのクルマを降りると600LTに近づいていった。ディへドラルドアが上方に開き運転席からクロカワが姿を現す。タケザキは言った。
「お疲れ様です。会長。スゲークルマじゃないすか。一体こんなのいつの間に買ったんすか」
「大したことないだろ、こんなの」
「いやいや」マジックも口を挟む。「特にこの上に開くドア、最高じゃないすか」
「そうか? ディへドラルドアって言うそうだ」
「ディヘ、ディヘロラルドア?」タケザキがそう言うとマジックも続いた。
「ディヘレラルドアって言うんですか、へえ」
「お前らふざけてんだろ。ディヘドラルドアだよ」
「分かってますよ。ディヘルラルドアですよね」
クロカワはタケザキに言った。
「お前、今絶対ワザと間違えたよな」
「え? 間違ったましたか?」
「まあ、何でもいいや。おお」クロカワはマジックに話し掛ける。「マジック、悪かったなM4で来ると思ってただろ。ただもうすっかりあれに飽きちまってな。こっちに買い換えたんだが、うっかり言い忘れたんだ」
「こいつは滅法速そうですね」
「まあそこそこは走るんじゃねえかな。どうする? もし勝ち目が無いと思うんだったら止めてもいいぞ」
「え?」
「何てったって相手がこれじゃ、お前のそれでどうにか出来るのかなあ?」
クロカワは挑発的なセリフを挑発的な嘲笑を交えつつマジックに言い放った。
「クロカワさん。俺のクルマだってそこらの中途半端なゴロツキの改造車って訳じゃないんですよ。いくら相手がマクラーレンでもそうそう遅れをとるとは思いませんね」
「ふうん、やる気十分ってことだな」
マジックはその質問に余裕の微笑を加えて答えた。
「ええ」
「じゃあ、やるか?」
「喜んで」
マジックへ最高にお気に入りだったエイティーズ・ギャング映画セレクション四選を貸してしまったシンガーにとってその翌朝観るに値する映画など何も残されていないはずであった。最近買った《エイリアン コヴェナント》と《トランスフォーマー最後の騎士王》なんかはそう何回も見れる程のクオリティーでもないし文字通り最も好きな映画である《トゥルー・ロマンス》は数年前に新しくDVDを買い直してから相当数見返したのですっかり飽きたし、それは同様に《ヒート》にも当てはまった。それにレンタル店の新作を見たとしても期待を上回るような逸材にお目にかかることはここ数年無い。しかしながらあの伝説的なエイティーズ四選の内の
ノーヘルでスゲー寒そうなマイケル・ダグラスが勇壮な外観を誇るニューヨークの橋を渡る様子をタイトルバックに無骨なゴシック体の白い大文字で出演者の名前が登場する。懐かしい往年の日本人俳優の名が連なるが、いまだに生き残っているのは松田優作演じる佐藤の手下役だった国村準ら極少数となってしまった。しゃがれ声のロックシンガーの歌うセンティメンタルなバラードの流れる中、ニック・コンクリンが向かったのはがさつなバイカー共の集うガラクタだらけの陸橋の下だ。ハーレーに乗るオールドスクーラーはカワサキのレーシングバイクに乗った若造に賭けレースを申し出る。カワサキは答える。「あんたの年金を巻き上げてやるよ」当時から最高速度三百キロを誇る日本製の大型バイクに無骨なハーレーでは性能的には圧倒的に不利な中、オールドスクーラーは持ち前の度胸で進路を塞ぐガラクタを飛び越え勝利とはした金を掴み、会心の笑みをこぼす。全くバイクに興味の無いシンガーでもこの冒頭シーンを見た時だけはほんの少しバイクに乗ってみたいと思うのだが、その後屋根のある自分のクルマに乗ると四輪車の快適さと音楽の心地良さでバイクを一瞬欲しくなったことなどきれいさっぱり完全消失してしまうのが常であった。それにニックみたいにバイクでレースなんかしたら転んで大怪我しそうだし。いや、たとえハードなボディでプロテクトされてるとは言えクルマでも大きくて硬い物に衝突すれば死ぬかもしれん。今夜はマジックの言ってたレースが実施される。奴だって何かにぶつかって死なないとも限らん。そしたら報酬のカネも貸したDVDも返って来ないじゃないか。《ブラックレイン》は今鑑賞中の予備があるからいいもののそれ以外は大いに困る。特に《コットンクラブ》は非常に入手困難だ。今夜がファイヤーマートの夜勤でなけりゃレース現場に駆けつけ、やっぱ気が変わったんでレースでマジックのFR―Sに賭けるのを止めるよう申請し、手堅く五百万を確保し86を買い残りは秘密の場所に貯金しコンビニの夜勤をクビになった時に備えたいのは山々だったが唯一シンガーに出来たのはただ一心にマジックがクロカワのM4に勝つことを祈る以外なかった。
何事においても祈ってどうにかなるのならテクノロジーも策略も受験勉強もイカサマも賄賂も替え玉受験も課金もその他諸々の人類の叡智が生み出した倫理的かどうかは別としたいかなる難関攻略手段はその存在意義を剥奪される事であろう。ただその事は祈る事が無効果である事は意味しない。すなわちいかなる人類の叡智とカネと人脈とイカサマと策略と裏技、その他諸々の狡猾な工作を駆使しようとも最後の最後に祈ったかどうかで結果が変わった事が無いと証明されている訳では決してないからである。祈りとは願望の一種である。何事においても何かを成し遂げるにはそれを成し遂げたいという願望を抱く必要がある。その願望がなければその目的の為に課金したりズルしたり真面目に努力したり陰謀を企てたりはしないであろう。いかにクルマが速かろうともそれを運転する者に勝ちたいという願望とそのドライバーを応援する者の勝って欲しいという願望がなければ、彼らに対抗する貪欲且つ凶暴な敵対的競合者はどんな手を使ってでも勝利を奪い去るに違いない。
性能的な圧倒的不利を前にして薄笑いで対戦を受け入れたマジックに一体いかなる秘策があったのか。あるいはただ単にハーレーでガラクタを飛び越えたニックのように持ち前の度胸にだけは絶対の自信をもつヒーロー気取りの向こう見ず野郎なだけなのか。あるいは案外サイオンの方がマクラーレンよりも速いのかもしれない。結局やってみるまではどうなるか分からないレースは遂にスタートしたが、そのスタート直後の段階で既に明確に結果を想起させるであろう驚異的性能差を600LTは見せ付ける。いくらターボチャージャー等で大幅にパワーアップし高性能なタイヤに履き替えたとは言え、所詮は3ペダルマニュアル車であるFR―Sに対し600LTは高度に進化したオートマティックトランスミションを装備しスタート時も完全自動制御のローンチコーントロールによって最大化された加速力で相手の改造車をはるか後方へと引き離した。いわばその差は最新鋭ステルス戦闘機がゼロ戦相手に戦うようなものだ。パイロットの腕でどうにかなる時代は終焉を迎え勝負はコンピュータの処理能力次第というサイバーパンクな電脳世界へとステージは移り変わったのだ。
超越的存在を頼る封建的支配からルネッサンスや近代主義を経て段階的な解放を果たした人類ではあったが、多くの人々にとってはほぼ魔法でしかない大衆的な人智を超越しつつある最先端テクノロジーは新たな宗教でありそこから生み出されたスーパースポーツは性能はもちろん美学的洗練においてももはや神に等しい。サイオン対マクラーレンは言わば神に人が戦いを挑むようなものだ。コンピュータ制御によって恐るべきスピードで減加速をコントロールする神に対し人は足でクラッチペダルを踏んで手でシフトレバーを動かすという原始的なメカニズムで対抗しなくてはならない。神対人。マクラーレンがスーパーマンだとすればサイオンは言わばバットマンである。ただ思い起こせばあの物語ではバットマンはその戦略が功を奏しスーパーマンに実質的に勝利したではないか。必ずしも神が勝つとは限らない。マジックにもバットマンのようにスーパーマンに勝利する可能性は確かに残されていた。ディヘルラルドドアだか何だか知らないがそんな特権階級的ステータスを振りかざして調子に乗ってられるのも今のうちだぜ、クロカワさんよ――マジックはカップホルダーに置いてあったヘッドセットを取り頭部に装着した。
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