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  第四章


 かつてシンガーは《オール・ユー・ニード・イズ・キル》を見たと時こう思ったという。何であのパワードスーツにはジェットエンジンが無いんだ。だからあんなにトム・クルーズが何回も死ぬんだ。ただシンガーが夢で何らかの敵と戦う時はジェットエンジンが無くても飛べる設定にしてあった。その上自らの肉体を半透明な気体状に変質させ壁を通り抜けることも出来たし手からマイクロ波を射出し敵を内部から熱攻撃することさえ出来た。シンガーはある日白昼の繁華街の交差点で謎のカルト教団の戦闘員に拉致され彼らのアジトに監禁された時それらの特殊能力を用いアジトから脱出し敵を倒すことが出来た。結局彼らの目的は全く分からなかった。ただシンガーが主人公として活躍する為に何らかのそれっぽい悪役が必要だったという理由だけで無意識が想像した組織に過ぎなかったのかもしれなかった。無意識は多少アイアンマン3を参考にしたに違いなかった。それは確かだ。ただそれを参考にしたのが無意識かどうかは確かだとは言えない。覚醒時においては自分の空想を空想ではなく現実であると思うことは出来ないが、睡眠時においては脳機能が抑制され知能が低下しているが故、自分の意識的な空想を現実であるかのように思うことが出来る。ただそれを意識的に行なったこと自体を知能が低下している為に記憶することが出来ないからそれを無意識が作り出したものと錯覚しているに過ぎない。目覚ましのベルがシンガーの独自理論においては睡眠時における半意識的空想行為と呼ばれる物を終了させると、彼のヒューレット・パッカードでレンタルDVDを鑑賞しながらコーヒーとお茶を飲む行為を開始する為にシンガーは体を起こした。順番的にはお茶が先だった。彼は四十袋入りの箱から緑茶のティーバッグを一つ取りそれをマグカップに入れてお湯を注いだ。それをする為に一時停止していた《スパイダーマン:ホームカミング》を再生させお茶を飲みながらピーターがヴァルチャーと取っ組み合いしている様子を鑑賞し始めた。見るのは二度目だがその映画は気に入ったし《パシフィック・ハイツ》を見て以来大好きだったマイケル・キートンが演じる悪役もお気に入りだった。その悪役が着るウィングスーツはデザインも良かったが機能的にも理に適っていた。二連プロペラエンジンで自在に飛行出来る上翼があるので高速で移動する際も飛行姿勢を安定させることが出来るしその翼自体を武器にしてスパイダーマンを攻撃することも出来る。両手が自由なのでレーザーガンっぽい武器を持つことも出来るし足の爪状の装置で物を運んだり攻撃したりも出来る。その上トム・クルーズのパワードスーツには無かったジェットエンジンもちゃんと付いていた。だから言っただろ、ジェットエンジンが無いとダメだって。シンガーはその誰の役にも立たない忠告を繰り返すとDVDを止めコーヒーを作りそれを飲みながら歌の練習をした。

 〈ファイアーマート〉での勤務を終えZZTセリカ前期型のドアを開ける頃にはコーヒーと煙草を買いライターを貰って行ったアリストの男のことなどシンガーの脳の片隅にも無かった。その時は確かにそのアリストがツインターボモデルなのかどうかちょっと気になりはしたが、エンジンを掛けCDプレーヤーが50セントの《ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン》を再生させた頃にはそんな事を気にしたこと自体一切が消滅し脳は奏でられたラップに委ねられギアはバックに入りクラッチが接続されアクセルを踏まれたセリカは再び自由を取り戻した。あるいは行動の自由を再確認したセリカはパーティーと今後を生き抜くのに必要な食料を調達する為スーパーへ向かった。ベーコン、もやし、タマネギ、缶チューハイ、カット野菜。その辺があればパーティーは事足りた。シンガーにはクルマが好きな一般的な俗称として走り屋と呼ばれる人々には友人が一人もいなかったのでどこに行ってどうすればセリカにスーパーチャージャーを付けられるのか見当も付かなかったし、パソコンオタクやガンダムオタクの友人ともここ数年顔を合わる機会はめっきり無くなってしまっていたのでそのパーティーの参加者はもちろんシンガー一人きりである。自宅からやや離れた月極め駐車場にZZT231を駐車すると缶チューハイの至福の一口目をすすりサンシェイドでウィンドシールドをシールドアップしたと同時に電光石火の勢いでPSVITAを起動しながら二口目をすする。50セントを聴きながら缶チューハイを半分位飲んだ時点で《ニード・フォー・スピード モスト・ウォンテッド》が立ち上りマットグレーのポルシェ・パナメーラが全開走行を開始した。酒を飲みながら運転するのは通常国家権力により社会秩序維持の名目で禁止された違法行為でありどこかの頭のいかれた無法者以外そんなことを行いはしないがゲームでなら手軽にアウトローとなり缶チューハイ片手に公道を暴走し警察のダッジ・チャージャーに時速三百キロで体当たり出来る。昨日まではモスト・ウォンテッド7として名の知れたストリートレーサーの操るSL65 AMGとの熾烈な抗争を繰り広げていたのだがちょっとそれにも飽きたので別なレースをチラッと試したりしている内に缶チューハイはすっかり空になり白霧島へと移行する。倫理的にかなり問題があるのでいつかは国家権力によって禁止されるかもしれない仮想空間内飲酒暴走パーティーに区切りを付けるとホーム画面からブラウザモードへ移行しユーチューブの歌詞付き音源動画の中から最近最もお気に入りなシアfeat.ケンドリック・ラマーの《ザ・グレイテスト》を再生すると誰一人聞かせる相手の居ないカラオケ・パーティーが開催された。

 翌朝、シンガーはガンズ&ローゼズの《アペタイト・フォー・デストラクション》を聴きながらスラッシュが好き放題ギターをかき鳴らす様を思い浮かべつつスターバックスへと向かった。スターバックスラテを受け取りシナモンを振り掛け席に着きPSVITAを取り出しプルーライトカット眼鏡を掛けアメリカNBCの《ナイトリー・ニュース》でドナルド・トランプと世界の情勢を確認しお気に入りのボクサーであるミゲール・コットのタイトルマッチを観戦してからPSVITAを鞄に仕舞い《白痴》の下巻を取り出した。既にロゴージンは恐るべき罪を犯しパクられ裁判で有罪が確定した後だった。シンガーは彼が最も好きな小説の終局部を読みながらマグカップを口元へ運びつつその日の未明に催されたパーティーでの奇妙な出会いへと思いを馳せたのであった。そのパーティーはいつものセルフ・パーティーではなくリアル・パーティーだった。ただシンガーはDJがいるような一般的にクラブと呼称されるような場所に通うような人々に友人は一人もいなかったのでただの飲み屋にちょっと行って来ることをパーティーと呼ぶことが出来るのであればの話だが。とりあえず休日なので夕方あたりに起きると銭湯へお湯に浸かりに行ってから買い物しマクドナルドに寄ってバーガー二個を入手しそれをつまみに音楽を聞きながら角ハイと白霧島で完全に出来上がるとその日歌う予定の曲を再度リハーサルした上で《マイノリティー・リポート》でトム・クルーズが着てたようなユニクロの上着を羽織り〈アルテミス〉へと徒歩で向かった。入店しカウンター席に着くとどこかの何かで読んだ透明な酒は体へのダメージが少ないという俗説を頑なに信仰していたシンガーはジン・トニックを注文した。「お待たせいたしました」そう言ってバーテンがジン・トニックを持って来るとそれを飲みながら四連F1カジノ・マシン上部に設置された観戦用モニターに目を移す。チッ、オーストリアGPかよ。モナコGPはもう終わってシンガポールGPとアブダビGPはまだまだ先だな。それにいい加減ジン・トニックにも飽きたな。こんなのただ甘いだけだろ、といった具合の理不尽な不満を心に秘めつつ赤いフェラーリがトップを快走するのを眺めていた。あれってみんなマニュアルでやってんのかな? セリカはマニュアルだったがゲームでは指を上手く動かせないのでいつもオートマだったシンガーはそんな疑問を抱きつつバーテンが持ってきたリモコンに手を伸ばす。そういえばこのバーテンの名前なんだったかな? タケザキさんで良かったっけ。人の名前を即行で忘れるシンガーはそんなことを思案しつつデイビッド・ゲッタの《バッド》を送信したのだった。

 サビの「And he's watching us all in the eye of the tiger」の「eye」の部分がその日の調子を量るバロメーターだった。概して湿度が高いとコンディション的に都合が良かった。そこが熱帯雨林気候だったら毎日調子は良かったかもしれないがそうではないとしてもその日はすこぶるコンディションが整っていたのできちんと「eye」を伸びやかに出し切ることが出来たなといった思案に耽っていたちょうどその時だった。こいつ、昨日のアリストに乗ってた野郎だな。名前という音声的記憶はすぐ消失するが顔の形状という画像的記憶保持能力においては極めて卓越していたのでシンガーはタケザキが彼にマジックを紹介した時そのことに一瞬で気づいた。しかしながらいちいちその程度の事を口に出すことはなかった。なぜならそもそもシンガーは他人にそれほど興味も無かったし会話したいという欲望も少ないので基本黙りこくって一人で何事かをこっそりやるという単独行動主義者であった上他人と会話すればするほど声を出さなければならずそれによって声帯が劣化するリスクがあったからだ。そのことからもシンガーは他人と話す時は歌う時とは逆になるべくか細い声でささやくことを心掛けていたのだ。とりあえずこのマジックとかいうふざけたゴロツキを相手に適当な受け答えをしているとカウンターの奥からマヤが姿を見せた。マヤは何らかの謎めいた魅力に満ち溢れていた。この優雅な美女が恐るべき犯罪組織の幹部クラスと深い仲にある程度の事は十分あり得そうだし、それが事実であり得そうな事も周囲に漂い揺らめく不穏なる空気からシンガーはセンサーのように感知していた。ただそういった触れざるべき秘密に関して核心を突く質問する機会もなく相手もそのような話をしてくる事ももちろん無かった訳でシンガーは単なる客として当たり障りの無い気軽な会話に終始した。例えばどんなスポーツをするのか。どの格闘技を観戦するのか。どのボクサーが好きか。あるいはどういうエキセントリックなクルマに乗っているのか。そのクルマにはいかなるチューンが施されているのか、GTウィングは付いているのか程度の当たり障りの無い話題であった。マジックと一緒に来たユリカもクルマには関心があったようなのでその事を一応訊いてみたが彼女の86にはGTウィングは付いていないようであった。何でも分かったような振りをしてGTウィングとか言っていたがもちろんシンガーはどこでそんな物が買えるのかは全く知らなかった。そんなこんなでジン・トニックを飲みまくりながらこの美しい女性二人にミゲール・コットが如何に素晴らしいボクサーであるかを力説していた最中、カウンターの奥から騒々しい話し声と共にあからさまな無法者連中の一団がゾロゾロお出ましになりテーブル席へと向かって行った。コットの芸術的な左フックの破壊力を力説し終えたシンガーはさっき予約しておいたカラオケの順番が回って来たのでジン・トニックを啜ってからマイクを持ち《ザ・グレイテスト》を歌い始めた。


 I'm free to be the greatest

I'm alive

I'm free to be the greatest here tonight

The greatest

 The greatest

The greatest alive


 自由気ままに生きることを信条とした大物を気取っていたビリー・シェイカーは当然この歌詞を気に入ったという。ついでにそのリズムとメロディーも気に入ったしその後それを歌っていた男もお気に入りになったことであろう。シェイカーは国防省勤務当時から米国における有力な軍事企業の社長であったトニー・ウェインと深い仲にありその関係は現在でも良好であった故いかなる武器でも調達出来た。彼はその武器を無法者連中に売り捌き、そのカネで酒を飲み、語り合い、笑い、愉快な時間を過ごし、そうでない時はもっぱらマクラーレンMP4―12Cのアクセルペダルを床まで踏んでいるかPPVでボクシングを観戦しているか、とにかく好き放題やって悪党人生を謳歌していた。

「タケザキ」シェイカーは言った。「あの歌ってる男は誰だ?」

「ああ、あれはシンガーです」

「そうか、ちょっとこっちに来てもらえよ」

「分かりました。ミスター・シェイカー」

 歌い終えうっとりマヤに見とれていた最中、バーテンがやって来てシンガーに話し掛けた。シンガー、ビリー・シェイカーがお呼びだ。あのビリー・シェイカーが? 既にこの暗黒街に忽然と姿を現し暗躍する謎に包まれた米国人の名は広く知れ渡りその噂はシンガーの耳にもあちこちから入っていた。そのビリーがこんなコンビニ店員に一体何の用があるというのか。歌を気に入ったそうだ。そうか。まあ、そんなことなら一緒に飲んでやらないこともないな。シンガーは偉そうに心の中ではそんな風に思ったがそれはおくびにも出さず「ハイ、喜んで」と答え、マヤとユリカを伴いシェイカー、クロカワ、マジック、それとあのバーテンの待つテーブルへと向かった。ヴェルサーチかアルマーニかどこのどんなデザイナーかは見当も付かなかったがそんな感じのライトグレー・スーツの胸ポケットにネクタイと同色の淡い銀色のポケットチーフを無造作に差し込み真っ白い革靴を履いた大柄で肥満体型の五十台半ばと思しき白人が立ち上り愉快そうに英語で何事かを喚きながら西洋式の手招きをしていた。シンガーはそんな米国式の歓待にどんな感じに応えたらいいのかは単独行動主義者であった為全く経験は無かったが、とりあえずなんかの映画でデニーロがやってたような両手を広げながら上に向け横に差出したような真似をし、表情も《グッドフェローズ》でジミー・コンウェイを演じた時のようなデニーロの笑顔を真似てみた。ビリーは、お前歌上手いなあとか、まあ、座れよみたいな感じのことをワーワー喚いていたのでシンガーは、Thank you. Sure, why not? みたいな感じに適当に答えビリーの隣に座った。

「シャンペインでいいか?」

「ええ、もちろん」

「お前、グッドシンガーだな。マーヴェラスだったぞ」

「Thank you very much.」

「What about some food? You want something to eat?」

「そうですねえ、チャーハンってありますか?」

「どうなんだ、タケザキ、チャーハンはあるのか?」

「メニューにはありませんが、作ります」

「頼むぞ。タケザキ」

「かしこまりました。ミスター・シェイカー」

「シンガー、お前、チャーハンの卵は先入れ派か後入れ派かどっちだ」

「後入れ派です」

「オーケイ」ビリーは立ち上がって厨房の方に叫んだ。「タケザーキ! 卵は後入れでお願―い!」

「分かりましたー!」

「よーし、まあ、飲め。そっかあ、チャーハンかあ。あれ意外と酒に合うんだよなあ」

「ですよねえ。マグニフィセントです」

「マグニフィセント。だな。」

 隣のマヤがリモコンを差し出し、歌いますかとかなんか話掛けてきたのでシンガーはリモコンを受け取った。

「そうだそうだ。もっと歌聞かせてくれよ。マドンナは歌えるか?」

「え、そりゃ、もう歌えるに決まってるじゃありませんか。そうですねえ。では、《トキシック》を」

「《トキシック》? カマーン、シンガー。それはブリトニー・スピアーズだろ」

「Oops, sorry, Mr. Shaker」

「Just Billy. Call me Billy」

「分かりました、ビリー。では往年の名曲ヴォーグで」

「ファンタスティックだ。《ヴォーグ》か、いいねえ」

「お待ちどうさまでしたー!」

「随分早いな」

 タケザキが大皿に山盛りのチャーハンをテーブルの真ん中に勢い良く置くと総勢はエサに群がる動物の群れのように蠢き出し、口々にうまそうだな、どれほどの物なんだとか適当なことを喚きながら獲物に喰らい付いた。

「どうだ、シンガー。うまいか?」

「マグニフィセントです」

「そうだ、お前、ボクシングは好きか」

「もちろん。ミゲール・コットのファンです」

「コットか。奴はタフ・マザファッカーだな」

「ファッキン・グレイテストです」

「今度、トリプルGがタイトルマッチやるだろ。俺の家にそれのPPVを見に来ないか?」

「もちろんですよ、ビリー」

「良かった。歓迎するぞ、シンガー。二、三人モデルも呼んで置こう」

「いいですね」

「いいだろ。オッ、始まったぞ、シンガー。おーい、マイクマイク!」

 先に歌っていたユリカがシンガーにマイクを渡すと彼は《ヴォーグ》を歌い出した。


 It makes no difference if you're black or white

If you're a boy or a girl

If the music's pumping it will give you new life

You're a superstar


 シンガーには夢があった。それはMJとジャネットのデュエットスクリームを女性とデュエットで歌いたいというものであったので、そんな奴は滅多にいないであろうが一応スクリームのジャネット・ジャクソンパートを歌える人がいるのかどうか確かめてみたところ奇跡的にユリカが歌えるということだったので彼女にお願いして一緒に歌って貰った。こんな洋楽を女性とデュエットしたのはこんな中年になって人生初であったそうで、シンガーは大層喜んだという。そんなこんなで愉快な時間が過ぎ去るともにチャーハンは残り、シャンペインにも飽きた辺りでビリーはタケザキに言った。おい、あの例のスペシャルなアイルランド、あれ持って来いよ。シンガー、お前もそれ飲んでみろよ。さっき、みんなで飲んだら滅法うまかったんだ。スペシャル・アイルランド? お待ちどう様でしたー。タケザキがウィスキーの瓶とグラスを持って来た。飲んでみるとそれはウィスキーとは思えない程に甘く、恐ろしくうまかった。さすがスペシャルなだけはあるなと思い興味をそそられたシンガーはラベルのアルファベットに目を向けた――


MIDLETON

VERY RARE

IRISH WHISKEY


 あんな酒は一体どこで売っているのだろう。きっとこれから缶チューハイを買いに行くようなスーパーには売ってないだろうな。スターバックスラテを飲み終え、《白痴》を閉じるとシンガーは席から立ち上り駐車場のセリカに向かった。エンジンを掛けるとスラッシュが再度ギターを好き放題かき鳴らし始めた。シンガーはレイバンのケースに入った偽物のウェイファーラーを掛けるとギアを入れクラッチを繫ぎ、缶チューハイやカット野菜を買いにいつものスーパーへ向かい駐車場を後にした。その駐車場へマジックのアリストが乗り入れたのはそれから約四時間後のことだった。


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