第2話

 カミルが【ヤドリギ】で酒を呑みはじめたころには視界を遮るほどの勢いだった雨も、店を出るころには外套のフードからはみ出る前髪をわずかに濡らす程度まで弱まっていた。


 これは次第に止むはずだ。


 そう考えたのはカミルだけではなく、他の余所者たちもそうであった。否、全ての余所者が自身の判断に基づいて行動したとも考えにくい。恐らく、そのうちの何人かはこの街に詳しい住人に示唆されたのかもしれない。


 店の壁にもたれ掛かった酔っ払いも少ないながら、複数人確認できる。デネブルはああ言っていたが、やはりカミルのようにこれから起きる現象にシラフで臨む覚悟がない者もいるのだろう。


 宿までこの角を曲がればすぐ、という距離を歩いて、雨が上がった。

 とたん、立ち込めるのは花の蜜を思わせる甘い匂い。どこかで婦人が香水を吹いた様子もなければ、花壇もない。戦争を終結に導いた近代兵器の1つ──毒ガスも甘い匂いを発していたと本能に近い場所で思い出し、警戒を強める。


 しかし、街の人々の様子は落ち着いている。出所不明の香りに対する人々の反応は三様であった。

 1つはカミルのように出所を探る者。これが一番少数派だ。

 次いで、香りが奇跡の始まりだとわかっていて、その瞬間を期待と哀愁が入り混じった表情で今か今かと待ちわびる者。

 一番多いのは、香りなど気にすることなく日常生活を続行する者たち。雨が上がったことで、軒下に逃がしていた店の看板を表に出す店主や、洗濯物を干し始める主婦や小間使いなどだ。


 やがて、あちこちで声があがる。

 声の主は街の住民以外。つまり、カミルを除いた余所者たち。

 彼ら彼女たちは感嘆の音を喉から鳴らし、誰かの名前を呼び、あるいは話しかけ、涙ぐみ、肩に手をかける。抱きしめる者もいる。

 誰もが誰も、視線を向ける先には虚空があるのみなのだが。


 これが、この街にのみ発生する奇跡。

 雨上がりに死者は現れる。

 花蜜の香りと共に、会いたいと願う死者が眼前に現れるのだ。

 幻だと一蹴するのは容易い。


しかし、見えている個人にとっては実体があり、声も発する。各個人の世界の中で、対話を重ねている。


 ゆえに、この街は家族や恋人を喪った悲しみを忘れられぬ者たちがよく訪れる観光地として、発展してきた。

 前王朝も1度調査に乗り出したらしいが、雨上がりに発生する香りが原因だろうと予測づけられるのみで、特に実害なく、また奇跡も1人1度しか起きないことから、詳しい調査を打ち切っている。


 カミルもこの現象は知っていて、街にやって来ている。

 しかし、なにもない空間に向かって話しかけ続ける余所者たちと違って、カミルの眼前には何者も姿を現さなかった。


 結果に、彼は胸を撫でおろした。

 まだ、己にとって大切な人は誰一人としてこの世を去っていない。幻に向かって話しかける人ばかりの道を見据えて、彼は宿へと戻っていった。

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