第6話 decision -決断-
俺は莉佳からの評価を受けてもなお、美術部への入部は”保留”にしていた。
彼女が、本当に絵の良し悪しで絵に対する評価を下すような人ではないことは確認できた。
それでも、俺は本当に入部していいのか、と迷っている。
一生に一度しかない高校生活、絶対に無駄にはしたくないし、青春というものを絵に捧げる覚悟が、俺にはあるのか、そこが疑問だった。
初めて自分の意志で絵を描いて、それを人に評価してもらった、俺にとっては大きな転換点となった日の夜。
俺は風呂場の浴槽の中で、ひたすらに黙考していた。
将棋なんて見たこともないけど、長考している棋士もこんな気持ちなのかもしれない。
ああでもない、こうでもないとひたすらに考え、最善の答えにたどり着くまで、ただ目の前のことを考える。
きっとその答えとは、じわじわと近づいて行って得られるものではないのかもしれない。
ある瞬間に、パッと浮かんで、一気に視界が開ける感覚でたどり着くのではなかろうか。それが正しいのかはわからないが。
だから俺も、そんなタイミングを待っているのかもしれない。
風呂から上がって、自室へ向かい、カバンから自分の作品を取り出してみる。
我ながら不格好な手だ。
おもむろに自分の左手を出してみるも、現物とはほど遠い絵になっている。
そんな俺の絵を、彼女はあざ笑うでも、ここがだめだと指摘してくるでもなく、「正解」だと、「100点」だと評してくれた。
それは単純にうれしかったし、これでいいんだと思わせてくれた。
それなら──
それなら、いいんじゃないか。
絵を描いてもいいんじゃないか。
俺が描いた絵を認めてくれる、肯定してくれる人がいるのならば、俺は絵を描いてもいいんじゃないか。
そんなことを思った。
正直これには俺自身が驚いた。
こんなことを考えるようになったのか、と。
驚いて、納得もした。
莉佳とはまだ付き合いは浅いものの、彼女からは確かに芯の強さを感じる。
そんな彼女であれば、人の心を動かすことなど容易なのかもしれない。
絵という手段に頼ればなおのこと。
きっと俺も、彼女に心を動かされた人間の一人なのだろう。
だから、俺の中で答えはもう出ていたのだ。
あの場所で、あの人と一緒に、絵を描く。
これが答え。
既に俺は、筆を手に取っていたのだ。
筆を握ってしまったのなら話は早い。
あとはもう、絵の具をつけて真っ白なキャンバスに描くだけだ。
翌日、俺はその日に控えていた健康診断に備え、体育着持参のうえ、登校する。
普通の高校生であれば、自分の身長の伸びを気にしてしまう日となるのだろうが、俺は正直あまり関心はなかった。
それよりも、放課後の美術部への訪問にすべての興味関心が引き寄せられているような感覚だった。
ちなみに身長は2ミリだけ伸びていた。
まぁそんなものだろう。
校内の空き教室に配置された、歯科、内科、眼科などを順々に巡り、慌ただしく過ごしていれば、時間などあっという間に過ぎ去っていく。
15時過ぎにすべての検診を受け終えて教室に戻ってくると、そのことを実感した。
「山本君は、部活決めたの?」
担任に解散を告げられた後、話しかけてきた小柄な男子とは、検診の待ち時間に出席番号が近く、待機列での場所も近かったことから、会話を通して少しだけ仲良くなったのだった。
「え?あぁ、まぁ一応」
「へぇ!何部?」
「一応、美術部…」
「美術か~、絵描くの好きなの?山本君」
珍しいものを見るような目をして聞いてくる彼に、俺は少し迷ったのちに答える。
「うーん、まぁ嫌いではないかな」
「そうなんだ~、僕はバドやるんだ」
「お、バドミントンか、好きなの?」
「ううん、やったことないよ。でも楽しそうだったから」
「そっか。いいね、頑張れよ」
「うん!そっちもね!」
そう言うと彼は、まとめた荷物を持ち、そそくさと教室を出て行った。
「楽しそうだったから」
彼はそう言った。
実際、彼が教室後方のドアをくぐり抜けるとき、彼の顔は希望に満ちていたように思えた。
(俺にも、あんな顔できるかな)
ふと、そんなことを考え、首を振る。
絵を描きたいから俺はこれから美術室に向かうんだ。
胸を張って行くのみだ。
俺も通学用のカバンを背負い、教室を後にした。
今日も、美術室の前に俺は立った。
そして、引き戸の銀のプレートに手をかける。
ガラララッ
少しだけ開けにくいそれを開ければ、鼻を
まだ嗅ぎ慣れないが、悪い気はしない。
そして、部屋の左手前の机に腰かけるのは、莉佳。
彼女は絵を描くでもなく、荷物整理をしたり、スマホの画面に熱中したりするわけでもなく、ただ、ぼーっと座っていた。
「先輩、えっと…今日も活動ありますか?」
「あ…後輩く、じゃなくて、山本少年。今日も来てくれたんだ!嬉しいよ~」
俺が声をかけ、やっと気が付いたというそぶりを見せた先輩は、どこか上の空。何か悩みでもあるのか。
そのことも気になったが、俺はひとまず今一番伝えるべきであろうことを伝えることにする。
「先輩、俺…」
「うん」
「美術部に…」
「っ…」
「入部しましゅ!」
(あ…)
噛んだ。盛大に嚙んだ。
大事なところでこうやって締まらない。
昔からそういうところあるんだよなぁ、俺。
ってそうじゃなくて!
今は莉佳の前だ、もう一度気を引き締めなければ…!
「ぷっ…あっははははは!!」
(ん…?)
俺が、緩みかけた頬を再び引き締めようとすれば、木と絵の具の香りに包まれたこの部屋に響いたのは、愉快な笑い声。
それは無論、俺が噛んでしまったことに対する笑いなのだが、その笑いのトーンは、大層楽しそうなものだった。
「あはははは!!」
「いや、あの、先輩っ…ふふっ、ははっ、あはは!」
あんまり楽しそうに笑うものだから、俺も気が付けば笑い始めていた。
真面目に話さなければ、なんていう堅いことは、すっかり忘れ去って。
「あーははっ、いやぁ笑ったよ~。こんなに笑ったのは久しぶり。まさかあそこで噛んじゃうなんてね~」
「いや、先輩につられて笑っちゃいましたよ。昔から、最後が締まらないことがあったんですけど、まさかここでもそうなるとはなぁ~」
目じりを軽くぬぐいながら話す莉佳に、俺も少し痛む腹をさすりながら答える。
「まぁともかく、入部してくれるってことでいいんですね、少年?」
「はい。入部して、先輩のもとで、絵を描かせてもらいます」
「っ…なんだよ~、嬉しいこと言ってくれるじゃんか~」
俺の言葉に、一瞬たじろぎ、そして照れたように見えた彼女は、すぐに顔をクシャっとして、俺の肩を優しくたたいてくる。
「ま、とりあえずよろしく、後輩!」
「こっ、こちらこそよろしくお願いしますっ!」
こうして、俺の美術部員としての生活が始まった。
その日はあの後莉佳の付き添いを賜り、職員室で入部届をもらった。
入部には親のサインが必要と言われたので、一度家に持ち帰って翌日提出、ということとなった。
勉強のことには少々口うるさい親だが、それ以外に関してはあまり口を出してこないので、きっと快諾してくれるだろう。
そう、今後への確かな期待を込め、学校を後にした。
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